53話 死の賢者
ナディガル侯爵邸、最奥の書斎。
重厚なカーテンが閉ざされ、昼間だというのに薄闇に包まれたその部屋で、一人の老女が深いため息をついた。
「……ふん、馬鹿馬鹿しい」
ルスラ・フォン・ナディガルは、手に持っていた封筒を、無造作にマホガニーの机へと放り投げた。
封筒には、王家の紋章に次ぐ権威を持つ『双頭の鷲』――クライネルト公爵家の封蝋が押されている。
差出人は、現当主であるクライネルト公爵だ。
「あの堅物が、何をとち狂ったのかと思えば……娘の道楽に付き合えだと? ワシをなんだと思っておるのだ」
ルスラは、忌々しげに舌打ちをした。
彼女こそが、大陸に十人しかいない『賢者』の称号を持つ大魔導師であり、『死の賢者』として恐れられる生ける伝説だ。
本来ならば、国王ですら面会するには数ヶ月前から予約を取り付け、最上級の礼節を持って接しなければならない相手である。
それが、どうだ。
手紙の内容は、要約すればこうだ。
『うちの娘が魔法に興味を持っているから、少し話を聞いてやってくれ。ついては、娘が其方の屋敷へ通うことを許可してもらえないだろうか』
「家庭教師の真似事をしろということか。舐められたものじゃわい」
ルスラは、椅子に深く背を預けた。
彼女の周囲には、一般的な貴族の部屋にはあるまじき物品が並んでいる。
棚にはホルマリン漬けにされた奇形生物の標本。壁には人間の大腿骨を組み合わせたオブジェ。天井からは、乾燥させたトカゲやコウモリが魔除けのようにぶら下がっている。
ここは魔女の隠れ家であり、死を探求する実験室だ。
子供が遊びに来ていい場所ではない。
「そもそも、儂は貴族のガキが大嫌いなんじゃ」
ルスラは、シワだらけの指でこめかみを揉んだ。
長年、王宮に出入りしてきて嫌というほど見てきた。
親の権力を自分の実力だと勘違いし、高価なドレスを自慢し、気に入らないことがあればすぐに泣き喚く。
礼儀作法だけは一丁前だが、中身は空っぽ。
魔術の才能など欠片もないくせに、「私にも魔法を見せて!」などとねだる、浅ましい生き物。
「どうせ、今回来る小娘もその類じゃろうて」
クライネルト公爵の娘、アリスとか言ったか。
噂では「天使のような愛らしさ」だの「神童」だのと持て囃されているようだが、そんなものは親バカな公爵が流した世迷い言に決まっている。
きっと、フリルたっぷりのドレスを着て、香水の匂いをプンプンさせた、生意気なクソガキが来るに違いない。
「……いいじゃろう。そこまでして会いたいと言うなら、たっぷりと可愛がってやるわ」
ルスラの口元が、意地悪く歪んだ。
彼女の双眸が、暗闇の中で怪しく光る。
「泣いて詫びるまで、動く死体の解剖を見学させてやろうか。それとも、スケルトンのパーティーの真ん中に放り込んでやろうか」
この屋敷に入ったことを後悔させてやる。
二度と、魔法なんて見たくないと思わせるほどのトラウマを植え付け、泣きながら親元へ逃げ帰らせてやるのだ。
それが、身の程知らずな子供に対する、魔女流の「教育」というものだ。
コンコン、と。
控えめなノックの音が響いた。
「入れ」
ルスラが短く告げると、重い扉がゆっくりと開き、執事のヴィンセントが入ってきた。
彼はいつものように恭しく一礼する。
「失礼いたします、大奥様。……お客様が、応接間にてお待ちです」
「ふん、来たか」
ルスラは億劫そうに腰を上げた。
だが、ふとヴィンセントの顔を見て、眉をひそめた。
普段は死人のように無表情なこの男が、今日はなぜか、目を生き生きと輝かせている。
「……なんだ貴様、気持ち悪い顔をしおって。何かいい死体でも手に入ったか?」
「いえ、まさか。……ただ、素晴らしいお客様でしたので」
ヴィンセントは、うっとりとした夢見心地な声で言った。
「この世のものとは思えぬ、圧倒的な美貌……。生ある人間に対し、これほど心を奪われたのは初めてでございます」
「……は?」
ルスラは呆れたような声を漏らした。
このヴィンセントは、魔術師として優秀だが、同時に生きた人間よりも『物言わぬ死者』の方に安らぎを覚えるという、筋金入りの変人だ。
他人にこれほど興味を示すことなど、今まで一度もなかったというのに。
「毒でも盛られたか? まあいい、案内せい」
ルスラは杖を突き、部屋を出た。
廊下を歩く足音が、カツン、カツンと冷たく響く。
屋敷の中は意図的に薄暗くしてある。角を曲がるたびに、配置された鎧騎士がギギと首を動かしたり、絵画の目が動いたりする仕掛けも万全だ。
普通の子供なら、応接間にたどり着く前に泣き出している頃だろう。
「こちらでございます」
ヴィンセントが、応接間の扉の前で立ち止まり、恭しく扉を開け放った。
「――どうぞ」
ルスラは、鼻を鳴らしながら中へと足を踏み入れた。
さあ、生意気な小娘はどこだ。
恐怖に震えて泣いているか? それとも、この屋敷の趣味の悪さに文句を垂れているか?
第一声で、思い切り皮肉を言ってやろうと息を吸い込んだ、その時だった。
「はじめまして、賢者様」
鈴を転がすような、涼やかで愛らしい声が、部屋の空気を震わせた。
ルスラは、思わず言葉を飲み込んだ。
そこには、ソファからふわりと降り立ち、優雅にスカートの裾をつまんでカーテシーをする少女がいた。
窓から差し込む一筋の光を浴びて、その糸のような髪がキラキラと輝いている。
透き通るような白い肌。
大きな瞳は、最高級のアメジストのように深く、そして一点の曇りもなくこちらを見つめている。
――美しい。
死と腐敗にまみれたこの屋敷にあって、彼女だけが、まるで別の世界から切り取られたかのように鮮烈な「生」と「美」を放っていた。
「アリス・フォン・クライネルトと申します。本日は、お忙しい中お時間をいただき、本当にありがとうございます」
少女――アリスは、完璧な角度で顔を上げ、花が綻ぶように微笑んだ。
「……ッ」
ルスラは、思わず杖を握る手に力を込めた。
なんだ、この生き物は。
子供? いや、これは本当に人間の子供か?
人形のように整いすぎている。それなのに、あざとさや嫌味を一切感じさせない、圧倒的なまでの純粋無垢。
ルスラが用意していた「泣かせてやる」という意地悪な感情が、その笑顔一つで霧散させられそうになる。
毒気を抜かれるとは、まさにこのことか。
……ふん、なるほど。ヴィンセントが骨抜きにされるわけじゃ。
ルスラは内心で舌打ちをしつつ、努めて冷厳な表情を崩さぬよう、眉間に皺を寄せた。
ここで絆されては、魔女の名折れだ。
相手がどれほど可愛らしくとも、所詮は世間知らずの貴族の娘。甘やかすつもりはない。
「……ふん」
ルスラは、値踏みするようにアリスを頭のてっぺんからつま先まで見下ろした。
そして、鼻を鳴らして言い放つ。
「挨拶だけは、一丁前にできるようじゃな。……まあいい、そこへ座れ」
精一杯の虚勢を張って、ルスラはソファへとドカと腰を下ろした。




