60話 純粋なる侵略者
「……」
ルスラ・フォン・ナディガルは、淹れたての紅茶から立ち上る湯気越しに、目の前に座る少女をじっと観察していた。
アリス・フォン・クライネルト。
あの日、強引に屋敷へ上がり込んできたこの公爵令嬢は、それからというもの、毎日のようにナディガル邸へ通い詰めるようになっていた。
この一週間の出来事は、ルスラにとって驚きの連続であり、同時に自らの調子をすっかり狂わせられる日々の連続でもあった。
最初は、すぐに音を上げて逃げ出すだろうと思っていたのだ。
この屋敷は死霊術師の工房である。薄暗い廊下には骨の標本が並び、書物には解剖図や死体の防腐処理について生々しく記されている。普通の六歳の子供であれば、泣き叫んで親の元へ帰るのが関の山だ。
しかし、アリスは違った。
「ひゃっ、ひゃああ……! ほ、骨だあ……っ」
ある日、廊下の隅に飾られたスケルトンの標本を目にした瞬間、アリスはビクッと肩を跳ねさせ、メイドの背中に隠れるように身を縮こまらせた。
当然の反応だ。六歳の子供にとって、標本なんて恐ろしいに決まっている。泣いて帰ると言い出すだろうとルスラが呆れかけた、その直後だった。
アリスはギュッと小さな両手でドレスの裾を握りしめると、ぷるぷると震える足で、自ら一歩前へと踏み出したのだ。
「こ、こわくないです……っ。わたし、ルスラ様みたいな立派な魔術師になりたいから……っ。だから、逃げずにちゃんとお勉強、します!」
涙目で必死に虚勢を張り、死の痕跡から目を逸らさずに真っ直ぐ見つめようとするその姿。
本能的な恐怖を抱えながらも、死霊術を学びたいという純粋で強烈な憧れのために、懸命にそれを克服しようとしているのだ。
長年、死霊魔術をただ忌み嫌い遠ざけるだけの大人たちを見てきたルスラにとって、その小さくも健気な覚悟は、とう言い繕っても、胸を打つ心地よいものだった。
魔術の基礎講義においても、アリスはルスラの想像を遥かに超えていた。
「つまり、魔力はただの力ではなく、術者の意志という『型』に流し込むことで初めて魔法として顕現する……ということですね?」
ルスラが少し難解な比喩を用いて説明しても、アリスは完璧な理解力でそれに応えた。
六歳という年齢からは考えられないほどの聡明さ。のみならず、彼女は時折、これ見よがしに胸を張り、ふんすと鼻息を荒くして愛らしいドヤ顔を見せるのだ。
わたし、すごいでしょ。褒めて褒めて。
そう言わんばかりの態度すらも、決して嫌味にはならず、むしろ子供特有の素直な承認欲求としてルスラの頬を緩ませた。
「ふん、まあまあの出来じゃな。だが、調子に乗るでないぞ」
「えへへっ、ルスラ様に褒められちゃいました!」
全く褒めていないというのに、アリスは満面の笑みで喜んでみせる。そんな風に全開の好意を向けられて、気分を害する者などいるはずがなかった。
あらゆる事象に秀でたこの少女を観察し続ける中で、ルスラはある事実を確信を持って見抜いていた。
知性も、魔術への理解力も申し分ない。だが、このアリスという少女が持つ最も恐ろしく、飛び抜けた才能――それは、天性の『人誑し』の才能であると。
本来ならルスラの味方すべき立場であるはずの執事のヴィンセントなんて、この一週間でますますアリスの虜になっていた。
拾った直後なんて生きた人間に興味を示さず、死体としか会話しなかったあの偏屈なヴィンセントが、アリスが来るたびに最高級の茶葉を嬉々として用意し、まるで忠犬のように付き従っているのだ。
それは彼女の供回りの者たちを見ても明らかだった。
アリスの護衛であるグオークやルスカーといった屈強な騎士たちも、彼女が少しつまずきそうになるだけで血相を変えて飛んでくるし、専属メイドのセーラに至っては、アリスの呼吸一つ一つを観察して、少しでもアリスが喜んだ仕草をすると、そのたびに感動して涙を流す始末だ。
純真無垢という名の、抗いようのない暴力。
誰も彼もが、彼女に喜んでもらいたい、彼女の役に立ちたいと、自ら進んで手のひらの上に乗りにいくのだ。
そして、ルスラ自身も例外ではないことを、彼女は密かに自覚し始めていた。
「ルスラ様! 今日も死霊魔術について教えてください!」
目を輝かせてこちらを見上げるアリス。
怪人が残した血の解析という、途方もなく時間のかかる難題を抱えているはずなのに、ルスラは不思議と苛立っていなかった。
むしろ、この輝くような生気に満ちた少女に、己の積み上げてきた知識を語り聞かせる時間に、奇妙な充実感すら覚えていたのだ。
「……まったく、せっかちな小娘じゃ。紅茶が冷める前に、少しだけじゃぞ」
「はいっ!」
嬉しそうに小躍りするアリスを見つめながら、ルスラは気づかれないように小さく息を吐いた。
どうやら自分も、この無垢なる侵略者に、すっかりと城を落とされてしまったか。
◆
紅茶のカップを置き、ルスラは一息ついたときだった。
「さて、今日の授業はここまでじゃ。お主はもう帰りなさい」
そう言って席を立とうとしたルスラだったが、アリスは引き下がらなかった。
「ええーっ……」
アリスはあからさまに肩を落とし、この世の終わりのような悲しげな表情を作った。
「もっとルスラ様と一緒にいたかったのに……」
その潤んだ瞳で見つめられると、まるで自分がとんでもない悪事を働いているかのような錯覚に陥ってしまう。
「……羨ましい限りです! アリス様にこれほどまでに懐かれるとは」
傍らに控えていたヴィンセントが、本気で羨望の混じったため息を漏らす。すると、背後で控えていたメイドのセーラがビクッと肩を跳ねさせた。
「はっ……!? もしや、本当の敵はルスラ様……!?」
「ええい、やかましい」
的外れな警戒心をむき出しにするセーラと、呆けた顔のヴィンセントに、ルスラは忌々しげに声を荒らげた。まったく、どいつもこいつも調子が狂う。
「とにかく、ワシはこれから出かけねばならん用事があるのじゃ。ほれ、さっさと馬車に乗りなさい」
シッシッと犬を追い払うように手を振るルスラに対し、アリスはふと、不思議そうな顔で小首を傾げた。
「もしかして、ルスラ様はこれから『あの街』へ行かれるのですか?」
「……なっ」
思わぬ言葉が飛び出し、ルスラの動きがピタリと止まった。
どうして、この箱入り娘がそんなことを知っているのか。驚きを隠せないルスラに、アリスはニコリと無邪気に笑ってみせた。
「パパが言っていたんです。ルスラ様は、定期的にあそこへ通って、お金がなくて困っている人たちによくしてくれているって。パパ、あの点に関してだけは、ルスラ様に頭が上がらないって言ってましたよ」
クライネルト公爵の奴め、裏で勝手にワシの行動を調べ回っておったか。
ルスラは舌打ちしたい衝動をグッと堪えた。
貴族のくせにスラム街へ通うなど、物好きだと嘲笑されるだろうと誰にも言ってはいなかった。それを公爵家が把握していたことへの驚きはあったが、ルスラは肯定も否定もせず、ただ杖を床に突いた。
「……どこへ行こうがワシの勝手じゃ。とにかく、お主のような子供が立ち入る場所ではない。今日はもうお帰り」
そう言って話を打ち切ろうとした瞬間、アリスが両手をギュッと胸の前で握りしめ、目をさらに輝かせた。
「わたしも、ついていきたいです!」
「……は?」
「公爵家の令嬢として、領民への奉仕は当然の務めです! わたしもルスラ様を見習って、困っている人たちのお手伝いがしたいんです。どうか、わたしも一緒に行かせてください!」
本気か、とルスラは目を疑った。
貧民街は、悪臭と病魔、そして泥にまみれた掃き溜めだ。最高級のドレスに身を包んだ、汚れを知らぬ無垢な令嬢が自ら赴きたいなどと口にする場所ではない。
「おお……! なんと慈悲深きお心……! さすがはアリス様です!」
「ああ、我らが主はどこまでもお優しい……!」
「お嬢様、このセーラもどこまでもお供いたします!」
ヴィンセントが感極まったように声を震わせ、護衛のグオークやルスカー、そしてセーラまでもが主の気高さに心打たれ、深く頷いている。
ルスラは一瞬、それが貴族特有の偽善や点数稼ぎではないかと疑いかけた。
だが、この一週間、死の痕跡を前にしても偏見を持たず、真っ直ぐに物事を見つめようとしてきた彼女の姿が脳裏をよぎる。あの濁りのない瞳に、嘘や打算があるようにはどうしても思えなかった。
この子は本心から、救いの手を差し伸べようとしているのだ。
「……まったく、物好きな小娘じゃ」
ルスラは深くため息をつくと、呆れたように、けれどどこか口元を緩ませて頷いた。
「よいじゃろう。ただし、途中で泣いて帰ると言っても知らんぞ」
「はいっ! ありがとうございます、ルスラ様!」
満面の笑みで飛び跳ねるアリスを見て、ルスラは再び小さく息を吐いた。




