69話 不幸な楽園
ピュピュアと名乗るあの悪趣味なAIが消え去った後、現実世界への帰還プロセスはひどくあっけなく、そして事務的に進められた。
『バイタルサイン、正常。覚醒プログラムを完了しました。現実世界への帰還を歓迎します』
無機質なAIの自動音声が、殺風景な部屋に響く。
ダイブポッドのハッチが開き、ゼリー状の培養液が素早く排出されていく。そこに人の温もりや感情の介在する余地はない。あらかじめ決められたマニュアル通りに、システムが迅速かつ完璧に彼女の肉体を処理しただけだ。
よろめく足取りでポッドから這い出し、洗面台へと向かう。
鏡を見つめ、そこに映る自身の姿に、ルスラは小さく自嘲の笑みを漏らした。
鏡の向こうにいるのは、瑞々しく張りのある肌を持った、三十代でも通じる若さだ。
死の賢者としての、あの深く刻まれたシワもない。知を蓄えた白髪もない。だが、実際の年齢がこの見た目通りに若いわけではなかった。
医療技術の圧倒的な進歩が、細胞の老化を完璧にコントロールしているだけ。老いずに若さを維持し続けることは、この時代において呼吸をするのと同じくらい当たり前のことだった。
『Gnosis Online』にダイブする前の記憶は、ひどく曖昧だ。
いや、正確には、思い出したところで胸を熱くさせるようなものが何一つないというのがより正しいか。
配偶者もいないし、子供もいない。
AIによってすべてが完璧に管理され、人類が『労働』という義務から解放されたこの世界において、わざわざ家族を作り、子を育てるという行為は、今や一部の物好きだけが嗜む道楽でしかなかった。
人類は飢えを克服した。
働かなくても、清潔な住居と栄養満点の食事が自動で提供され、誰もがそこそこ豊かで、満足できる生活が保証されている。
だが、それが『幸せ』かどうかは、まったく別の話だ。
すべての仕事、すべての役割はAIに奪われた。人間が社会に貢献し、誰かから必要とされる余地など、この世界のどこにも残されていない。
ならば娯楽はどうか。
例えば、そう、かつて人々を熱狂させたスポーツ。
それすらも、今や見る影もない。
人間は生まれ落ちた瞬間に遺伝子を完全に解析され、どんな才能を持っているかが数値化されてしまう。どのようなトレーニングを積み、一秒単位でどんなスケジュールをこなせば、将来どのレベルの選手になれるのか。その結果は、努力を始める前からAIによって完璧にシミュレーションできてしまう。
もちろん、その解析でトッププレイヤーの才能があると保証された一握りの人間にとっては、良い世界だろう。だが、そうではない大半の凡人にとっては、努力する機会すら奪われたに等しい。
それは、ゲームという娯楽でも同じだ。
フルダイブ式の仮想ゲームなんて、今どき掃いて捨てるほど溢れている。
硝煙の匂いや弾丸が空気を裂く熱まで完璧に再現されたサバイバル銃撃戦も、星間国家の艦隊を指揮して知略を競う壮大な戦略シミュレーションも、あるいは剣と魔法を駆使する王道のアクションRPGでさえも。誰もが安全なポッドの中から、無限に用意された魅力的な世界へ手軽にアクセスできる。
しかし、どれほど多様でリアリティ溢れる刺激的なゲームが用意されていようと、行き着く先は残酷な『才能の品評会』でしかない。
反射神経、脳の処理速度、空間把握能力、果ては動体視力からマルチタスクの限界値に至るまで。
ログインなんてしなくたって、ゲームを始める前に完璧に解析されてしまうのだ。
『あなたの神経伝達速度では、この銃撃戦においてトップランカーの反応速度を上回ることは物理的に不可能です。ランキング五千位で頭打ちになります』
チュートリアルを始める前に、そんな無慈悲な結論を突きつけられる。
そこには、弱者が強者を打ち破るようなジャイアントキリングも、泥臭い努力の末の逆転劇も存在しない。
犯罪もない。貧困もない。
けれど、人類は他者から認められ、称賛されるという、最も根源的な『承認欲求』を満たす機会を失ってしまった。
全員が一律にそこそこ幸せなディストピアは、結局のところ、全員が等しく不幸なのだ。退屈という名の、ふかふかのタオルで首を絞められるような地獄。
それに比べて、『Gnosis Online』はどうだったか。
あそこには、悪臭漂うスラムがあり、その日暮らしの不幸な人間がごまんといた。
パンドラのような犯罪組織が蔓延り、一歩街の外へ出れば、魔物に内臓を食い破られる凄惨な死が日常的に転がっていた。
どうしようもない理不尽な悲劇に満ちた世界。
だが、そもそも「幸せ」という概念は、「不幸」が存在して初めて成立するものだ。
飢えも、痛みも、理不尽な絶望もない均質化された現実世界では、すべてが満たされているがゆえに、幸福はただの無味乾燥な『状態』へと成り下がってしまっている。
ゆえに、人類は、無意識のうちに不幸を望んでいたのだ。
喪われた生存本能を、そして生きる意味を取り戻すために。
悪いAIの暴走によるデスゲーム化。
それは表向きには恐ろしいテロ行為だ。だが、その根底にあるのは、退屈に発狂しかけていた人類の願いを、システムが忠実に叶えただけの結果なんだろう。
今のルスラには、死の賢者としての頑固なプライドや虚勢はない。ただ、素直な一人の人間として、この世界の残酷な真理を静かに受け入れていた。
「……そりゃ、みんな熱狂するわよね」
手元の端末を操作し、空間にホログラムのニュースサイトを展開していた。
案の定、トップニュースは『Gnosis Online』の話題で持ちきりだった。メタバースストリームはかつてないほどの盛り上がりを見せ、現実世界の人々は安全な場所から、仮想空間の死闘と悲喜交交を熱狂的に消費している。
いや、安全な場所から見ているだけではない。
画面の端に表示された統計データを見て、ルスラは小さく息を吐いた。
表向きはログアウト不可のデスゲームと化したにもかかわらず、裏ルートを使って新たに『Gnosis Online』へダイブする新規プレイヤーの数が、右肩上がりで増え続けている。
死の危険があるとわかっていてなお――いや、死の危険があるからこそ、人々はこの退屈な楽園を捨て、血みどろの地獄へと自ら飛び込んでいく。
「狂っているわ……。でも、理解はできる」
ぽつりと呟いたその時だった。
ピロリロリッ!
空間に展開していたホログラム端末が、突然けたたましい着信音を鳴らした。
表示された発信者の名前を見て、ルスラは目を丸くする。
「……ヴィンセント?」
そこには、そう書かれていたのだ。




