56話 忙しいは嘘ではない
バタン、と重厚な扉が閉められた。
嵐のような――いや、春の陽だまりのような少女が去った後の応接間には、再び重苦しい静寂と、わずかに残るベルガモットの香りだけが漂っていた。
「……よろしかったのですか、大奥様」
ヴィンセントが、片付けをしながら静かに問いかけた。
その顔は、先程までの骨抜きにされたようなだらしない表情から一転し、能面のように冷徹な執事の顔に戻っている。
「あのような優秀な……いえ、天使のようなお方を、あんなにも無下に追い返してしまって」
「ふん。追い返すもなにも、事実を言ったまでじゃ」
ルスラは鼻を鳴らし、杖をついて立ち上がった。
「ワシは『忙しい』と言ったじゃろう。それは、子供をあしらうための建前ではない。……言葉通りの意味じゃよ」
彼女はカツカツと足音を鳴らし、部屋を出る。
向かう先は、先程までいた最奥の書斎だ。
ヴィンセントもまた、主の背中を追って音もなく廊下を進む。
書斎に戻ったルスラは、部屋の壁に掛けられていたタペストリーを、杖の先で荒々しく払いのけた。
そこには、領都オーベニールの精細な地図が張り出されていた。
だが、それはただの地図ではない。
市街地のあちこちに、赤いインクで×印が書き込まれ、無数のメモ書きや、切り取られた新聞記事、そして、糸で繋がれた相関図がびっしりと張り巡らされている。まるで、呪いの儀式の跡か、あるいは狂人の落書きのようだった。
「……ヴィンセント。お主、本当に公爵家の騎士団が発表した通り、『オーベニールの怪人』の正体は、あの捕まった盗賊たちだと思っておるのか?」
ルスラは地図を睨みつけながら、低い声で問うた。
ヴィンセントは首を横に振った。
「いいえ。そんなはずがございません。……あのような三流の盗賊風情に、これほど大規模で猟奇的な事件を起こせるはずがない」
「そうじゃろうな」
ルスラは、地図上の×印の一つを指でなぞった。
ここ数ヶ月、領都を震撼させてきた怪奇事件。
世間では『オーベニールの怪人』と呼ばれている一連の騒動。
「始まりは、数ヶ月前のドゴルゴン第三王子の不審死じゃ」
王族が殺され、壁に血文字が残されていた事件。あれが狼煙だった。
それ以降、まるで堰を切ったように不可解な失踪と変死が相次いだ。
被害の規模、数、そして手口……。狙われているのは、主に裏社会の住人、闇ギルド『パンドラ』の構成員たち。
ルスラの指が、地図上のスラム街や港湾地区に集中している×印を叩く。
その数は、片手では到底足りない。
たった数ヶ月で、街に根を張っていた巨大な犯罪組織が、根こそぎ刈り取られたのだ。
「世間では、悪党ばかりを狙う『義賊』ではないかと噂されておるが……。被害者のリストを洗えば、それが的外れな希望的観測だとすぐにわかる」
彼女は、机の上に散らばっていた調査資料の一枚を摘み上げた。
「賭博場の掃除婦、酒場の給仕、帳簿係の老人……。パンドラの構成員ではない、ただ現場に居合わせただけの一般人も、等しく『処理』されておる」
「はい。……目撃者は生かさない、という徹底した流儀を感じます」
「そうじゃ。そこに慈悲も、正義もない」
ルスラは吐き捨てるように言った。
義賊ごっこなどではない。これは、もっと無機質で、冷酷な『排除』だ。
事実、生き残ったパンドラの構成員たちも、騎士団の取り調べに対して異常な反応を示しているという。
「騎士団の連中が酒場で愚痴っておったわ。『生き残りの連中、まるで幽霊でも見たかのように震えて、何一つ喋ろうとしない』とな」
彼らは、法による裁きよりも、もっと恐ろしい『ナニカ』に怯えている。
口を割れば、自分も消される。
そんな根源的な恐怖が、裏社会の住人たちを沈黙させているのだ。
「……そこまで警戒する必要があるのでしょうか?」
ヴィンセントが、首を傾げて地図を見た。
「確かに、手口は鮮やかですが……。今のところ、奴が狙っているのはパンドラとその関係者のみ。そして、パンドラは既に壊滅状態です。……もう、これ以上の事件は起きないのでは?」
「馬鹿を言え」
ルスラは、執事の楽観論を一蹴した。
「奴らの犯行現場を見てみろ。……あれは、単なる暗殺者の仕事ではない」
ルスラの脳裏に、報告書にあった凄惨な現場写真が蘇る。
広場の噴水に、切断された手足をパズルのように組み合わせて作られた、前衛的なオブジェ。
殺害現場の壁一面に、被害者の血を使って書かれた『ごちそうさまでした♡』という、ふざけたメッセージ。
そして、ドクロのマーク。
「ただ殺すだけなら、死体は隠せばいい。だが奴らは、あえて死体を飾り立て、衆目に晒しておる」
ルスラは、ギリ、と奥歯を噛み締めた。
それは、力の誇示だ。
自分たちはここにいるぞと。
命など、自分たちにとっては粘土細工のおもちゃに過ぎないのだと。
そう主張するかのような、圧倒的な狂気と傲慢さ。
「あれは、恐怖を楽しんでおるのじゃよ。……あるいは、自分たちの力を試す実験場として、この街を使っておるのかもしれん」
ルスラの背筋に、冷たいものが走る。
長年、死と向き合ってきた『賢者』としての勘が告げている。
あれは、盗賊ごときではない。
もっと異質で、強大な――何かの仕業だと。
「パンドラという獲物がいなくなったからといって、あのような化け物が大人しく引き下がるとは思えん。……次は、もっと大きな獲物を狙うかもしれんぞ」
ルスラは、地図上の『貴族街』へと視線を移す。もし、その牙が表社会の権力者に向けられたら? あるいは、無差別に市民を襲い始めたら?
「ワシの庭で、これ以上好き勝手はさせん」
ルスラの瞳が、猛禽類のように鋭く細められた。
大陸に十人しかいない賢者の一人として、これ以上、不法者に好き勝手な真似をさせるわけにはいかない。
「調査を続けるぞ、ヴィンセント。……『オーベニールの怪人』。その尻尾を掴み、ワシの前に引きずり出してやる」
ルスラは、地図に突き立てられた赤いピンを、杖で強く押し込んだ。
「泣いて詫びるまで、たっぷりと教育してやるからな」
その瞳には、怪人を決して許さぬ、冷徹な覚悟が宿っていた。
◆
その頃。
公爵邸の自室に戻っていたわたし――アリスは、ふかふかのベッドにダイブして、ふぅっと大きく息を吐き出した。
「お嬢様、お疲れですか? 温かい紅茶と、焼き立てのクッキーをお持ちしましょうか」
心配そうに覗き込んでくるセーラに、わたしはとびきり愛らしい笑顔を向ける。
「うんっ! アリス、あまいお菓子たべたいな!」
セーラが「すぐに極上のスイーツをご用意いたします!」と鼻息荒く部屋を出て行ったのを見送ってから。
わたしはスッと、完璧な令嬢の笑みを引っ込めた。
誰もいなくなった部屋で、わたしは枕の下に隠しておいた数枚の書類を引っ張り出す。
そこにびっしりと書き込まれているのは、ナガクやヴァグたち眷属を総動員して、裏から徹底的に調べ上げさせた、死の賢者ルスラ・フォン・ナディガルの戦力データだ。
……推定レベル、80以上。
メインスキルである死霊術師の加護は、当然のようにレベル10と最大値。
へー、しかもこんな魔術まで扱えるなんて、流石に強すぎるかも。
今日、直接対面して肌で感じた魔力の質からもわかる。
過去に街を消し飛ばすレベルのドラゴンを単騎で討伐したとかいうドン引きするようなエピソードを聞いたことあるけど、決してただの大袈裟な噂話なんかじゃない。
流石に、無理かも。
わたしは書類をバサッと放り投げ、ベッドの上でゴロゴロと寝転がりながら天井を見つめた。
絶対に、正面から普通に戦ってはいけない相手だ。
今のわたしじゃ、真正面からぶつかれば、負けるかも。
いや、わたしの天才的なプレイヤースキルを駆使すれば、ギリギリ勝てる目もあるかもしれない。
でも、仮に勝てたとしても、こちらの被害は甚大だ。苦労して集めたナガクやヴァグ、ネネムーたち可愛い眷属の大勢を失うことになる。
それは嫌だ。
苦労して手に入れた眷属たちを、こんなところで強引に使い捨てるなんて、三流ゲーマーのやることだ。
もちろん、そんな理想的なこと言っていられない状況はくるかもしれない……。
でも、今じゃない。
深呼吸をして、冷静に考える。
わたしは自分が宇宙一かわいくて、圧倒的な才能を持つ最強の存在であることを自覚している。
けれど、己の力に溺れず、こうして客観的に戦力分析ができること。
これこそが、わたしが常に勝者であり続ける理由だ。
うん、真正面からの力比べで勝てないのなら、やり方を変えるだけ。
こちらの被害をゼロにして、あのチート賢者を確実に仕留める方法。
わたしは自分の小さな手をギュッと握りしめ、頭の中で様々な盤面をシミュレーションし始める。
どんな手を使ってでも、あのおばあちゃんの息の根を止めて、わたしの最高の手駒にしてやる。
さて、どうやって攻略してやろうかな。
わたしは一人きりの部屋で、口の端を吊り上げて、最高にかわいい笑顔を浮かべた。




