墜ちたピエロと戴冠
バルドル帝国の鳳凰宮での歴史的な「断罪劇」から、二ヶ月の月日が流れた。
かつて栄華を極めたバルセーヌ王国は、今や事実上の消滅を遂げていた。
大結界が崩壊したことで魔獣の侵入を防げず、国家財政は破綻。重鎮や優秀な官僚たちが雪崩を打って帝国へ亡命したため、国としての機能を完全に失ったのだ。
最終的に王国は、バルドル帝国からの治安維持を目的とした「保護領」としての編入を受け入れ、その歴史に静かに幕を下ろした。
そして、その崩壊の引き金を引いた愚者たちの「その後」は――まさに生き地獄そのものであった。
「おい! 手を動かせ、手を! だらだらと突っ立っているんじゃない!」
バシィッ! と激しい鞭の音が、薄暗く土臭い鉱山の奥底に響き渡った。
「ぐはっ……! う、ううう……っ」
湿った地面に倒れ込み、泥と煤にまみれて呻いているのは、レイナルドだった。
かつての艶やかな赤髪は見る影もなくボサボサに荒れ果て、きらびやかだった衣裳は泥に汚れたボロ布へと変わっている。彼が今身につけているのは、罪人であることを示す鉄の首輪と鎖だけだ。
王籍を剥奪され、廃太子となったレイナルドに下された判決は、国家転覆未遂罪、ならびに国難誘発罪による【生涯未決の強制労働刑】。
彼が今いるのは、魔導具の原材料となる魔鉱石を採掘する、陽の光すら届かない地下深奥の鉱山だった。
「ひ、冷たい……。お腹が空いた……。なぜ、なぜ僕が、こんなところで泥水をすするような真似をしなければならないんだ……」
レイナルドは、引き裂かれた手のひらを見つめて涙を流した。
かつては、自分が指を一本動かすだけで、極上の食事と完璧に処理された内政書類が目の前に差し出された。だが、それは自分の「王子の威光」によるものではなく、すべてエリザベートという偉大な存在が裏で彼を支え、守っていたからだったのだ。
「エリザベート……。すまない……、僕が悪かった……。戻ってきてくれ、僕をここから救い出して、また昔のように優しく笑ってくれ……!」
レイナルドは暗闇のなか、存在しない元婚約者の名を呼んで咽び泣いた。
だが、その声に応えるのは、冷酷な看守が振るう非情な鞭の音だけだった。
一方、王宮の最下層にある、陽の光が一切届かない湿った石造りの特別地下牢。
そこには、一人の女がうずくまっていた。
「ううっ……。私、か弱い女の子なのにぃ……。こんな冷たくて汚い部屋に閉じ込めるなんて、あんまりですぅ……」
マリアだった。
彼女は、泥と失禁の跡で変わり果てたピンクのドレスの残骸を抱きしめ、牢獄の格子窓に向かって、掠れた声でブツブツと呟き続けていた。
マリアに下された判決は、聖女を騙った詐欺罪、国家予算の横領罪、そして帝国皇后に対する不敬・暗殺未遂罪による【終身禁錮刑】。
彼女には、生涯、この地下3メートルに作られた暗闇の独房から出ることは許されない。
「誰か……誰か私をここから出してぇ……。私、可愛いマリアですよぉ? 殿下ぁ、お買い物に行きたいですぅ……。あの綺麗なダイヤモンドの王冠が、私を待っているんですぅ……」
しかし、彼女がどれだけ「か弱いアピール」をして嘘泣きを浮かべても、鉄格子の向こうに立つ看守たちは、ピクリとも表情を変えなかった。
「おい、またあの狂女がぶつぶつ言ってるぞ」
「放っておけ。男を騙して国を滅ぼした、薄汚い泥棒猫の末路だ。一生そこで、自分が犯した罪に怯えながら腐っていくのがお似合いさ」
看守たちはゴミを見るような目を一瞬だけ向け、すぐに去っていった。
静まり返った地下牢。マリアは、かつてエリザベートから奪い取り、唯一没収されずに手元に残った、傷だらけで輝きを失ったサファイアのペンダントを握りしめた。
「どうして……どうして私がこんな目に……。私はただ、おねだりしただけなのにぃ……。お姉様……お姉様ぁ、助けて……」
かつて自分が「不気味な置物」と嘲笑った相手に、今さら縋ろうとする強欲さ。
しかし、その枯れ果てた叫びが、煌びやかな光の世界に届くことは二度となかった。
バルドル帝国の帝都「ヴァルハラ」。
雲一つない青天の下、帝国は大歓声に包まれていた。
今日は、皇帝ジュリアスと、新たな皇后エリザベートの結婚式、ならびに戴冠式の日である。
皇宮のバルコニーに二人が姿を現した瞬間、広場を埋め尽くした数十万の市民から、地を揺るがすほどの祝福の歓声が巻き起こった。
「エリザベート皇后陛下、万歳!」
「我が国を救ってくださった、真の女神に栄光あれ!」
市民たちの瞳には、熱烈な敬愛と感謝の光が宿っている。
エリザベートが構築した新しい内政システムと、ザクセン領の完全なる浄化により、帝国はかつてないほどの豊かさと繁栄を享受していた。彼女の実力と努力は、いまや帝国のすべての臣民に正当に評価され、心から愛されていた。
エリザベートは、純白のシルクに最高級のダイヤモンドを散りばめた、眩いばかりのウェディングドレスを身にまとっていた。
その隣に立つジュリアスは、世界で最も幸せな男として、誇らしげに彼女の腰を抱き寄せる。
「誇らしいな、エリザベート。君を私の妻として、この国の皇后として迎えることができた。これこそが、私の生涯で最大の勝利だ」
「ふふ、大袈裟ですわ、ジュリアス」
エリザベートは、かつての氷のような冷たさを完全に消し去り、心からの、極めて美しく可憐な微笑みをジュリアスに向けた。
「でも、私もとても幸せです。……私の知性を、私の努力を、そして私という存在をそのまま愛してくださるあなたに出会えて、本当によかった」
「ああ。私は生涯をかけて君を愛し、敬い、大溺愛すると誓おう。君を傷つけるものは、この世界のどこを探しても二度と現れはしない」
ジュリアスは黄金の瞳を優しく細めると、エリザベートの顎をそっと持ち上げ、何十万もの臣民の前で、深く、甘い誓いの口づけを交わした。
割れんばかりの拍手と、祝福の鐘の音が、どこまでも広がる青空に響き渡る。
完璧すぎると捨てられた令嬢は、お望み通りにすべてを放棄し、今、世界で最も幸福な「本物の女神」として、最愛の伴侶と共に新たな未来を歩み始めたのだった。
(――完――)




