59話 血痕
ルスラは静かに息を吐き、魔力の供給を断ち切った。
「ガ、ァ……」
呻き声を上げていた若者のゾンビは、糸が切れた操り人形のように崩れ落ち、再び冷たい骸へと戻った。
ルスラは床に転がった遺体の手足を丁寧に揃え、乱れた衣服を直してやる。
「無理やり起こして悪かったな。もう休むがよい」
それは、死を弄ぶ魔女らしからぬ、どこまでも慈愛に満ちた手つきだった。死者の魂に対する敬意。それこそが、ルスラの根底にある美学なのだ。
その日の夜。
領都オーベニールの地下深く、忘れ去られた旧下水道。
鼻を突くカビと汚水の臭いが立ち込める暗闇の中を、二つの影が静かに進んでいた。
先頭を歩くヴィンセントが手にしているのは、淡い光を放つ魔石製のランプだ。その頼りない明かりだけを頼りに、彼らは複雑に入り組んだ地下迷宮を奥へ奥へと進んでいく。
「……驚きましたね。まさかスラムの地下に、これほど広大な空間が隠されていたとは」
ヴィンセントが、ランプの光で濡れたレンガの壁を照らしながら感心したように呟いた。
「ふん。パンドラのネズミ共め。コソコソと隠れることだけは一流じゃな」
ルスラは杖を突きながら、油断なく周囲の気配を探る。
やがて二人は、開けた空間へと出た。パンドラが秘密の集会や物資の隠し場所として使っていたであろう、地下広場だ。
「大奥様。……何もありませんね」
ヴィンセントがランプを高く掲げ、広場を見渡して言った。
木箱の破片や酒瓶が散乱してはいるものの、金目のものや武器、そして何より、ここで殺されたはずの死体すら一つも残されていない。見事に空っぽだった。
「犯人の怪人が持ち去ったのか、あるいは後からハイエナ共が漁ったのか……。これでは、手がかりなど見つかりそうにありません」
残念そうに首を振るヴィンセント。だが、ルスラは動じなかった。彼女の口元には、不敵な笑みが浮かんでいる。
「お主はまだまだ未熟じゃな、ヴィンセント。見るべき場所が違うわい」
「と、おっしゃいますと?」
「死体がないなら、死の痕跡を探せばよいのじゃ。……これだけあれば十分じゃよ。ほれ、あそこを見ろ」
ルスラが杖の先で指し示したのは、広場の隅にある石畳だった。
ヴィンセントがランプを近づけると、そこにはどす黒く変色した染みが、べっとりとこびりついていた。血痕だ。
「血痕……ですか。しかし、これだけで何がわかるというのです?」
「よいか、ヴィンセント。血は死の記録媒体じゃ」
ルスラは、弟子を諭すように語り始めた。
「人が死ぬ瞬間の恐怖や絶望……そうした魂の残響のようなものが、ほんのわずかにだがこの血にこびりついておる。死体とは違い、はっきりとした記憶など残っておらんがな。だが、この微かな澱みを手繰り寄せれば、奴に繋がる細い糸口くらいは見つかるかもしれん」
「なるほど……! さすがは大奥様です」
「ふん、感心しておる暇があったら、さっさと採取せんか。とはいえ、血の解析は時間がかかる。いったん屋敷に持ち帰るぞ」
「かしこまりました」
ヴィンセントは懐から木綿とピンセットを取り出すと、ひざまずいて丁寧な手つきで血の染み込んだ土や乾いた血痕を採取し始めるのだった。
◆
翌日。
ナディガル侯爵邸、ルスラの書斎。
机の上には、昨日採取した血痕が入った小瓶と、複雑な魔法陣が描かれた用紙が散乱している。
「……ええい、忌々しい」
ルスラは、苛立たしげに用紙をくしゃくしゃに丸めて投げ捨てた。
昨晩から徹夜で血痕の解析を続けているが、一朝一夕に答えが出るような代物ではない。
そもそも、血にわずかにこびりついた魔力の残滓から術式を逆算するというのは、底なしの泥沼から極細の糸を一本ずつ手繰り寄せるような、途方もなく繊細で時間のかかる作業なのだ。
怪人の正体に繋がる情報は確実にこの血の中に隠されているはずだが、その暗号を完全に解き明かすには、まだまだ途方もない時間と労力が必要になる。手詰まりというわけではないが、もどかしい足踏み状態を強いられていた。
そう思ってルスラががっかりと深いため息をついた、その時だった。
「大奥様! 大奥様ッ!」
珍しく取り乱した様子のヴィンセントが、ノックもそこそこに書斎へ飛び込んできた。
「なんじゃ騒々しい。死体でも踊りだしたか」
「ち、違います! いらっしゃったのです! あの方が、再びこの屋敷に!」
ヴィンセントの顔は、困惑と、そして隠しきれない歓喜で火照っていた。
その背後から、ひょっこりと小さな顔が覗く。
「ごきげんよう、ルスラ様!」
銀の鈴を転がしたような、愛らしい声。
そこには、フリルがふんだんにあしらわれた純白のドレスに身を包み、天使のような微笑みを浮かべたアリス・フォン・クライネルトが立っていた。
その後ろには、目を細めてヴィンセントを睨みつけるメイドのセーラと、困り顔の二人の護衛騎士がしっかりと付き従っている。
「また遊びに来ちゃいました! どうしてもルスラ様にお会いしたくて……」
よりによって、こんな忙しい時に。
ルスラは一瞬、忌々しげに顔をしかめた。しかし、そのわずかな表情の変化を敏く察したのか、アリスはパッと花のような笑顔を曇らせた。
「……もしかして、だめ、でしたか?」
きゅっと小さな唇を尖らせ、しゅんと眉を下げて上目遣いで見つめてくる。
そのあまりの破壊的なかわいさに、ルスラはだんだんとイライラしてきた。こんな反則的な顔を向けられて、無碍に追い返せる大人などこの世に存在しない。それがわかっているからこそ、自分のペースが乱されて腹立たしいのだ。
とはいえ、とルスラは机の上の血痕が入った小瓶をちらりと見た。
血の解析には、どのみち途方もない時間がかかる。ずっと張り付いて睨み合っていてもすぐに答えが出るものではないし、放っておいても解析そのものは進む。
そう自分に都合の良い言い訳を並べ立てて、ルスラは深い、深いため息を吐き出した。
「……わかった。好きにせい」
すっかり諦めきった声でそう告げる。
「やったー! ありがとうございます、ルスラ様!」
アリスはパァッと顔を輝かせ、両手をギュッと握りしめながら、その場でピョンピョンと嬉しそうに小躍りした。




