64話 使い魔ですって
黄金の結界が荒野の月明かりを乱反射し、ルスラ・フォン・ナディガルの目を細めさせた。
「……使い魔だと? いや、ただの使い魔がこれほどの高位結界を瞬時に編み上げるなどあり得ん」
ルスラは杖を構え直し、油断なく眼前の異形を睨み据えた。
干からびたはずの怪人の肉体は、結界の内側で瞬く間に元の白い粘液へと戻っていく。ブクブクと泡立つその不定形の泥からは、瞳孔のない無数の眼球が浮かび上がっては消えていく。
そして、その悍ましい泥の海に浮かぶようにして、一体のアンティーク・ビスクドールが優雅に腕を組んでいた。
「わたくしが使い魔ですって!! ありえないわよ! わたくし、あなたなんかよりずーっと高貴なお方ですのよ! それを使い魔呼ばわりって!! 失礼ですわ!!」
ビスクドールは、その精巧な顔立ちを歪めて金切り声を上げた。
見た目は愛らしい手のひらサイズの人形だが、そこから放たれる魔力は目を見張るものがある。
「ふん、人形の分際で随分と口が回るようじゃな。だが、小手先の結界でワシの魔術を凌ぎ切れると思うなよ」
ルスラが杖を天に掲げると、夜空に三つの巨大な召喚陣が同時展開された。
「――蹂躙せよ、第五座、骸馬の戦車!」
空中の陣から、青白い炎を纏った骨の馬に引かれた三台の戦車が飛び出した。虚空を駆け下り、凄まじい質量と速度で怪人と人形へと突撃する。
「無駄ですわね! わたくしの結界は完璧ですのよ!」
ビスクドールが高らかに笑い、再び黄金の光を放つ。
突撃してきた骸馬の戦車が結界に激突し、激しい火花を散らして砕け散る。
しかし、ルスラは動じなかった。彼女の狙いは、物理的な破壊ではない。
戦車が砕けた瞬間に生じた莫大な魔力の余波と土煙が、怪人の視界を完全に奪う。
その隙を突き、玉虫色の粘液――怪人本体が、結界の内側から突如として爆発的に膨張した。
「……あはっ、あははははッ!」
くぐもった、ひどく無邪気な笑い声が荒野に響き渡る。
漆黒の布地を限界まで引き絞り、膨張し続けるその容積は、もはや人間一人のサイズをとうに超えていた。
もはや外套ではその質量を抑え込むことすらできず、繊維を食い破るようにして、玉虫色の肉塊が外部へと溢れ出す。
バサァッ! と激しく翻り、引き裂かれた裾の奥から、鞭のようにしなる数十本の触手が伸び、目眩ましを抜けてルスラへと殺到した。
それは、人間の形を維持することすら放棄し、攻撃の「型」へと特化して膨れ上がった触肢。
速い。しかも、その軌道は一切の規則性を持たない。
「大奥様!」
ずっと後方で控えていたヴィンセントが叫ぶ。
だが、ルスラは黒檀の箒を巧みに操り、空中でアクロバティックな回避機動を描いた。
右へ、左へ。時には垂直に落下し、鋭利な触手の刃を紙一重で躱していく。風圧でローブが激しく煽られる中、ルスラの頭脳は冷静に敵の戦力を分析していた。
あの粘液の化け物は、物理攻撃を無効化し、無限に形を変える。おまけに、厄介な結界を張る人形の使い魔までいる。
並の魔術師であれば、この絶望的な手数の差に圧倒され、為す術もなくミンチにされているだろう。
だが、相手がどれほど理不尽な力を持っていようと、ルスラ・フォン・ナディガルは大陸に十人しかいない賢者である。
何百年分もの死者の叡智と、数え切れないほどの修羅場を潜り抜けてきた経験が、彼女の脳内で最適解を導き出す。
水には氷を。防御には貫通を。
そして、圧倒的な暴力には、それを封じ込める完全なる檻を。
「……ヴィンセント、耳を塞いでおれ」
ルスラは回避の最中、懐から小さな小瓶を取り出し、自らの杖の先端に叩きつけて割った。
中から溢れ出したのは、どす黒い怨念の塊。
「――啼き喚け、第九座、絶望の死霊姫」
杖の先から現れたのは、半透明のドレスを纏った美しい乙女の霊だった。
乙女は悲痛な表情で天を仰ぐと、その口を限界まで大きく開き、この世の全てを呪うかのような絶叫を上げた。
「キィィィィィィィィィィィィッ!!」
それは、物理的な鼓膜を破壊するだけでなく、魂そのものを激しく揺さぶる呪いの音波だった。
荒野の空気がびりびりと震え、地面の石が砕け散る。
「きゃああああっ!? な、なんですのこの不快な音は!」
魂に直接響く叫びに、ビスクドールが悲鳴を上げて頭を抱えた。
精巧な人形の器であるがゆえに、その振動はガラスの眼球や陶器の肌に致命的な共鳴を引き起こし、黄金の結界が激しく明滅して瓦解していく。
使い魔の防御が崩れた。
ルスラはその一瞬の隙を見逃さなかった。
怪人の無数の触手が、音波に怯むことなくルスラを捕らえようと迫る。
しかし、ルスラは既に次なる大魔術の詠唱を終えていた。
「これで終わりじゃ、このタコ人間。ワシの庭を汚した罪、永遠の暗闇の中で後悔するがよい」
ルスラが杖を大地に突き立てると、怪人の直下の地脈が青白く発光した。
「――第二座、幽閉!」
ゴゴゴゴゴッ、という地鳴りと共に、大地が裂けた。
怪人の巨大な粘液ボディを囲むようにして、四方から巨大な漆黒の石板が隆起する。
それは、対象を物理的、魔力的に完全に隔離し、永遠の冷気の中に封じ込める絶対の檻。
「あはっ……? あ……?」
怪人が無数の目を瞬かせ、触手で黒曜石の壁を叩くが、触れた端から粘液が絶対零度の冷気に当てられ、白く凍りついていく。
人形の使い魔ごと、怪人の全身が巨大な漆黒の棺の中へと完全に飲み込まれた。
最後に分厚い蓋が重々しい音を立てて閉ざされ、魔法陣が光を放って完全にロックされる。
荒野に、再び静寂が戻った。
冷たい風が吹き抜け、巨大な黒曜石の棺だけが月光の下にそびえ立っている。
「……ふぅ」
ルスラは大きく息を吐き、杖を支えにして体勢を立て直した。
莫大な魔力を消費し、額には脂汗が浮かんでいるが、その瞳には賢者としての誇り高い光が宿っていた。
「追い詰めたか……?」
ルスラがそう呟いた、その時だった。
ピキッ……パァァンッ!
絶対の檻であったはずの黒い棺が、不快な音を立てて内側から弾け飛んだ。
いや、破壊されたのではない。ルスラは目を凝らした。わずかな結界の継ぎ目から、ドロドロの粘液が間欠泉のように噴出し、強引に外へと逃れ出たのだ。
荒野の土の上にベチャリと着地した玉虫色の粘液が、ぜえぜえと激しく波打ちながら人型を形成していく。
その傍らでは、砕け散った棺の破片と共に放り出されたビスクドールが、無惨な姿を晒していた。
「ひぃぃぃっ! なんなの、このお婆ちゃん、強すぎだよぉぉぉ!」
「わたくしの結界ももう限界ですわよ! 早く逃げますわよーッ!」
先ほどまでの不気味な余裕はどこへやら。怪人と人形は、完全に戦意を喪失した様子で、ジリジリと後退りをして背を向けようとする。
その無様な姿を見下ろし、ルスラは杖を突きつけて冷酷に言い放った。
「逃げられるとでも思うておるのか? 貴様の魔力はすでに記録済みだ」
這う這うの体で逃げ出そうとする敵の背中に、死の賢者の重圧を込めた声が突き刺さる。
「地の果て、いや、死の淵まで逃げ隠れようと無駄じゃ。ワシが生きている限り、貴様の居場所は手に取るようにわかる。……これまで通り、オーベニールの闇で好き勝手できる日々は、今この瞬間に終わったのじゃよ」
これでトドメだ。相手の逃亡の希望を完全にへし折り、捕縛する。
ルスラがそう確信した、その瞬間だった。
「……あはっ」
逃げ出そうとしていた怪人の足が、ピタリと止まった。
そして、泥のような肩を震わせ、ふと、何かたまらなく面白い冗談でも聞いたかのように笑い始めたのだ。
「あははははははははははははははははっ!」
すでに、ドクロの仮面はボロボロに破れていた。
その内側から姿を表したのは、雪のように白い肌を持つ、透き通るような美少女の姿だった。
「なに言ってんのー? ネネムーはネネムーであって、怪人じゃないですよーだ!」
少女は、悪びれる様子もなくあっけらかんと言い放った。
「あはっ……まあもうバレちゃってもいいよね! ネネムーはね、あ……、主様に『怪人のフリをしてあの頑固なお婆ちゃんの時間を稼いできて』って言われただけなんだもんねー!」
その言葉に、ルスラの心臓がドクンと嫌な音を立てて跳ねた。
少女は自身の白い頬に両手を当て、うっとりとした、まるで恋する乙女のような表情で身をよじらせる。
「ねえねえ! ネネムー、すっごくがんばったよねー。帰ったら主様、いっぱい褒めてくれるかな!? 大好きって、いっぱい撫でてくれるかなぁ!?」
腕の中に抱えられたアンティーク・ビスクドールもまた、精巧な顔を意地悪く歪ませて、ルスラに向かって思い切り舌を出した。
「べーっ! いい気味ですわ!」
「じゃあねー! バイバーイ!」
少女は弾むような足取りで跳躍すると、夜の闇に紛れてあっという間に逃げ去っていった。
もはや追う気力すら起きない。
杖を握る指先が震える。
ルスラ・フォン・ナディガルの視界から色が消え、世界が急速に、底の見えない真冬の深夜のような暗闇へと塗り潰されていく。
荒野を吹き抜ける夜風が、あれほど熱く練り上げた魔力を、無慈悲な冷気で奪い去っていくのを感じた。
「どういう、ことじゃ……?」
掠れた声が、乾いた唇から零れ落ちる。
ルスラは、自らが心血を注いで解析し、この場所まで導いてくれたはずの魔力的な繋がりに意識を向けた。
だが、すでにその繋がりは途切れていた。
いったいどんな手で怪人と成り代わったのだろうか?
いや、そもそも魔力的な繋がりでは、怪人の位置を大まかにしかわからない。だから、その延長線上に囮が待機しておけば、あっさりと成り代わることできる。
だが、血痕の解析が終わって、ここにくるまで、そんなに時間はかからなかったはずだ。その一瞬で、この判断ができるのか?
いや、そんなことより、先に考えるべきことがある――。
「時間稼ぎ、じゃと……?」
彼女が最後に残したその言葉が、巨大な鉄槌となってルスラの脳髄を打ち据えた。
死の賢者、ルスラ・フォン・ナディガル。
この世界における魔術の最高権威であり、領都オーベニールの裏も表も知り尽くした、絶対の『守護者』。
その自分を、この何もない荒野へと引きずり出し、全力で足止めをすることの意味。
「……っ、ぁ……」
呼吸が浅くなる。冷たい汗が背中を伝う。
「戻らねば……今すぐ、戻らねば……!!」
喉の奥がヒリつき、心臓が爆発しそうなほどの警鐘を鳴らす。
賢者としての誇りも、守護者としての矜持も、すべてが暗い絶望の底へと沈んでいく。
かつて経験したことのない、魂を削り取るような巨大な戦慄が、ルスラの全身を縛り上げた。
――手遅れかもしれない。
その予感こそが、死の賢者ルスラが最後にたどり着いた、最悪の答えだった。




