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61話 どこまでも「無垢」

 陽が傾き始めた領都オーベニールの片隅。

 城壁の影に隠れるようにして広がるスラム街は、今日も相変わらず淀んだ空気と鼻を突く悪臭に満ちていた。

 ひび割れた石畳の溝を汚水がチョロチョロと流れ、崩れかけた木造建築が身を寄せ合うように建ち並んでいる。


 ルスラ・フォン・ナディガルは、杖をつきながら忌々しげに顔をしかめた。

 何度来ても、この腐った泥のような臭いには慣れない。貧困と病魔が常に這い回るこの場所は、最高級の香水や豪奢なドレスなど、何の価値も持たない掃き溜めだ。


 だからこそ、ルスラは背後を歩く少女が、今頃は涙目で鼻をつまみ、屋敷へ帰りたいと駄々をこね始めているだろうと予想していた。

 だが、現実は違った。


「ここが……ルスラ様がいつもいらしている場所なんですね……」


 アリス・フォン・クライネルトは、周囲のひどい有様を見渡し、悲しげに眉をひそめた。

 崩れかけた家屋、汚水が流れるひび割れた石畳。フリルがふんだんにあしらわれた純白のドレスは、この暗く汚れた路地においては、あまりにも場違いな光を放っている。

 泥にまみれ、その日を生きるのにも苦労しているであろう貧民たち。彼らの過酷な生活を目の当たりにし、アリスの大きなアメジストの瞳が痛ましそうに揺れる。


 だが、すぐにその視線はルスラへと向けられ、今度は深い尊敬と感動に濡れた光を帯びて輝き始めた。


「こんな過酷な場所で、ずっと見返りも求めずに人助けをされていたなんて……。やっぱりルスラ様は、本当に優しくて素晴らしい方ですね」


 あまりの予想外な返答に、鼻でもつまっているのか、と言いたくなる。

 ルスラが呆れたようにため息をつくと、路地の奥から、ボロボロの服を着た子供たちがわらわらと集まってきた。


「あ、魔女のお婆ちゃんだ!」


「お婆ちゃん、また来てくれたの!」


 泥だらけの顔をした子供たちが、いつものようにルスラの周りを囲む。

 だが、今日は彼らの視線が、すぐにルスラの隣に立つ眩い少女へと釘付けになった。


「うわぁ……お姫様みたい……」


「すっごく、きれい……」


 子供たちは、アリスのあまりの美しさに圧倒され、恐る恐る遠巻きに眺めている。

 無理もない。泥にまみれて生きる彼らにとって、アリスのような存在は、お伽話の中から抜け出してきた妖精か天使にしか見えないだろう。


 ここで、普通の貴族であれば「汚い手で触るな」と怒鳴り散らす場面だ。

 しかし、アリスはふわりと花が綻ぶような笑みを浮かべ、自分から子供たちの輪の中へと歩み寄っていった。


「こんにちは! わたし、アリスっていうの! あなたたちのお名前は?」


 アリスは、一番手前にいた薄汚れた少年の手をごく自然に取り、無邪気に首を傾げた。


「えっ……あ、と、トミー……」


「トミー君だね! よろしくね!」


 アリスの屈託のない笑顔と温かな手に絆されたのか、周囲を囲んでいた他の少年少女たちも、戸惑いながらも次々と自分の名前を口にし始めた。


「ねえねえ、みんなで一緒に遊ばない?」


 その言葉を合図に、警戒していた子供たちの顔がパッと輝いた。


「遊ぶ!」


「お姫様、鬼ごっこしよ!」


 アリスは純白のドレスの裾が泥で汚れることなど微塵も気にせず、満面の笑みで子供たちと走り回り始めた。


「きゃああっ! まてまてー!」


 銀の鈴を転がすような笑い声が、陰惨なスラム街の路地に響き渡る。

 その光景は、まるで奇跡だった。


「あ、アリスお嬢様ぁぁぁッ!! お、お洋服が! 最高級の絹のドレスが泥だらけにぃぃッ!!」


 悲鳴を上げたのは、メイドのセーラだ。

 セーラは血相を変えてアリスのそばへ駆け寄ると、周囲の子供たちに聞こえないよう、耳元で囁いた。


「だ、駄目ですよお嬢様! そのような泥だらけの子供たちと触れ合えば、バイキンが! いけません……ッ!」


 しかし、アリスはそんなメイドの忠告など気にも留めず、足元の泥を小さな手ですくい上げると、セーラの綺麗なエプロンへべちゃりと押し付けた。


「あははっ! セーラも一緒に鬼ごっこしよー!」


 完璧に手入れされた制服を汚されるなど、平時のセーラであれば卒倒しかねない事態だ。

 だが、泥まみれになりながらも自分を遊びに誘ってくれるアリスの屈託のない笑顔を至近距離で浴び、彼女の理性はあっさりと消し飛んだ。

 一瞬にして陥落したセーラは、歓喜に顔を歪ませて叫ぶ。


「えっ!? ひゃっ、お、お待ちくださいお嬢様! わたくしが鬼になりますぅッ!」


 それどころか、ただ立っていただけの護衛騎士たちも無事では済まなかった。


「おっきいおじちゃん! 高い高いして!」


「おっ、こら、勝手に登るな!」


 巨漢のグオークの太い腕には、いつの間にか数人の子供たちがぶら下がり、優男のルスカーは、木の棒を持った子供たち相手にチャンバラごっこの相手をさせられている。


「ははっ、お前たち、なかなか筋がいいじゃないか」


 最初は戸惑っていた護衛たちも、アリスの弾けるような笑顔に当てられたのか、いつの間にかすっかり子供たちの遊具と化していた。

 しかも、執事のヴィンセントまでも、いつの間にか燕尾服が泥に汚れるのも厭わずに鬼ごっこの輪に加わっていた。


「アリス様のような尊きお方が鬼など、とんでもない! さあ、こちらへ! このヴィンセントが身代わりとして鬼になりましょう!」


「わーい! ヴィンセントさんが鬼だ! みんな逃げろー!」


「そ、そんな……! アリス様に全力で拒絶され、逃げられる日が来るなんて……ッ! ああ、胸が張り裂けそうです……!」


 アリスの無邪気な声と共に子供たちが一斉に散っていく中、自ら鬼を志願したはずのヴィンセントが、なぜかその場に膝をついてこの世の終わりのような絶望に打ちひしがれていた。

 普段は死人のように無表情な執事が、生者相手の子供の遊びに本気で一喜一憂している。

 孤児だった彼を拾い上げてから長年手元に置いているが、あんなにも感情を露わにして遊ぶ姿を見るのは初めてのことだった。


「……まったく、どいつもこいつも」


 新しい弟子の一面にルスラは忌々しげに舌打ちをした。

 まったく、どいつもこいつも、あの小娘のペースに巻き込まれおって。


「……ルスラ様。本日は、ずいぶんと賑やかですね」


 ふと、背後から声をかけられた。

 振り返ると、以前も出迎えてくれた白い法衣の神官が、微笑ましそうに広場の和やかな光景を見つめていた。


「ふん。騒がしくてすまないな」


 ルスラが短く返すと、神官は静かに首を横に振った。


「いえ、賑やかでいいことです。この場所に、あんなにも明るい笑い声が響くなんて……いつ以来でしょうか」


 神官の視線の先では、アリスが子供たちと一緒に無邪気な笑い声を上げている。


「あの方は……ルスラ様の、新しいお弟子さんですか?」


 神官の問いに、ルスラは一瞬だけ言葉に詰まった。

 確かに、最近、魔術について講義をしておるが、正式に弟子と認めたわけではない。

 だが、それを律儀に訂正するのも面倒だった。


「……まあ、そのようなものじゃな」


 ルスラは、曖昧に肯定した。


「そうですか。……立ち振る舞いや言葉遣いからして、どこかの貴族のお嬢様とお見受けしますが……。これほど心根の優しい方がいらっしゃるのですね」


 神官は、心底感心したように目を細めた。

 その言葉に、ルスラは内心で鼻で笑った。


 どこかの貴族のお嬢様、などという生易しいものではない。

 あそこで泥だらけになって笑っているのは、この国でも王家に次ぐ権力を持つ、クライネルト公爵家の愛娘なのだ。

 もしその事実を知れば、この神官も、子供たちも、一瞬にして腰を抜かして平伏するだろう。

 せいぜい、裕福な下級貴族か、少し裕福な商人の娘程度に考えているはずだ。


「……まったく、恐ろしい小娘じゃ」


 ルスラは、小さく呟いた。

 権力をひけらかすでもなく、ただその圧倒的な『純真無垢』という暴力だけで、あっという間に人々の心を掌握し、この淀んだスラムの空気を塗り替えてしまった。




 子供たちが遊びに飽き始めた頃、ルスラ本来の目的である施療院への回診が始まった。

 薄暗い建物の中は、先ほどの広場とは打って変わって、重苦しい死の気配と苦痛の呻き声に満ちていた。

 治る見込みのない病に侵された者や、老衰で死を待つばかりの者たちが横たわる終末期の空間。当然、六歳の子供が立ち入るべき場所ではない。ルスラはアリスを外で待たせようとしたが、少女は静かに首を横に振って、当然のように中へとついてきたのだ。

 そして今、アリスは死の淵にある老女の藁ベッドの傍らにひざまずいていた。


「……痛いですか? 苦しいですか?」


 アリスの小さな白い手が、泥と病で汚れきった老女の骨張った手を優しく包み込む。

 死の影が色濃く落ちた老女は、突然目の前に現れた天使のような少女の姿に、幻でも見ているかのようにただ静かに涙を流した。


「大丈夫ですよ。ルスラ様が、痛いのを優しく取ってくれますからね」


 アリスは、老女の額に浮かんだ脂汗を、自身のハンカチで躊躇うことなく拭い去った。

 病の感染を恐れる様子も、死臭を嫌悪する素振りも微塵もない。ただ純粋な慈愛だけがそこにあった。

 ルスラが老女の傍らに立ち、死の苦痛を麻痺させる鎮静の魔術を施す間も、アリスはずっとその手を握り続け、静かに子守唄を歌うように寄り添い続けていた。

 一人、また一人と、終末期の患者から痛みを取り除いていく。


 アリスは誰に対しても同じだった。

 醜い病変を抱える者にも、死の恐怖に震えて泣き喚く者にも、決して怯むことなくわけ隔てなく微笑みかけ、優しい言葉をかけ続けた。


「たくさん、がんばったのですね。ゆっくり、休んでくださいね」


 その清らかな声は、ルスラが施す魔術以上に、死にゆく者たちの魂に深い安らぎを与えているようだった。

 死を遠ざけ、忌み嫌うのが生者の本能である。ましてや、温室育ちの公爵令嬢であればなおさらだ。

 だが、この少女は死という現実を前にしても決して目を逸らさない。それどころか、死にゆく者への敬意すら持ち合わせているかのように振る舞っている。


「……恐ろしいほどの、無垢じゃな」


 ルスラは、事切れた患者の冷たくなった手を愛おしそうに撫でるアリスの横顔を見つめながら、静かに息を吐いた。

 ただ愛らしく、魔術の飲み込みが早いだけではない。

 死という深淵を前にしても揺らぐことのない、その底知れぬ精神性。

 死の賢者として長く死者と向き合ってきたルスラでさえ、この六歳の少女が持つ器の大きさに、畏怖に近い感情を抱かずにはいられなかった。

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