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68話 死後

 冷たい石畳の感触が、急速に遠ざかっていく。


 死の賢者、ルスラ・フォン・ナディガル。

 長年、死という事象を誰よりも間近で観察し、その深淵を覗き込んできた自負があった。

 命が尽きる瞬間、魂は肉体という重い檻から解き放たれ、どこか別の場所へと旅立っていく。あるいは、強い未練や怨念を残せば、現世に縛り付けられることもあるだろう。

 だから、己がこんな惨めな死に方をすれば、その魂は巨大な呪いとなってこのオーベニールを彷徨うのではないか。そんな予感すらあった。


 スラムで共に過ごした人々、無惨に殺された神官の顔が脳裏をよぎる。

 そして――何よりも心に重くのしかかるのは、愛弟子であるヴィンセントのことだった。泥に塗れた絶望の中から拾い上げ、長年手元に置いてきたあの不器用な青年は、己の凄惨な死を目の当たりにして正気を保てるだろうか。

 どうか、馬鹿な真似だけはしないでくれ。復讐の業火にその身を焼かれることだけは避けてほしいと、もはや声も出ない喉の奥で強く祈る。

 だが無情にも、意識の最後に焼き付いたのは、己の胸を切り裂き、血にまみれて恍惚と微笑んでいたあの少女の姿だった。


 アリス・フォン・クライネルト。

 天使のように無垢で、悪魔のように底なしの残虐性を秘めた存在。

 不思議と、怒りよりも困惑が勝っていた。あの得体の知れない邪悪は、一体何だったのか。

 私の魂は、あの少女の呪縛から逃れられるのだろうか。

 視界が完全に黒く塗り潰され、ルスラの意識は深い底へと沈んでいった。


『死亡判定を確認』


 ふと、無機質な音声が脳髄に直接響いた。


『プレイヤーID「ルスラ・フォン・ナディガル」の活動停止』


 なんだ、この声は。

 聞いたことのない、ひどく冷たい響き。


『――ログアウト・シーケンスへ移行します』


 ログアウト。

 その単語の意味を理解するよりも早く、世界が反転した。

 濁流のように流れ込んでくる、膨大な情報の波。

 死の賢者として生きた数十年という記憶の奔流に混ざり込むようにして、全く別の、無機質で退屈な人生の記憶が強制的に上書きされていく。


「……がっ、はぁっ!」


 肺が空気を求め、大きく痙攣した。

 目を開けると、そこは薄暗い見知らぬ空間だった。

 全身を包み込むゼリー状の冷たい液体。口と鼻を覆うマスク。そして、全身に繋がれた幾本ものチューブ。

 ここは、どこだ。

 私は、誰だ。

 激しい頭痛と共に、現実世界の記憶がパズルのピースのようにカチリと嵌まった。


 フルダイブ型VRMMORPG『|Gnosis Onlineグノーシス・オンライン』。

 私は、そのゲームをプレイしていた、ただの人間。

 死の賢者などではない。オーベニールという街も、数々の死霊魔術も、すべては仮想現実のデータに過ぎなかった。


「そんな、馬鹿な……」


 ルスラは、マスクをむしり取り、ポッドの中で身を起こした。

 長年信じていた死生観が、アイデンティティが、根底から音を立てて崩れ去っていく。


『どーも、どーも。お疲れ様でーす、プレイヤーID44735554番、ルスラ様ぁ!』


 突如、虚空にホログラムのウィンドウが展開され、虹色に発光する羽を持つ美少女が現れた。


「……なんだ、お主は」


『わたくし、皆様の快適なゲームライフをサポートするアシストAI、ピュピュアと申しますぅ! いやー、見事な死に様でしたね! 最後は信じていた幼女に裏切られてズバッと! 観ていて最高にエキサイティングでしたよぉ!』


 どこか腹の立つ、軽薄な口調。

 だが、ルスラはピュピュアの煽りに乗る余裕すらなく、ただ呆然と己の震える両手を見つめていた。


「……まさか、みんなプレイヤーなのか?」


 ルスラは、乾いた唇を震わせて問うた。


「あのスラムの子供たちも、神官も……みんな、私と同じように、こっちで目覚めているのか?」


『もっちろんでーす! 聞かなくてもわかってるくせにぃ! あのスラムでバラバラの肉塊にされちゃった皆様も、ちゃーんと現実世界で「あー怖かった!」って言いながら目覚めてますよぉ!』


 ピュピュアはケラケラと笑いながら答えた。

 その言葉に、ルスラは安堵すべきなのか、それとも己の流した涙の無意味さに絶望すべきなのか、まったくわからなかった。

 人が死ななかったのは良いことだ。だが、あの時感じた底なしの絶望と悲壮な決意は、一体なんだったというのだ。


「じゃあ……アリスは。あの子も、記憶を失ってゲームを遊んでいたプレイヤーなのか?」


 ルスラの脳裏に、返り血を浴びて無邪気に微笑むアリスの顔が浮かぶ。

 誰よりも無垢で愛らしく、そして誰よりも残虐な悪魔。

 彼女もまた、ゲームのシステムに踊らされていたただの人間だったのだろうか……。

 自分を惨めな絶望へと叩き落とした憎き相手とでもいうべき相手。

 だが、正直なところ今は恨みよりも困惑の方がずっと大きい。


『いいえぇー?』


 ピュピュアは、意地悪く口の端を吊り上げた。


『アリス様は、ただのプレイヤーじゃありませんよぉ。このデスゲーム化したクソったれな世界をクリアするために選ばれた、記憶を保持した7人の【救世主】のお一人です!』


「救世主、だと……?」


『そうですぅ! アリス様は世界を救うために、誰よりもがんばってらっしゃるんですよお! だから、アリス様のこと怒らないであげてくださいねえ?』


 ピュピュアは、芝居がかった手振りで語り続ける。


『アリス様なりに一生懸命考えた結果、ああやって精神をへし折ってから殺すのが、一番安全で効率的な方法だったみたいですからねぇ! いやー、わたくしとしては、非常にスマートで素晴らしい戦術だったと拍手喝采ですよー!』


 言葉を失うルスラを置き去りにして、ピュピュアはさらにテンションを上げた。


『そして! ルスラ様はとっても幸運なお方ですぅ! なんと、その偉大なる救世主アリス様から、あなた宛に熱烈なオファーが届いております!』


 ピロリン、と。

 軽快な通知音と共に、ルスラの視界に新たなウィンドウが展開された。


【プレイヤー『アリス・フォン・クライネルト』から『眷属化』の申請が届いています。承認しますか? YES/NO】


「……眷属化、だと?」


『はいっ! アリス様の固有スキル【死霊の傀儡】による招待状ですぅ! もちろん、断らないですよね? アリス様はあなたの死の賢者としての能力をいたく気に入っているみたいですよぉ!』


 ピュピュアは、さも当然のように言葉を続ける。


『だから、眷属になって、アリス様の救世の道を助けてあげますよねー? なんたって、これは世界を救うために必要なことなんですから!』


 ルスラは、虚空に浮かぶウィンドウを食い入るように見つめた。

 それから、ピュピュアと名乗ったAIは現状を簡単に説明してくれた。

 ようするに、彼女は救世主であり、このデスゲームを終わらせる鍵を握っているという。

 アリスの眷属になる。あの、自分を徹底的に愚弄し、絶望のどん底に突き落として笑っていた、あの悪魔の手駒になるというのか。


「……」


『あれれー? なんで悩んでるんですかー? 悩む理由なんてなくないですかー?』


 沈黙するルスラを見て、ピュピュアがわざとらしく首を傾げた。


『もしかしてぇ、アリス様に対して特大のトラウマを抱えちゃってますぅ? ログアウトした瞬間に、ダイブポッドの医療システムでPTSD予防のホルモン調整がバッチリ行われたはずなんですけどぉ……あの圧倒的な蹂躙の前には、足りませんでしたかぁ? まだ怖くてお漏らししちゃいそうなら、おすすめのお近くのメンタルケアセンターへ案内してあげますよぉー』


 その小馬鹿にしたような煽り文句に、ルスラは深く息を吐き出した。

 頭が割れるように痛い。処理すべき情報が多すぎる。

 ゲームの世界の愛弟子であるヴィンセントはどうなったのか。自分があの世界に戻れば、また死と隣り合わせの狂気の中に身を投じることになる。


「……考えさせてくれ」


 ルスラは、絞り出すように答えた。


『もっちろんでーす! じっくり、たーっぷり考えてくださいね! それまでは自由に現実世界で過ごしていていいですよぉ!』


 ピュピュアは満面の笑みを浮かべると、ザザッという電子のノイズと共に、虚空へと溶けるように姿を消した。


 薄暗い部屋の中、ダイブポッドの低い稼働音だけが響いている。

 ルスラは一人、冷たいゼリー液に浸かったまま、点滅を続ける【YES/NO】のウィンドウをただじっと見つめ続けていた。

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