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57話 死の賢者の美学

 陽が傾き、領都オーベニールの空が赤銅色に染まる頃。


 活気に満ちたメインストリートや、華やかな赤レンガ市場の喧騒から遠く離れた場所に、その区画は存在していた。

 城壁の影に押し込められるようにして広がる、傾いた木造建築の密集地。陽の光さえ満足に届かず、常に淀んだ空気が滞留している場所――スラムと呼ばれる貧民街である。


 石畳はひび割れ、汚水が溝をチョロチョロと流れるその暗い路地を、一人の老女と、燕尾服を着こなした長身の男が歩いていた。


「……相変わらず、ひどい臭いじゃな」


 ルスラ・フォン・ナディガルは、杖をつきながら忌々しげに鼻を鳴らした。


「申し訳ございません、大奥様。ですが、これでも以前に比べれば随分とマシになった方なのですよ」


 執事のヴィンセントが、涼しい顔で答える。


「ふん。お主がここで育ったからといって、贔屓目に見るでないわ」


 ルスラが憎まれ口を叩きながら歩みを進めると、路地の奥から、ボロボロの服を着た子供たちがわらわらと集まってきた。


「あ、魔女のお婆ちゃんだ!」


「お婆ちゃん、また来てくれたの!」


 泥だらけの顔をした子供たちが、ルスラの周りを囲んで無邪気にはしゃぎ回る。

 普通の貴族であれば、顔をしかめて追い払う場面だ。


「ええい、鬱陶しい! ワシは魔女ではないと言っておろうが! ほれ、これで向こうへ行っておれ!」


 ルスラは眉間に皺を寄せて怒鳴りながらも、懐から取り出した紙包みを、乱暴に子供たちの群れへと放り投げた。


「わあ、飴玉だ!」


「ありがとう、お婆ちゃん!」


 甘い匂いを漂わせる高級な焼き菓子と飴玉に群がり、子供たちは蜘蛛の子を散らすように路地の奥へと消えていった。


「……相変わらず、子供たちには大人気ですね」


「やかましい。ただの目眩ましじゃ」


 ヴィンセントの柔らかな指摘を、ルスラはそっぽを向いて切り捨てた。


 二人が向かったのは、貧民街の最奥にある、ひときわ古びた建物だった。

 かつては倉庫だったらしいその広い空間には、粗末な藁のベッドがいくつも並べられ、咳き込む音や、痛みにうめく声が充満している。


 ここは、社会に見捨てられた者たちが最後に流れ着く場所。

 治る見込みのない病に侵された者や、老衰で死を待つばかりの者たちが集まる、いわば終末期の施療院だった。


「おお……ルスラ様。本日も、わざわざお越しいただいたのですね」


 入り口で出迎えたのは、質素な白い法衣を纏った若い神官の女性だった。

 彼女の目の下には濃いクマがあり、魔力の枯渇による疲労が色濃く滲んでいる。


「ふん。ソフィア教の神官殿が、こんな掃き溜めでご苦労なことじゃ」


「いえ……私など、無力なものですから」


 神官は、自嘲気味に力なく微笑んだ。


 一般的に、神官が使う【回復魔法】は万能の奇跡のように思われている。

 だが、現実はそう甘くない。

 傷口を塞ぐことはできても、失われた手足を生やすことはできないし、寿命や進行しきった重い病を癒やすこともできない。何より、神官自身の魔力タンクの容量には限界があり、一日に使える魔法の回数などたかが知れている。


 この貧民街で奉仕活動をしている彼女たち神官は、救えない命の多さに日々心をすり減らしていた。


「あの方々の苦痛を取り除くことすら、今の私の魔力では……」


「よい。お主らは生かすための努力をすればいい。……死の淵を歩く者の手当ては、専門家の領分じゃ」


 ルスラは短く告げると、施療院の奥へと足を踏み入れた。


 彼女は、苦痛に顔を歪める老人のベッドの傍らに立ち、そのしわがれた手をそっと握った。


「……苦しいか」


 老人は、虚ろな目でルスラを見上げ、かすかに頷いた。


「もうすぐじゃ。……もうすぐ、この重たい肉の檻から解き放たれる。痛みも、苦しみも、すべて置いていくがよい」


 ルスラが杖の先を老人の額に当てると、淡い紫色の魔力が波紋のように広がった。

 それは、死霊魔術の真髄。

 肉体と魂の結びつきを緩め、死に至る過程の苦痛を麻痺させる、極めて繊細な魂の鎮静術だった。


 老人の顔からスッと苦悶の表情が消え、まるで幼子のように安らかな寝顔へと変わる。

 このまましばらくしていれば、いずれ安らかに旅立てるはずだ。


「……ご苦労じゃったな」


 ルスラは、老人の閉じたまぶたをそっと撫でた。


 世間では、死を弄ぶ忌まわしき『死の賢者』として恐れられている。

 だが、彼女にとっての死霊魔術とは、死を冒涜するものではない。

 死という絶対の理を理解し、魂が肉体から離れゆくその最後の瞬間を、最も美しく、安らかに導くことこそが、彼女の術式が持つ本来の美学なのだ。


「大奥様。……次の方の準備ができております」


 ヴィンセントが、静かに声をかけた。

 彼もまた、かつてはこの貧民街で死を待つだけの孤児だった。だが、彼が秘めていた魔術師としての稀有な才能をルスラがいち早く見抜き、拾い上げて手ほどきをしたのである。

 だからこそ、彼は誰よりも主のこの不器用な優しさと、死に対する厳粛な姿勢を崇拝していた。


 数人の患者を看取り、施療院の空気がいくらか穏やかになった頃。


「あ、あの……! 賢者様」


 不意に、背後から声をかけられた。

 振り返ると、この貧民街の顔役でもある初老の男が、周囲を気にするように立ち尽くしていた。


「どうした。騒々しい」


「以前、賢者様がおっしゃっていましたよね。もし『怪人』の手がかりになりそうなものを見つけたら、すぐに教えてくれと」


 男の言葉に、ルスラの目の色がスッと冷たく、鋭いものに変わった。

 ヴィンセントもまた、表情を引き締めて男を見下ろす。


「……怪人の被害者を見つけたのか?」


「ええ。どうか、こちらへ……」


 男に連れられ、ルスラたちは施療院の裏手にある薄暗い小屋へと向かった。

 そこには、ひどく沈み込んだ様子の女性が、魂が抜け落ちたようにへたり込んでいた。

 赤く腫らした目から、どれほど涙を流したかが窺える。


「私の息子が……っ、冷たい死体となって見つかったんです……っ」


「息子さんは……パンドラの構成員ですか?」


 ヴィンセントが静かに問う。

 もしそうなら、一連の『オーベニールの怪人』の仕業だ。

 だが、女性は激しく首を横に振った。


「違います。あの子は、パンドラの連中がたむろしている場所で、ただ下働きをしていただけなんです。それなのに、巻き込まれて……あんな無惨な姿で……っ!」


 女性は床に崩れ落ち、嗚咽を漏らした。

 目撃者を消すためか、それともただの遊戯か。パンドラとは無関係な一般市民にまで牙を剥くのは、まさにあのふざけた快楽殺人鬼の手口だった。


「……ヴィンセント」


「はっ」


「その死体がある場所へ案内させよ」


 ルスラの低く、地を這うような声が、小屋の空気を凍らせた。


「え……? 息子の、死体をですか……?」


 女性が戸惑ったように顔を上げる。

 我が子の変わり果てた姿など、これ以上見たくもないだろう。

 だが、ルスラは杖でドンッと床を叩いた。


「そうじゃ。死体が残っておるのなら、ワシの死霊魔術の出番じゃろうが」


 死の賢者の瞳の奥で、静かなる怒りと知的好奇心の炎が燃え上がる。


「物言わぬ骸から魂の残滓を引きずり出し、死の瞬間の記憶を暴き出す。……あの怪人の手がかりを掴むには、これ以上ない素材じゃ」

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