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プロローグ

「エリザベート・フォン・アウグスト公爵令嬢! 貴様との婚約を、本日この場を以て破棄する!」

 きらびやかなシャンデリアが照らす、王宮の大夜会。

 建国記念を祝うために集まった数百人の貴族たちで埋め尽くされた大広間に、裂帛れっぱくの叫びが響き渡った。

 声の主は、この国の第二王子であるレイナルド・ド・バルセーヌ。

 燃えるような赤髪をきれいに整え、一見すれば見栄えのする美男子だが、その端正な顔は今、傲慢な怒りと歪んだ優越感に染まっている。

 その隣には、一人の少女が寄り添っていた。

 男爵家の庶子であり、最近「聖女」として神殿に召し上げられたばかりの娘――マリア・ミルフィ。

 ふんわりとした波打つ栗色の髪に、今にも零れ落ちそうなうるんだ瞳。彼女は怯えたようにレイナルド王子の袖をきゅっと掴み、これ見よがしに身を寄せている。

「……婚約破棄、でございますか。レイナルド殿下」

 糾弾の的となった公爵令嬢、エリザベートは、手にしていた扇を静かに畳んだ。

 冷徹なまでに美しい、漆黒の髪と深い紫の瞳。完璧な姿勢、一切の無駄がない優雅な所作。彼女のまとう空気は、まるで吹雪のなかに咲く氷の薔薇のようだった。

 動揺の欠片すら見せないエリザベートの態度に、レイナルドは侮られたと感じたのか、青筋を立てて声を荒らげる。

「そうだ! しらばっくれるな! 貴様が裏で、この心優しくか弱いマリアにどれほどの嫌がらせを行ってきたか、すべて把握しているぞ! 教科書を引き裂き、ドレスに泥水をかけ、挙句の果てには階段から突き落とそうとしたな!」

「殿下、もうおやめください……!」

 マリアが、消え入りそうな震える声でレイナルドを遮るように言った。その瞳からは、はらはらと美しい涙が零れ落ちている。

「私が……私が至らないばかりに、お姉様を怒らせてしまったのです。お姉様は公爵家のご令嬢で、お勉強も魔法も完璧で……私のような、なにもできない役立たずが殿下のお隣にいるのが、お許しになれなかったのだと思いますぅ……」

「マリア……! なんて健気なのだ、お前は……!」

 レイナルドは胸を打たれたようにマリアを抱き寄せ、エリザベートを蛇蝎だかつのごとく睨みつけた。

「聞いたか、エリザベート! マリアはこれほど傷つきながらも、貴様を庇おうとしているのだ! それに比べて貴様はなんだ! その冷酷な目、非の打ち所がないとでも言いたげな傲慢な態度! 男の庇護欲をこれっぽっちも刺激しない、不気味な置物め!」

 周囲の貴族たちから、ひそひそとした囁き声が漏れる。

 しかし、その多くはエリザベートへの軽蔑ではなく、王子のあまりの愚行に対する困惑と、マリアへの冷ややかな視線だった。

 だが、恋という名の毒に脳まで侵された王子と、自分が世界の中心にいると信じて疑わないマリアには、その冷気レイキに満ちた視線が「エリザベートへの非難」に見えているらしかった。

「お言葉ですが、レイナルド殿下」

 エリザベートは、氷の瞳のまま静かに口を開いた。

「私がマリア様を階段から突き落とした、と。それはいつ、どこでのことでしょうか? その場に証人はおいででしたか?」

「うるさい! マリアが『突き落とされそうになって怖かった』と言っているのだ! それが何よりの証拠だ! お前はいつも『王妃教育が忙しい』『内政の予算案を作らねばならない』と、冷たい言い訳ばかりして僕を蔑ろにしてきた。だが、マリアは違う! 僕が執務室を訪ねれば、いつも『殿下ぁ、お仕事お疲れ様ですぅ。お紅茶をどうぞ』と、僕を癒やしてくれた。僕が守ってあげなければ、この子は生きていけないのだ!」

(……それは、ただ単に彼女が仕事を邪魔しにきていたというだけでは?)

 エリザベートは内心で、深い、深いため息をついた。

 実際、レイナルドに割り振られた内政の仕事は、そのすべてをエリザベートが裏で代わりに処理していた。彼が「僕の優秀な頭脳が弾き出した予算案」と誇っていた書類は、エリザベートが寝る間も惜しんで、数字の辻褄を合わせ、実務レベルにまで修正したものである。

「マリアは本物の『聖女』だ。その類まれなる光の魔力で、我が国の結界をさらに強固にしてくれる。貴様のような、冷たくて可愛げのない女など、もう我が王家には不要なのだ。これまでの婚約者という地位にかまけて、我が国から不当に得ていた特権や予算も、すべて剥奪する!」

「……そうですか。私が国のために尽くしてきたすべての仕事、そして我が公爵家が王家に提供してきた技術や資金も、殿下にとっては『不要なお荷物』だったのですね」

「ふん、言い訳は見苦しいぞ! 貴様の行ってきた『仕事』とやらなど、僕たちの功績を横取りしただけの、ただの飾り仕事だろうが! お前のような冷血女がいなくなって、ようやくこの国も風通しが良くなるというものだ!」

 レイナルドは勝ち誇ったように笑い、マリアの肩を抱き寄せた。

 マリアはエリザベートに視線を向けると、レイナルドに見えない角度で、フッと口元を歪めて勝ち誇った歪な笑みを浮かべた。

(勝った。これで私が、この国の次の王妃様よ。あの偉そうな公爵令嬢も、これでただの惨めな捨て犬ね……!)

 そんな下劣な心の声が透けて見えるような、醜い笑みだった。

「わかりました」

 エリザベートは、すっと頭を下げた。

 その動作はあまりにも美しく、非難されている罪人とは到底思えないほど、気品に満ちていた。

「レイナルド殿下。そこまで強くお望みでしたら、この婚約、喜んで破棄させていただきます。どうぞ、そちらの『素晴らしい聖女様』と、お幸せにお過ごしくださいませ」

「……なっ!?」

 レイナルドは、エリザベートのあまりの潔さに拍子抜けした。

 泣いて縋り付くか、あるいはヒステリックに怒り狂うとばかり思っていたのだ。それが、まるで「鬱陶しいゴミをようやく処分できて清々した」とでも言わんばかりの、涼しげな微笑みさえ浮かべている。

「これより私どもアウグスト公爵家は、王家に対するすべての支援を打ち切らせていただきます。また、私が個人で施していた各種の術式、王宮の書類、内政の引き継ぎにつきましても――『不要』とのことですので、本日この瞬間を以て、すべて破棄クリアいたしますわ」

「は、ハッ! 強がりおって! マリアがいれば、お前の代わりなどいくらでも務まる! さあ、消え失せろ、不浄な泥棒猫め!」

「それでは、失礼いたします。――皆様、素晴らしい夜会を、どうぞ最後までお楽しみくださいませ」

 エリザベートは凛とした足取りで、一度も振り返ることなく大広間を去っていった。

 その背中は、敗者どころか、まるでくびきから解き放たれた鳥のように自由で、神々しくすらあった。

 残された会場には、異様な静まり返った空気が漂っていた。

 だが、恋の熱病に浮かされた王子と、念願の地位を手に入れて有頂天な略奪女だけは、これから自分たちを待ち受ける本当の地獄に、まだ一歩も気づいていなかったのである。

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