隣国の若き英雄
バルセーヌ王国との国境を越え、峻厳な山脈を抜けた先に広がるのは、大陸最強の軍事力と広大な領土を誇る「バルドル帝国」である。
王国とは異なり、実力主義と徹底した合理性を重んじるこの帝国では、今、一人の若き支配者が絶大な支持を得ていた。
第四代皇帝、ジュリアス・ヴァン・バルドル。
漆黒の軍服に身を包み、鋭い黄金の双眸と、夜の闇を溶かしたような見事な黒髪を持つ青年だ。弱冠二十四歳にして数々の戦功を挙げ、内政においても劇的な改革を推し進めた彼は、まさに「若き英雄」と呼ぶにふさわしい覇気を放っていた。
そのジュリアスは今、帝国国境の関所にある豪奢な迎賓館で、一人の女性の到着をじっと待っていた。
側近の騎士が、信じられないものを見るような目で彼に尋ねる。
「陛下。本当に、自らここまでお迎えになられるのですか? いくらアウグスト公爵家のご令嬢とはいえ、他国の、それも婚約破棄されて国を追われた令嬢一人に対して、皇帝陛下直々に出向かれるなど前代未聞にございます」
「――お前は何もわかっていないな、ハンス」
ジュリアスは窓の外を見つめたまま、低く、美しい声で笑った。
「彼女はただの『婚約破棄された哀れな令嬢』などではない。バルセーヌ王国の心臓そのものだ。あの愚昧な第二王子は、己の国を支えていた唯一の柱を自らの手でへし折り、ゴミ箱に投げ捨てたのだ。これほど滑稽で、これほど我が国にとって幸運な出来事があるか?」
ジュリアスはかつて、国際会議の場でエリザベートを見かけたことがあった。
他の貴族たちが享楽に耽るなか、一人で完璧な内政資料をまとめ上げ、王国の致命的な欠陥を裏で全て修正していた彼女の知性と、凛とした佇まい。ジュリアスはその瞬間から、彼女の圧倒的な価値を見抜いていたのだ。
「彼女をバルドル帝国に迎える。そのためなら、私は皇帝の座を賭けてもいい。……来たぞ」
窓の外、公爵家の紋章が描かれた豪奢な馬車が、砂煙を上げて静かに滑り込んできた。
馬車の扉が開く。
セバスの手を借りて馬車から降り立ったエリザベートは、旅の疲れを一切感じさせない、非の打ち所がない完璧なドレス姿だった。
その紫の瞳が、自分を待ち受けていた黒髪の偉丈夫――ジュリアスを捉える。
「……バルドル帝国皇帝、ジュリアス陛下。まさか、このような国境の地で、陛下自らのお出迎えをいただくことになるとは、夢にも思いませんでしたわ」
エリザベートは、完璧な淑女の礼を披露した。
ジュリアスはふっと笑みをこぼすと、大股で彼女に歩み寄り、その白く細い手を取って、そっと指先に唇を落とした。その極めて自然で、かつ情熱的な所作に、エリザベートの心臓がわずかに跳ねる。
「ようこそ、我が帝国へ、エリザベート嬢。いや――我が魂の女神よ」
「……女神、でございますか? 私のような、祖国で『可愛げのない不気味な置物』と罵られ、婚約を破棄された女には、少々荷が重い二つ名ですわ」
エリザベートが少し自虐を含んだ微笑みを浮かべると、ジュリアスは黄金の瞳を鋭く細め、真摯な声でそれを否定した。
「あの赤頭の愚か者の戯言など、風に舞う塵ほどの価値もない。あのような無能には、君の知性も、美しさも、その中に秘められた高潔な魔力も、すべてが眩しすぎて理解できなかったのだろう。豚に真珠、いや、ドブネズミに太陽を与えるようなものだったのだ」
ジュリアスの歯に衣着せぬ辛口な物言いに、エリザベートは思わず「ふふっ」と可憐な笑い声を漏らした。
バルセーヌ王国では、常に完璧でなければならず、弱音を吐くことも、自分を正当に評価されることもなかった。だが、この若き皇帝は、出会ったばかりの自分をこれ以上ないほどストレートに肯定してくれる。
「君を歓迎する。君が望むなら、この国のすべてを君に与えよう。まずはゆっくりと旅の疲れを癒やすといい。私の宮殿に、君専用の極上の部屋を用意してある」
「ありがとうございます、ジュリアス陛下。ですが……私はただ甘やかされるだけの『置物』になるつもりはありませんわ。私を国賓として迎えてくださるのなら、それ相応の価値を、この国にお返しいたします」
エリザベートの瞳に、知的な挑戦の光が宿る。
ジュリアスはその光を見て、ゾクゾクするような歓喜を覚えた。これだ。自分が求めていたのは、媚びを売るだけの無能な女ではない。共に並び立ち、国を統べることのできる唯一無二の伴侶だ。
「いいとも。では、さっそく私の相談相手になってほしい。我が国の東部にある荒地と、そこに燻る魔獣の対策について、君の意見を聞きたいと思っていたのだ。……だが、その前に」
ジュリアスはエリザベートの肩に、己の暖かいマントを優しくかけた。
「君を不当に扱い、傷つけたあの国を、私は絶対に許さない。彼らが君を失ったことを血の涙を流して後悔する瞬間を、特等席で見せてあげよう」
「あら……それは、とても楽しみですわね」
二人は視線を合わせ、不敵に微笑み合った。
ここに、世界最強の帝国と、世界最高の知性を持つ令嬢の、最強のタッグが誕生した瞬間であった。
その頃。
バルセーヌ王国の王宮では、不協和音の第一波が押し寄せていた。
「おい、どういうことだ! 財務部の書類の数字が全く合わないぞ!」
王宮の執務室で、レイナルド第二王子が声を荒らげていた。
彼の前には、過労で目の下にひどいクマを作った中堅の官僚たちが、青ざめた顔で立っている。
「で、殿下……! これまでアウグスト公爵家が肩代わりしていた『街道整備の無利子貸付金』がすべて引き揚げられ、さらに公爵家系の官僚たちが一斉に辞表を提出して退官いたしました。そのせいで、現在、王国の物流予算の計算が完全にストップしております!」
「な、なんだと!? あいつら、たかが婚約破棄されたくらいで、国をボイコットするつもりか! 公爵家としての義務を放棄するとは、言語道断だ!」
「さらに……エリザベート様が管理されていた結界魔導具ですが、神殿から来られたマリア様が『触れても何も起きない』と……」
「何?」
レイナルドは眉をひそめ、部屋の隅に置かれた大きな魔導具を見た。
美しい水晶が埋め込まれたその魔導具は、かつてエリザベートが触れるだけで、王都全体を包む防壁を維持していたものだ。
「マリア、どうしたんだ? 君の『聖女の魔力』で、さっと動かして見せてくれ」
促されたマリアは、引き攣った笑みを浮かべながら魔導具の前に立った。
「う、うん……! 任せてください、殿下! 私、聖女様ですものぉ!」
マリアは胸の前で手を合わせ、うるんだ瞳で魔導具を見つめた。
「えいっ……! あ、あのお……結界さん、動いてくださいぃ……!」
シーン、と静まり返る執務室。
魔導具は、ピクリとも動かない。それどころか、エリザベートのサイン(魔力認証)が消去された魔導具は、ただの重い冷たい石の塊と化していた。
「あ、あれぇ……? おかしいなぁ。きっと、お姉様が嫌がらせで、魔導具に呪いをかけていったに違いありませんぅ! ひどいです、私、お姉様に意地悪されちゃいましたぁ……!」
マリアはすぐに涙を浮かべ、レイナルドの胸に飛び込んだ。
「お姉様、私が聖女として活躍するのが羨ましくて、嫌がらせをしたんですぅ! 私、怖くて……頭が痛くなってきちゃいましたぁ……」
「な、なんて卑劣な女だ、エリザベート……! 国を守るための魔導具にまで呪いをかけていくとは! マリア、大丈夫かい? 君は何も悪くない。すべてはあの冷血女の陰謀だ!」
レイナルドはマリアを抱きしめ、エリザベートへの憎悪を募らせる。
しかし、冷ややかにそれを見つめる周囲の官僚たちの心境は、まったく異なるものだった。
(……呪いなわけがないだろう。アウグスト公爵令嬢がご自身の魔力を解除して引き払われただけだ。そんなことも見抜けないのか、このバカ王子は)
(聖女とやらも、祈るだけで魔導具が動くと思っているのか? 術式の基礎すら学んでいない平民の小娘に、国家防衛の結界を任せるなど、狂気の沙汰だ……)
官僚たちの心に、確かな「絶望」と「諦め」の種が植え付けられた。
そして、エリザベートが残していった『一ヶ月分の予備魔力』の砂時計は、無情にもサラサラと音を立てて削れ始めていた。
(第4話へ続く)




