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65話 悪趣味

 ルスラ・フォン・ナディガルの胸の奥には、常に小さな後悔と諦念が居座っていた。


 大陸に十人しかいない賢者という称号は、大きすぎる影響力を持つ。

 領地を持たない貴族である彼女にとって、昔から住み慣れたこのオーベニールの街こそが、かけがえのない故郷のようなものだった。

 しかし、クライネルト公爵家が治めるこの巨大な領都において、強大な力を持つ賢者の存在はありがたくもあり、同時に政治的な均衡を乱しかねない「扱いに困る代物」でもあった。


 だからこそルスラは、愛する街に過度な干渉をせず、ひたすらに己の工房へ引きこもり、数え切れないほどの死と向き合って魔術の深淵を覗き込んできた。

 おかげで、己の探求としては満足のいく、後悔のない人生を送ってきたという自負はある。死の賢者として、魔術の歴史にそれなりのものを残せたとも思っていた。

 けれど、鏡を見るたびに深くなるシワと、確実に衰えていく肉体を感じるたび、ふと思うのだ。

 魔術の歴史ではなく、故郷と呼べるこの街に対して、自分はまだなにか還元すべきものをやり残しているのではないか――と。そんな後悔の念が、心の奥底で渦巻いていた。


 ヴィンセントと出会ったのは、そんな虚無感に囚われていた時期だった。


 当時の彼はまだ少年だったが、その瞳は世のすべてに絶望し、泥のように黒ずんでいた。腐肉やゴミを漁り、時には金を盗む。およそ人間らしいとは言えない、獣のような生き方。

 だが、彼の内に秘められた生まれつきの魔力量は、死の賢者であるルスラの目を瞠らせるほどに規格外だった。


 この華やかなオーベニールに、陽の当たらない凄惨なスラムが存在することは知っていた。

 恵まれた環境にいる自分とは違い、理不尽な不幸に喘ぐ者たちが数え切れないほどいる。それは仕方のないことであり、この世界の変えようのない不条理、いわば定理のようなものだと諦観していた。


 老い先短い今、自分にできることはもうわずかしか残っていない。

 そう思ったたときルスラは、泥にまみれたヴィンセントの手を引いていた。

 それから、時々スラムへと足を運ぶようにした。

 こっそりと金銭的な支援を行い、近くの教会を説得して神官を派遣させ、せめてもの住宅環境や施療院を整えたりと、己の権力と財産を使ってできる限りのことをやった。


 もちろん、自分が何かをしたからといって、スラムの全員を救えるわけではない。賢者と呼ばれる存在であっても、一人の人間としてはあまりにも無力だ。

 それでも、誰かの明日に繋がる何かを残せればと、そう願っていたのだ。



 息が、ひどく荒い。


 極限まで魔改造された黒檀の箒を無理やり駆動させ、己の魔力タンクを文字通り空っぽになるまで絞り尽くして、ここへ飛んできた。荒野からどのようにして帰還したのか、道中の記憶は完全に抜け落ちている。


 気がつけば、ルスラはあのスラム街の入り口に降り立っていた。


 視界が、ぐにゃりと揺らぐ。

 目の前に広がる光景を、優秀なはずのルスラの脳が全力で理解を拒んでいた。


「あ……あぁ……っ」


 隣で膝をついたヴィンセントの、魂が抜け落ちたような呻き声が聞こえる。


 スラムに生きる住民たちは、絶望の泥濘の中にありながらも、確かに小さな希望を宿して生活していたはずだった。

 昨日、あの純真無垢な公爵令嬢が訪れたことで、彼らの顔には久しぶりの明るい笑みが咲いていたではないか。


 だが、今、目の前にあるのは。



 山。

 ――否。肉と、骨と、血を捏ね合わせた、冒涜のモニュメント。



 視界がその『塊』を捉えた瞬間、脳が全力で理解を拒絶した。

 ぐちゃり、と。視線を這わせるだけで、粘着質な嫌な音が鼓膜の奥で鳴るような錯覚に陥る。異常な角度で絡み合う無数の四肢。鋭利に砕けた白骨。それらを赤黒い血の泥が、セメントのようにつなぎ止めている。

 命ある人間をただの粘土のように捏ねくり回し、狂気の執念をもって『構築』された、吐き気を催す悪夢のモニュメントだった。


 崩れかけた木造建築の壁面には、まるで極上のプレゼントでも気取るかのように、腸がリボンのようにあしらわれている。


 そして、崩れた石壁に、鮮血で大きく描かれたふざけた文字。


『オーベニールの怪人はこっちでした♡』


 最後には、ご丁寧に可愛らしいドクロのマークまで添えられている。

 荒野で時間を稼いでいたあのホムンクルスは、囮だった。その間に、真の怪人がこのスラムを根こそぎ蹂躙したのだ。


 ルスラの中で、今まで積み上げてきた人生のすべてが、音を立てて崩れ去っていくのを感じた。


 後悔、困惑、そして圧倒的な絶望。

 この歳になるまで、数多の修羅場を経験し、死というものを誰よりも理解してきたつもりだった。だが、これほどの巨大な悪意と絶望を前にしたのは初めてだった。


 枯れ果てたはずの涙腺から、熱い涙が止めどなく溢れ出す。

 ふざけた怪人に対する怒りよりも先に、守るべきものを何一つ守れず、まんまと敵の掌の上で踊らされていた自分自身への、身を切り裂くような情けなさが襲いかかってきた。

 もう、この世はどうでもいい馬鹿げたものでしかない。そんな虚無感がルスラを支配しそうになる。


 コロコロと、泥にまみれた何かが足元へ転がってきた。

 見下ろすと、それは昨日、アリスの慈愛に満ちた姿を見て微笑んでいた、あの白い法衣の神官の頭部だった。


「……ああぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!」


 ルスラは杖を取り落とし、獣のような叫び声を上げた。

 立つことすらできず、這いつくばるようにして泥だらけの石畳を突き進む。


「誰か! 誰かおらんのかッ!」


 血まみれの路地を、闇雲に走り回る。あらゆる小さな家の中を覗き込み、崩れた施療院の瓦礫を血の滲む手で退かしながら叫び続けた。


「誰か生きている者はいないのかッ!」


 ここには、いつも飴玉をねだってきたトミーという少年が住んでいた。ここには、咳き込みながらも懸命に生きていた老婆がいたはずだ。

 一人ひとりの顔を思い浮かべながら、必死に生存者を探す。

 息が切れ、肺が焼け付くように痛む。声が完全に枯れ果て、口から血の味がしても、ルスラは叫び、走り回った。


 でも、誰もいない。

 本当に、ただの一人も生きてはいなかった。


 完全に心が折れ、血だまりの中に膝をついた、その時だった。


「ルスラ様……?」


 ふと、静まり返った死の空間に、銀の鈴を転がすような聞き覚えのある声が響いた。


 ゆっくりと顔を上げる。

 そこには、地獄のような惨状にはおよそ不釣り合いな、まばゆい純白のドレスに身を包んだ少女が立っていた。

 アリス・フォン・クライネルト。


「ア、アリス……!? なんで、お主がここに……!?」


 ルスラは枯れた声で、信じられないものを見るようにその名を絞り出した。


「あ……ルスラ様ぁ……っ」


 アリスは大きなアメジストの瞳から大粒の涙をこぼし、ルスラの泥だらけのローブにすがりついた。その小さな身体は、恐怖に耐えるように小刻みに震えている。


「わたし、またみんなと遊びに来たのに……途中で、黒い仮面をつけた怖い人が来て……っ。みんな、急に真っ赤になって、それで倒れちゃって……っ」


 アリスはぎゅっとドレスの裾を握りしめ、ひどく不安そうな声を震わせた。


「すごく怖かったから、ずっと、暗い棚の中に隠れてたの……。でも、外に出たら誰もいなくて……みんな、真っ赤なおもちゃみたいに、バラバラになってて……っ。ねえ、ルスラ様。みんな、どうしちゃったの……?」


 周囲の凄惨な惨状を前にして、彼女の幼い頭では何が起きたのか正しく理解しきれていないみたいだ。

 ポツリポツリと語られた彼女の言葉から、ルスラは一つの真実を悟り、愕然とした。


 この無慈悲な虐殺の最中、アリスはたまたまこの場所を訪れてしまった。そして、咄嗟に棚の中に隠れたことで、唯一怪人の標的から逃れることができたのだ。

 暗く狭い棚の中で、外から聞こえる人々の悲鳴と肉が裂ける音に、彼女はどれほどの恐怖を味わったことか。息を殺し、ただ震えることしかできなかった幼子の絶望は計り知れない。

 しかも、六歳の子供が処理できる限界を超えたおぞましい死体の山を前に、彼女の精神は自己防衛のために現実を認識することすら拒絶しているのだ。


「……ああ、なんということじゃ……」


 ルスラは泥だらけの腕を力強く伸ばし、純白の少女を強く、強く抱きしめた。

 アリスの温かい体温と、微かに震える小さな背中が、絶望に凍りついていたルスラの魂を激しく揺さぶる。


 己が守るべき領民はすべて奪われた。

 だが、この底知れぬ悪意に満ちた世界において、奇跡的に生き延びたこの無垢な少女の存在こそが、ルスラに残された最期の光だった。

 己の命に代え、魂を砕いてでも、この少女だけは絶対に守り抜く。死の賢者としての最後の、そして最も強固な使命が、ルスラの中で業火のように燃え上がった。


「もう大丈夫じゃ、アリス。もう誰も……、お主を傷つけさせはせん。ワシが、ワシのすべてを懸けて、必ずお主を守り抜く……ッ!」


 ルスラは、血を吐くような悲痛な決意と共に、少女をこの残酷な世界から隠すように、その腕の中に深く抱きしめる。


「……うんっ、うぅ……ルスラ様ぁぁああああ……っ」


 アリスは安心したように泣きじゃくりながら、すがりつくように小さな両腕を回し、ルスラの背中を力強く抱きしめ返すのだった。

 地獄のような惨劇の果てに結ばれたその抱擁は、絶望の夜の終わりを告げる、あまりにも美しい光だった。
















――――――――

※あとがき

まだ、終わってない!



















「――なんてね」




 ふと、耳元で囁かれたその声は、さっきまでの悲壮感あふれる震え声とはまったく異なっていた。

 それは、いたずらを成功させた子供が見せる、無邪気で、ひどく楽しそうな声色。


「……あ?」


 ルスラは理解が追いつかないまま、抱きしめていた少女から少し身体を離し、その顔を見つめた。

 そこにあったのは、大粒の涙をこぼして怯える可憐な幼子ではない。

 口の端を吊り上げ、してやったりと得意げに笑う、アリスの完璧なドヤ顔だった。


「おばあちゃん、まだわかってないの? まあ、仕方ないよねー。うんうん、アリスちゃんのこの超絶かわいい演技力がいけないのかも。……ありがとう。わたしの手のひらで、最高に面白く踊ってくれて」


 それは、天使のように愛らしく、しかし、同時に悪魔のように醜悪な顔だった。

 純真無垢という最強の武器を悪用し、人の心を弄ぶことを心底楽しんでいる、底なしの狂気。


「な、なにを言って――」


 ルスラが困惑の言葉を紡ごうとした、その直後だった。


 ――ザシュッ!


 アリスの足元の影が、命を持ったように蠢き、極細の鋭利な刃となって跳ね上がった。

 それが、ルスラの胸元から腹にかけてを、音もなく、そして無慈悲に切り裂いた。


「……あ、ガッ……!?」


 傷口から、おびただしい量の血が噴き出す。

 赤い飛沫は容赦なく、目の前に立つアリスの純白のフリルドレスへと降り注ぎ、惨たらしい斑模様を描いていく。だが、少女はそれを避けるどころか、心地よいシャワーでも浴びるかのように目を細めていた。


 熱い。痛い。

 致命傷だ。己の肉体が、もはや修復不可能なほどに破壊され、間もなく死に至ることを、死の賢者であるルスラは本能で理解した。

 崩れ落ちそうになる身体を、折れた杖で辛うじて支える。

 それでも、ルスラの思考は現実を拒絶していた。


 なぜ。どうして。

 彼女が何をしているのか、何を言っているのか、まったくわからない。

 目の前で自分を切り裂いたこの少女が、己が命を懸けて守ると誓った、最期の希望であると、まだ信じて疑わなかった。


「アリス……お主、なにを言っているんじゃ……?」


 口から血泡を吐きながら、必死に声を絞り出す。

 何かの間違いだ。何かに操られているのか。そんな縋るような視線を向けるルスラに対し、アリスは呆れたように肩をすくめた。


「んー、まだわかんないのー? すっごくお間抜けさんなのかなー?」


 アリスは、返り血で赤く染まった頬に指を当て、とびきり愉快そうに、くすくすと笑った。


「だから、アリスが、オーベニールの怪人なんだよ」


 その言葉と共に、背後の薄暗い路地の奥から、ズルズルと不気味な足音を立てて『ナニカ』が集まってきた。

 血だまりを踏み越えて現れたのは、異形のアンデッドの群れ。

 ソンビやスケルトン、リビングアーマー、なぜか動くぬいぐるみまで混ざっている。その中には、先ほど荒野で激闘を繰り広げたはずの、白い流動体と、アンティーク・ビスクドールの姿もあった。

 彼らは一様に、主であるアリスの背後に恭しく付き従い、瀕死のルスラを冷酷に見下ろしている。


「嘘だ……嘘だ、嘘だぁああッ……!」


 ルスラは血を吐きながら叫んだ。

 その瞬間、ルスラの中で、張り詰めていたすべての糸がプツリと切れた。

 自分が愛した街を壊し、領民を嬲り殺し、己の矜持をへし折ったあの邪悪な化け物。

 それが、この愛らしい公爵令嬢だという事実が、巨大な鉄槌となってルスラの脳髄を粉砕した。  自分が流した涙は、一体なんだったのか。

 スラムの人々を惨殺し、親しい神官の首を転がし、自分を絶望の底に突き落とした元凶。それを、自分は「最期の希望」だと抱きしめ、己の命と魂を懸けて守り抜くと誓ってしまったのだ。  これ以上の滑稽があるだろうか。

 何十年と死と向き合い、「死の賢者」とまで呼ばれ、畏怖されてきた己の人生のすべてが、わずか六歳の幼子の遊戯によって、完璧に、徹底的に蹂躙されたのだ。

 怒りすら湧かない。

 ただただ、己の底知れぬ愚かさと、目の前で微笑む圧倒的な邪悪に対する恐怖が、冷たい泥となって内臓を食い破っていく。

 積み上げてきた叡智も、死生観も、慈愛も、すべてはこの少女のための舞台装置に過ぎなかった。

 人間としての尊厳すら塵芥に等しく踏みにじられ、ルスラの魂は、音を立てて崩壊していく。  アリスは、絶望の泥濘に完全に沈みゆくルスラを見下ろし、血に濡れた顔を紅潮させて恍惚と微笑んだ。


「ねえ、おばあちゃん。今のわたし、最高にかわいくて、魅力的だと思わない?」


 それは、圧倒的な力で弱者を蹂躙し、絶望に染まる顔を鑑賞する、純度百パーセントの悪意の笑み。


「じゃあ、またね」


 鈴を転がすような、意味深で、ひどく甘い言葉。

 それが、ルスラ・フォン・ナディガルの耳に届いた最期の音声だった。

 死の賢者の視界は急速に黒く塗り潰され、冷たい石畳の上へと、その意識は完全に落ちていった。





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