お荷物はそちらです
建国記念パーティーでの、あの華々しい「婚約破棄宣言」から一夜が明けた。
王都の一等地にそびえ立つアウグスト公爵邸の執務室では、静謐な空気のなか、羽根ペンの走る小気味よい音だけが響いていた。
「お嬢様。王家へ提出する『各種支援および魔導契約の解除申請書』、すべて準備が整いました」
そう言って恭しく一礼したのは、アウグスト公爵家に長年仕える老執事のセバスだった。その表情は、昨日あれほど無礼極まる扱いを受けた主への同情と、王家に対する冷ややかな怒りに満ちている。
「ありがとう、セバス。手際が良くて助かるわ」
エリザベートは、徹夜で書類を整理していたとは思えないほど、いつもと変わらぬ凛とした美しさを保ったまま微笑んだ。彼女の前に積み上げられているのは、アウグスト公爵家が王家、ひいては国に対して無償で提供していた超一級の権利や魔導契約書の数々だ。
「これですべてね。……ふふ、こうして並べてみると、本当によくもまあ、これほどの暴利を無償で提供し続けていたものだわ」
「左様にございます。王家は、アウグスト公爵家の財力と、何よりお嬢様の『比類なき魔力と頭脳』を、まるで湧き出る泉の如く当然のものとして使い潰しておりました。第二王子殿下のあの暴言は、我が公爵家に対する明確な宣戦布告と受け止めても差し支えございません」
「お父様もお怒りでしょう?」
「はい。旦那様は昨晩、知らせを聞いた瞬間に『あの赤頭の生え際をすべて引きちぎってやろうか』と激昂されておりました。現在は、王宮の財務閥にいる我が公爵家系の官僚たちを引き揚げる手続きのため、すでに登城されております」
「ふふ、お父様ったら。でも、これでようやく肩の荷が下りたわ」
エリザベートは、窓の外に広がる王都の美しい景色を眺めた。
この美しい王都を魔獣の脅威から守っているのは、国境と王都外周に張り巡らされた「大結界」である。そしてその結界の術式を構築し、個人の膨大な魔力で維持していたのは、他でもないエリザベートだった。
さらに、国の予算の管理、関税の調整、街道の整備計画にいたるまで、第二王子レイナルドの「実績」とされていたものは、すべてエリザベートが夜を徹して書き上げたものだ。
「私が引き継いだ書類の原本と、結界の鍵魔導具はすべて王宮へ返却します。ただし――」
エリザベートの紫の瞳に、冷徹な光が宿る。
「私の魔力で維持していた『大結界』の防壁は、本日から私の魔力供給を完全にストップします。王宮には『魔導具に蓄積された予備魔力』が約一ヶ月分残っていますが……それを過ぎれば、結界は自ずと消滅するでしょう。まあ、あちらには『素晴らしい光の魔力を持つ聖女様』がいらっしゃるのですから、何の問題もありませんわね?」
「おっしゃる通りでございます。お嬢様の崇高な魔力を、これ以上あの愚か者たちのために浪費する必要など、万に一つもございません」
そのとき、執務室の扉がけたたましく叩かれた。
現れたのは、息を切らせた若い公爵家の使者だった。その手には、王家の紋章が刻まれた一本の極めて無礼な書状が握られている。
「エ、エリザベート様! 王宮の第二王子直属の使者から、緊急の書状が届きました! 内容が、その……あまりにも……」
「構いません、読みなさい。セバス」
セバスが書状を受け取り、一読する。その瞬間、温厚な老執事の額に、ピキリと青筋が浮かんだ。セバスは極めて不愉快そうに、しかし努めて冷静にその内容を読み上げた。
『不実なる元婚約者、エリザベート・フォン・アウグストへ。
貴様がこれまで婚約者の立場を利用し、王家から得ていた予算および特権はすべて剥奪する。また、貴様が嫉妬からマリアに行った嫌がらせの慰謝料、ならびにこれまで王家の内政予算から着服していたとみられる使途不明金の返還として、金貨五千枚を三日以内に支払え。
なお、貴様が管理していた「結界魔導具」は、我が最愛の婚約者であり本物の聖女であるマリアが引き継ぐ。マリアは心優しく、貴様のように傲慢ではないが、不慣れな部分もある。よって、貴様が使っていた私物の魔導具や、結界の維持術式のノウハウが書かれた魔導書は、すべてマリアに「譲渡」せよ。これは王命である。
追伸:マリアは、貴様が愛用していた王宮の執務室の家具や、特注の紅茶セットも気に入っている。それらもそのまま置いていくように。
――第二王子、レイナルド・ド・バルセーヌ』
読み終えたセバスは、書状を握りつぶさんばかりの手の震えを抑え、冷たく言い放った。
「……失礼いたしました。あまりにも醜悪な戯言ゆえ、舌が腐りそうになりました」
「いいえ、素晴らしいわ、セバス。ここまで頭の悪い文章は、そうそうお目にかかれるものではありませんもの。思わず感心してしまったわ」
エリザベートは、くすくすと声を立てて笑った。
金貨五千枚の請求。使途不明金という名の、でっち上げの罪。そして、結界のノウハウが詰まった一子相伝の魔導書の譲渡要求。挙句の果てには、お気に入りの家具や紅茶セットまで奪おうというのだ。
「『マリアは心優しく、貴様のように傲慢ではない』……。なるほど、他人の努力の結晶を、甘えた声一つでタダで手に入れようとする寄生虫のことを、この国では『心優しい』と呼ぶのね。勉強になったわ」
「いかがいたしますか、お嬢様。このような不当な要求、我が公爵家の権力をもってすれば、一瞬で握りつぶせますが」
「いいえ、要求されたものは『すべて』引き渡しましょう」
「……は? お嬢様、よろしいのですか?」
セバスが驚きに目を見開く。
「ええ、ただし『言葉通り』にね。金貨五千枚は、これまで私が王家に無償で貸し付けていた公爵家の資金から、同額を相殺した旨の領収書を送りつけてあげなさい。そして、結界魔導具と魔導書については――私の署名と魔力認証をすべて消去した『初期状態』のものを、そのまま王宮へ送りなさい。マリア様は『本物の聖女様』なのですから、解説書などなくても、触れただけで使いこなせるはずでしょう?」
エリザベートの笑みは、完璧でありながらも、絶対的な死の宣告を含んでいた。
エリザベートの結界魔導具は、彼女の超高密度の魔力を通すことを前提に作られた特注品だ。魔力制御の技術が未熟な者が触れれば、最悪の場合、魔力が暴走して使い手の精神を破壊するか、あるいは魔導具そのものが塵となって砕け散る。
もちろん、他人の努力を盗むことしか能のないマリアに、それを制御できるはずがなかった。
「家具や紅茶セットも、どうぞお好きなだけ使っていただきましょう。私に馴染んだ魔力の残滓が残る部屋で、あの泥棒猫がどれだけ精神を削られるか、見ものですわ。……さて、セバス。この国での身辺整理はこれで終わりよ。隣国への出発の準備を進めてちょうだい」
「畏まりました。隣国のバルドル帝国からは、すでに皇帝陛下直々の署名が入った特使が、国境でお嬢様をお迎えする準備を整えてお待ちとのことでございます」
「ええ。私を『可愛げのない不気味な置物』と呼んだ王子と、『か弱くて何もできない』ことを武器にする泥棒猫が、私なしでこの国をどうやって維持していくのか……。ふふ、遠くから見守らせていただくわ」
一方、その頃。
王宮の一角にある、かつてエリザベートが使っていた豪奢な執務室。
「うわぁ……! すごいです、レイナルド殿下! この机、とっても大きくて、お花の良い香りがしますぅ!」
マリアは、エリザベートが愛用していたローズウッドの高級机を撫で回し、はしゃいだ声を上げていた。その下品な仕草は、とても聖女と呼ばれるにふさわしいものではなかったが、隣に立つレイナルドは、鼻の下を伸ばして満足そうに頷いている。
「気に入ってくれたかい、マリア? ここは昨日まで、あの可愛げのない冷血女が使っていた部屋だ。だが今日からは、僕の愛しいマリアのものだよ。あいつが持っていた便利な結界魔導具も、今こちらに運ばせているからね」
「まあ! 嬉しいですぅ! 私、殿下のお役に立ちたくて……お姉様の代わりを頑張らなきゃって、昨日は緊張で一睡もできなかったんですぅ」
そう言って、マリアはレイナルドの胸に頭を擦り寄せた。
「嘘をおっしゃい」と突っ込む人間は、この部屋にはいない。実際には、昨晩は婚約者になれた喜びで、公爵家から奪う予定のジュエリーのカタログを夜通し眺めていただけなのだが、レイナルドは「なんて健気なんだ!」と感動に目を潤ませている。
「本当にマリアは優しいな。あんな嫌がらせばかりする女の仕事を引き継ぐというのに、国のことを第一に考えてくれるなんて。あいつは僕の書状に対して、金貨の支払いを拒否し、さらには結界魔導書の解説すらつけてこなかった。どこまで性根の腐った女なのだ!」
「えっ……解説書がないんですか?」
マリアの顔が、一瞬だけ引き攣った。
「ああ、だが心配いらないよ。あいつが使っていた魔導具は、すべて最高級の一級品だ。マリアの素晴らしい『聖女の光』さえあれば、そんな小難しい本など読まなくても、魔導具に触れるだけで簡単に結界は動くさ。あいつはただ、自分を優秀に見せるために難しく見せていただけなんだからね」
「そ、そうですよねぇ……! 私、聖女様ですもの! お姉様みたいに、冷たいお勉強ばかりして威張っている女の人とは違うんですぅ」
マリアは胸を撫で下ろし、あざとく微笑んだ。
(そうよ、あんなお堅い結界魔法なんて、私がちょちょいって祈れば、自動的に動くに決まってるわ。魔導具なんて、ただのスイッチみたいなものでしょ?)
甘い。あまりにも甘すぎる見積もり。
プロの職人が数十年かけて築き上げた緻密なシステムを、ただの「素人の祈り」で動かせると思っているのだ。
「さあ、マリア。今日は記念すべき、僕たちの新しい執務の初日だ。お祝いに、あいつが残していった最高級の紅茶を淹れさせよう」
「はい、殿下! ふふ、私、殿下のために一生懸命、甘いお紅茶を淹れますねぇ!」
二人は、エリザベートという「巨大な支柱」を失った王国が、すでに内側からゆっくりと崩壊し始めていることに、まだ全く気づいていなかった。
王宮の地下、張り巡らされた魔法結界の基層が、かすかな不協和音を立てて軋み始めたのは――まさにこの瞬間のことであった。
(第3話へ続く)




