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エピローグ

バルドル帝国に「真の女神」が戴冠してから、一年の月日が流れた。

 かつて荒廃と混沌の象徴であった帝国東部のザクセン領は、今や「帝国の至宝」と呼ばれるほどの変貌を遂げていた。

 エリザベートが再構築した魔導結界は、有毒な瘴気を完全に遮断するだけでなく、大気中の魔力を適度に循環させることで、大地の作物を豊かに実らせていた。かつて魔獣に怯えていた開拓民たちは、今では「エリザベート皇后陛下のおかげで、今年は過去最高の収穫量だ!」と、毎日笑顔で汗を流している。

 そして帝都の皇宮「鳳凰宮」の一角にある、エリザベート専用の広大な温室庭園。

 そこには、一年前には見られなかった、穏やかで甘やかな空気が満ちていた。

「――ふふ、いい子ね。今日も元気に咲いてちょうだい」

 エリザベートは、ガラス越しに差し込む柔らかな木漏れ日の下、美しい大輪の薔薇にじょうろで水をやっていた。

 彼女の装いは、動きやすさを重視した、しかし仕立ての良さが一目でわかる上質なライトブルーのドレス。漆黒の美しい髪は緩やかにハーフアップにまとめられ、表情にはかつての「氷の薔薇」と恐れられた冷徹さはなく、慈愛に満ちた柔らかな微笑みが浮かんでいる。

 その時、温室の扉が静かに開いた。

 入ってきたのは、上質なトレイに紅茶セットを載せた老執事、セバスだった。

「お嬢様……おっと失礼いたしました、皇后陛下。お茶の準備が整いました。本日は、ザクセン領から献上された、今年の一番茶をブレンドした特製のアールグレイでございます」

「ありがとう、セバス。ここでは昔のように『お嬢様』と呼んでくれて構わないのよ?」

「ふふ、お気持ちは嬉しゅうございますが、現在の陛下は帝国の国母であらせられます。……もっとも、あの若き皇帝陛下が、誰よりもそのお呼び方を独占したがるでしょうが」

 セバスが茶目っ気たっぷりに微笑むと、エリザベートは少し頬を染めて、くすくすと上品に笑った。

 公爵家とともに帝国へ移住したセバスは、今や皇宮の「特別侍従長」として、エリザベートの身の回りの世話を一手に引き受けている。彼の表情からも、かつて王国で募らせていた心労は完全に消え去り、誇らしげな輝きが満ちていた。

「そういえば、セバス。お父様(アウグスト公爵)の様子はいかがかしら?」

「はっ。旦那様は現在、帝国の内政顧問として、毎日皇帝陛下と熱い議論を交わされております。王国時代とは違い、進言した政策が翌日には予算化されて実行されることに、大変なやり甲斐を感じておられるご様子で……『もっと若い頃に帝国に転職しておくべきだった』と零しておられました」

「ふふ、お父様ったら。でも、本当に良かったわ」

 エリザベートは、温かい紅茶を口に含み、深く息を吐いた。

 自分の知性や能力が、誰かの野望のために搾取されるのではなく、国を豊かにし、人々を笑顔にするために正当に使われる。そして、それを支えてくれる家族や臣下たちもまた、幸せに暮らしている。

 これこそが、彼女が心の底から求めていた「完璧な世界」だった。

 ――その時、温室の背後から、エリザベートを包み込むような温かい温もりが寄り添ってきた。

「――私の愛しい皇后は、今日も世界で一番美しいな」

 聞き慣れた、低く心地よい声。

 漆黒の軍服をルーズに着崩したジュリアスが、エリザベートの細い腰を後ろからそっと抱きしめ、彼女の白い首筋に優しく口づけを落とした。

「ジュリアス。……また執務を抜け出してきたのですか? 閣僚たちが困り顔で待っていますわよ」

「気にするな。今日の分の重要書類はすべて、午前中のうちに片付けた。君に早く会いたくて、少々本気を出したのだ」

 ジュリアスは黄金の瞳を愛おしそうに細め、エリザベートを自分の胸の中にすっぽりと収めた。

 どれほど国務が忙しくとも、彼は一日に何度もエリザベートの元を訪れ、その姿を視界に収めては、子供のように甘えてくるのだ。帝国最強の覇王と恐れられる男の、この凄まじい「大溺愛」ぶりには、宮廷の誰もが微笑ましく頭を抱えていた。

「それに、君が淹れてくれた紅茶を飲む時間が、私の何よりの特効薬なのだ。……ああ、やはり君の隣こそが、私の唯一の安らぎの場所だ」

「もう、口が上手いですわね。……はい、お紅茶です。どうぞ召し上がれ」

 エリザベートが微笑みながらカップを差し出すと、ジュリアスはそれを嬉しそうに受け取り、二人は並んでベンチに腰掛けた。

 心地よい風が温室を吹き抜け、二人の甘い時間が静かに流れていく。

「そういえば、エリザベート」

 ジュリアスはカップを置くと、ふと思い出したように、しかし極めて冷淡な口調で言った。

「例の『二匹の虫けら』について、バルセーヌ保護領の監査官から定期報告が届いたぞ。聞きたいか?」

 エリザベートは、少し首を傾げた。

「……もう、随分と遠い昔のことのように思えますわね。ええ、少しだけなら伺いましょうか」

「ふん、相変わらず寛大だな。……まず、あの赤頭の元王子、レイナルドだ」

 ジュリアスの瞳に、冷徹な光が宿る。

「鉱山での強制労働だが、奴は元より体力など皆無の温室育ちだ。今や、まともにシャベルを握る力も残っていないらしい。周囲の凶悪な囚人たちからも『使えない無能』と毎日虐げられ、ドブのような泥水をすする毎日だそうだ。奴の唯一の娯楽は、独房の壁に『エリザベート、すまない』と、血の混じった爪で君の名前を刻み続けることらしいぞ」

「……まあ。そんな無駄な体力があるなら、もっと魔鉱石を掘ればよろしいのに」

 エリザベートは、完璧な淑女の微笑みを崩さず、実にあっさりと切り捨てた。

 かつて自分を裏切り、泥棒呼ばわりした男が、どれだけ地獄の底で泣き叫ぼうが、彼女の心に響く同情などは一滴も残っていなかった。

「そして、もう一人の泥棒猫――マリアだが」

 ジュリアスは、さらに侮蔑に満ちた声で続ける。

「地下牢の独房で、完全な狂気に取り憑かれたようだ。毎日、ボロボロになったドレスの切れ端を握りしめ、『私は聖女よぉ!』『お姉様、その綺麗なドレスを私にちょうだい!』と、誰もいない壁に向かって叫び続けているらしい。看守たちも薄気味悪がって、今では食事を投げ入れる時以外、誰も近づかない。ただ暗闇の中で、自身の醜い妄想と強欲に焼き尽くされながら、死を待つだけの置物と化している」

「そう、ですか……」

 エリザベートは、ゆっくりとカップをソーサーに戻した。

 かつて、泣き真似と甘えた声だけで、他人の努力を奪い取ろうとした少女。

 自らの足で立つ努力を怠り、他人に寄生することだけを求めた結果が、陽の光すら届かない暗闇の独房での「完全な孤独」であった。彼女にとって、これ以上の因果応報はないだろう。

「これで、本当にすべてが終わりましたわね。ジュリアス」

「ああ。奴らはもう、二度と君の前に現れることはない。我が女神よ」

 ジュリアスはエリザベートの手を優しく握り、その白く細い指先に、誓いを新たにするように熱い口づけを落とした。

「これからの君の人生は、光と、祝福と、私の愛だけで満たされる。約束しよう、エリザベート。私は生涯をかけて、君を世界一幸せな女性にしてみせる」

「ふふ、もう十分に幸せですわ、ジュリアス」

 エリザベートは、ジュリアスの肩に優しく頭を預けた。

 窓の外には、どこまでも青く澄み切ったバルドル帝国の空が広がっている。

 かつて「完璧すぎる」と捨てられた氷の令嬢は、今、自らを選んでくれた唯一無二の伴侶と共に、煌びやかな光に満ちた新時代を、どこまでも幸せに歩んでいく。

 不実なる者たちに下された絶対的な終焉と、真の高潔さに贈られた至上の幸福。

 二人が紡ぐ愛の円舞曲ワルツは、この先もずっと、帝国の繁栄とともに美しく響き続けるのであった。

(――エピローグ・完――)

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