58話 残像
薄暗い納屋の中には、鼻を突くような血の匂いと、甘ったるい腐敗臭が充満していた。
ルスラ・フォン・ナディガルは、冷たい土間の中央に横たえられた粗末な木箱を見下ろした。
まだ墓地へと運ばれる前の、急ごしらえの棺である。その中には、血と泥にまみれた若者の遺体が安置されていた。
凄惨、という言葉すら生ぬるい。
遺体の全身には、鋭利な刃物で切り刻まれた無数の裂傷が走っていた。致命傷は、首の右側から頸動脈を深く抉り取った一撃。切断面は異常なほど滑らかで、まるで不可視の断頭台にでもかけられたかのようだ。
無抵抗の人間を、ただの遊びで解体したような悪意の痕跡。
ルスラは静かに目を伏せ、傍らで泣き崩れる母親へと視線を向けた。
「……ひどいありさまじゃ。本当によいのかい? この遺体をワシが弄っても?」
ルスラの問いかけに、母親は腫れ上がった目をこすりながら、力なく頷いた。
「はい……。賢者様には、ここの者たちは皆、感謝しております。見捨てられた私たちに、いつも救いの手を差し伸べてくださる……。あなた様が、あの子の無念を晴らすために必要だと言うのなら、どうかお役に立ててください……」
母親の震える声には、深い悲しみと共に、ルスラに対する絶対の信頼が滲んでいた。
ルスラは小さく息を吐き、傍らに控えるヴィンセントへと視線で合図を送った。
「ヴィンセント。この者を遠くへ連れ出せ」
「かしこまりました。……さあ、奥様。こちらへ」
ヴィンセントが母親の肩を抱き、納屋の出口へと促す。
母親は名残惜しそうに息子の遺体を振り返ったが、ルスラは杖で床を軽く叩いた。
「これより先は、生者の目には毒じゃ。……お主の息子が、物言わぬ肉人形として動き出す様など、親が見るものではないからな」
その言葉に、母親は顔を覆い、すすり泣きながらヴィンセントと共に外へと出て行った。
納屋の中に、ルスラと遺体だけが残される。
静寂が下りた空間で、ルスラはゆっくりと杖を掲げた。
「さて、と。……無念なのはわかるが、少しばかり無理をしてもらうぞ」
杖の先端から、淀んだ紫色の魔力が糸のように溢れ出し、遺体へと絡みついていく。
死霊魔術の基礎たる、死体起動の術式。
残された肉体に仮初の命令系統を構築し、強制的に動かす野蛮な術だ。
――ギギッ、ゴキリ。
死後硬直の始まった関節が、嫌な音を立てて折れ曲がる。
棺の中で、若者の遺体がゆっくりと上体を起こした。白濁した眼球がギョロリと動き、焦点の合わない視線が空中を彷徨う。
いわゆる、ゾンビと呼ばれる状態だ。
世間のおとぎ話では、ゾンビに噛まれると呪いが伝染し、その者も同じゾンビになると恐れられている。だが、死の賢者であるルスラからすれば、それは無知ゆえの迷信に過ぎない。
実際には、腐敗した歯で噛まれることで重篤な雑菌が入り込み、破傷風や感染症で死に至るだけのことだ。
だが、ゾンビが知能を持たず、生ける者に対して無差別に襲い掛かる狂暴な存在であることだけは事実だ。
肉体は、ただ純粋な破壊衝動に突き動かされて生者の肉を求める。
さあ、来るがいい。その衝動を押さえつけ、魂の奥底を探るのがワシの仕事じゃ。
ルスラが迎撃の構えをとった、その時だった。
「ガァ……アァァァッ!!」
木箱を蹴り破り、若者だったゾンビが獣のような咆哮を上げて飛びかかってきた。
死の瞬間の恐怖など、今のこやつには欠片も残っていない。腐りかけた脳を支配しているのは、ただ目の前にある生者の血肉を啜りたいという、醜くも純粋な飢餓感のみ。
鋭い爪と化した指先が、ルスラの喉元へと迫る。
だが、死の賢者は眉一つ動かさなかった。
「……少しの間、大人しくしてもらうぞ」
ルスラが短く呟き、杖の石突きで土間を強く叩いた。
ドンッ、と重い音が響いた瞬間。
ゾンビの身体が、空中でピタリと静止した。
まるで、目に見えない無数の鎖で全身を縛り上げられたかのように、指先一つ動かすことができない。
「ガァ……ッ! ア、ァァ……!」
関節を軋ませ、なおも生者の肉を求めて呻き続けるゾンビ。
これは、死霊魔術における『隷属』の術式。
知能のない下級アンデッド程度、術者の圧倒的な魔力と格の違いを見せつけるだけで、容易にその行動を封じ込めることができる。
ギィ、と納屋の扉が開き、ヴィンセントが戻ってきた。
「大奥様。……おや、随分と元気な検体ですね」
ヴィンセントは、空中で硬直したままもがくゾンビを見て、涼しい顔で言った。
「ふん。若い分、肉体の反発が強いだけじゃ。……さて、ここからが本番じゃぞ」
ルスラは杖を放し、拘束されたゾンビの頭部を両手で挟み込むように掴んだ。
「何かわかりましたか?」
「それを、今から調べるのじゃ。少し黙っておれ」
ルスラは目を閉じ、自身の意識をゾンビの淀んだ魂の奥底へと沈めていく。
これは『感覚共有』。本来ならば、自らが作り出したアンデッドの視覚や聴覚を借りて、遠隔操作を行うための高度な魔術。
だが今回は、今の景色を見るためではない。肉体という器にわずかにこびりついた、死の直前の『残像』を無理やり引っ張り出すため。
――瞬間、ルスラの視界が黒く塗り潰された。
ひどいノイズだ。恐怖と苦痛で、記憶の輪郭がドロドロに溶け崩れている。
だが、その濁った視界の向こうに、確かに『それ』はいた。
……黒い、おぞましい影。
背丈もわからない。雰囲気すら掴めない。
ただ、その影が揺らめくたびに、周囲の空間そのものが死の気配に染まり、抗うことすら許されない圧倒的な暴力が迫ってくる。
顔はドクロの仮面に覆われている。その、内側から、無邪気で、残酷で、およそ人間とは思えない底なしの悪意がこちらを覗き込んでいるのを感じた。
パチンッ、と。
影が何かを弾くような動作をした直後、視界がぐるぐると回転し、血の赤に染まって途切れた。
「……ッ!」
ルスラは息を呑み、ゾンビから手を離した。
「大奥様!」
ヴィンセントが素早く駆け寄り、よろめいた主の身体を支える。
「……大事ない。少し、当てられただけじゃ」
ルスラは荒い息を整えながら、額に浮かんだ冷や汗を拭った。
「犯人の顔は、見えなんだ。……あれは、人間という枠に収まるような存在ではないやもしれん」
「では、何も収穫はなかったと?」
「いや」
ルスラは、鋭い眼光を取り戻し、ニヤリと魔女の笑みを浮かべた。
「奴の姿はわからなんだが……『場所』は見えた」
記憶の断片に映り込んでいた、周囲の光景。
湿ったレンガの壁。天井を這う太い配管。そして、壁に刻まれた『鍵穴』の紋章。
「スラムの地下を走る旧下水道。……パンドラの連中が、秘密の集会や物資の隠し場所にしていた場所じゃ。この若者は、そこで下働きをしている最中に、あの怪人の襲撃に巻き込まれたのじゃろう」
ルスラの言葉に、ヴィンセントの目が細められた。
「なるほど。怪人がパンドラを根こそぎ潰して回っていた時期の犯行ですね。……しかし大奥様、パンドラは既に壊滅しております。今更その場所へ向かって、何の手がかりがあるとお考えで?」
「何もなければ、それでよし。だが……」
ルスラは、床に転がる杖を拾い上げた。
「あの異様な悪意。そして、死体を芸術品のように飾り立てる異常性……。奴らがその秘密基地になんらかの手がかりを残していても不思議ではない」
あるいは、新たな犠牲者を求めて、怪人自身がその場に戻ってくる可能性だってある。
「行くぞ、ヴィンセント。……あの怪人の尻尾、ワシが確実に踏み潰してやる」
ルスラは、死の賢者としてのプライドをかけ、地下の闇へと足を踏み入れる決意を固めた。




