62話 まもなく
翌日の昼下がり。
ナディガル侯爵邸、最奥の書斎は、分厚い遮光カーテンによって昼の光を完全に遮断されていた。
部屋を照らすのは、壁に掛けられた青白い魔石製のランプと、机の上に広げられた大きな紙から放たれる呪術的な燐光のみ。
カビと古い紙、そして微かな鉄錆の匂い――血の匂いが、澱んだ空気の中に漂っている。
「……大奥様、そろそろ限界では?」
部屋の隅に控えていたヴィンセントが、静かな声で問いかけてきた。
彼の顔には、徹夜続きの主人を案じる色が浮かんでいる。
「やかましい。ここで気を抜けば、一週間かけて編み上げた術式が霧散してしまうわい」
ルスラ・フォン・ナディガルは杖を握り直し、机の上の紙を睨みつけた。
旧下水道――闇ギルド『パンドラ』のアジト跡地で採取した、複数の被害者の血痕。
それを特殊な溶剤で魔力的な純度を高め、複雑な魔法陣を何重にも描き込んだ紙の上に垂らしてある。
一人分の血痕に宿る死の残滓は、あまりにも希薄で断片的だ。だが、同じ時間、同じ場所で、同じ存在によって殺された複数の血を掛け合わせれば、欠けたパズルのピースが噛み合うように、必ず一つの真実が浮かび上がるはずだった。
「……来い。深淵に沈みし死者の記憶よ。ワシの前にその姿を晒せ」
ルスラは杖の先端から、濃密な紫色の魔力を紙へと注ぎ込んだ。
チリチリと、紙面が焦げるような音が鳴る。
魔法陣の幾何学模様が脈を打つように明滅し、その中心に垂らされた赤黒い血の染みが、まるで意志を持った生き物のように蠢き始めた。
「おお……」
ヴィンセントが、感嘆の息を漏らす。
血の染みは、神の上でドロドロと混ざり合い、黒く濁った巨大な渦へと変貌していく。
そこに具体的な映像や、犯人の顔といった視覚的な情報は浮かび上がらなかった。
いや、情報が多すぎるのだ。これは、被害者たちが最後に抱いた恐怖と絶望、そして底なしの怨念が、ドロドロに溶け合って凝縮された一つの巨大な集合体だった。
――瞬間。
「……ッ!?」
ドクン、と。
ルスラの心臓が跳ね上がり、全身を強烈な物理的衝撃が突き抜けた。
脳髄を直接揺さぶられるような激痛と共に、彼女の意識は空間を跳躍する。
遠い。だが、確実にこの領都オーベニールのどこか。
潜んでいる方角ならなんとか割り出せるか……?
しかし、具体的な番地や建物までは特定できない。とても曖昧な感覚だが、間違いなくあの怪人は、今もこの街のどこかに潜み、息を潜めている。
ルスラの魔力が、血に刻まれた怨念の糸を伝い、ついに怪人の居場所の尻尾を掴んだのだ。
だが、その歓喜は一瞬で凍りついた。
ルスラが術式に込めた魔力が、あまりにも巨大すぎたせいか。
深淵を覗き込むとき、深淵もまたこちらを覗き込んでいる。
血の渦の向こう側――距離も空間も隔てた暗闇の奥深くから、ぞわりと、明確な視線がルスラを射抜いた。
見られた。
言葉などない。だが、魔力的な繋がりを通して、相手の意志がはっきりと伝わってくる。
暗闇の向こう側にいる『オーベニールの怪人』が、ゆっくりとこちらを振り向き、愉悦に満ちた笑みを浮かべる気配がした。
――見つかっちゃったねえ。
そんな無邪気で、底知れぬ悪意に満ちた声が、直接脳内に響いた気がした。
奴は、ルスラが自分を探り当てたことを悟ったのだ。そして、それを警戒するどころか、新しい玩具を見つけた子供のように喜んでいる。
「……はぁっ、はぁっ……!」
ルスラは弾かれたように杖を離し、術式を強制的に切断した。
机の上の用紙がボンッと音を立てて燃え上がり、灰となって崩れ落ちる。
「大奥様! いかがなされました!?」
ヴィンセントが血相を変えて駆け寄り、よろめいた主の身体を支える。
「……繋がったわい」
ルスラは荒い息を整えながら、額に浮かんだ冷や汗を拭った。
震える手を押さえ込み、燃え尽きた灰を睨みつける。
「奴の居場所は、やはりこのオーベニールじゃ。……だが、同時に、奴にもワシの存在がバレた」
「バレた、ですと……?」
「ああ。魔力的なつながりを通じて、互いの存在を明確に認識し合った。……もはや、奇襲や暗躍など無意味じゃ」
ルスラは、ギリッと奥歯を噛み締めた。
あの得体の知れない悪意の塊。こちらの探りを察知し、あまつさえ楽しんでみせた狂気の化け物。
間もなく両者は対峙する。
お互いに魔力的なもので繋がった状態だ。どちらかが動けば、もう片方にはすぐにわかる。
「ヴィンセント! 今すぐ準備を整えろ!」
ルスラは、崩れそうになる膝を杖で強引に支え、愛弟子を怒鳴りつけた。
その瞳には、かつて数多の修羅場を潜り抜けてきた、全盛期の魔女の鋭い光が戻っている。
「魔力的なつながりが完全に途切れる前に、この細い糸を辿って奴の潜伏先を突き止めるぞ!」
ルスラの全身を、嫌な冷たい汗が伝う。
先ほど脳内を侵食した悪意は、もはや人間が持ち得る次元を超えていた。
無邪気な笑い声の裏側に潜む、底なしの深淵。
まともな魔術師であれば、関わることすら躊躇うような化け物の類。
だが、大陸に十人しかいない賢者の一人として、己の庭を荒らし回る不届き者をこのまま野放しにすることは、賢者としての誇りが許さなかった。
「大奥様……。しかし、今の術式で消耗された御体ではあまりにも危険です。せめて、騎士団へ応援の要請を」
ヴィンセントが痛切な表情で進言するが、ルスラはそれを一喝して退けた。
「馬鹿を言え。騎士団の凡夫共が束になったところで、あの怪人の足止めにもなりゃせん。それどころか、無駄に死体を増やすだけじゃ」
お互いの存在を魔力的に認識した以上、もはや逃げ場はない。
こちらが動くのを、向こうは今か今かと楽しみに待っているのだ。
下手に時間を置けば、屋敷そのものが戦場になり、罪のない使用人たちまで巻き込まれかねない。
「怪人め。貴様の最期はまもなくだ」
ルスラは確信していた。
まもなく自分か、怪人か……どちらかが果てるまで終わらぬ死闘が始まることを。
杖を強く握りしめたとき、ルスラは自身の手が微かに震えていることに気がつく。
それが老いによる衰えなのか、あるいは未知の強者に対する高揚なのか、彼女自身にも判然とつかなかった。




