49話 愛
パリンッ、という硬質な音と共に水槽にヒビに入った、次の瞬間。
ドゴォォォォォンッ!!
まるでダムが決壊したかのような勢いで、分厚いガラスが内側から砕け散った。
凄まじい水圧と共に、培養液が部屋中にぶちまけられる。
「ひゃっ!?」
わたしはとっさにスカートの裾を押さえ、バックステップで距離を取る。
だが、その培養液の中身――コードネーム「白」とやらのホムンクルスは、わたしの動体視力を以てしても捉えきれないほどの速度で迫ってきた。
「アリスさまぁぁぁぁぁぁぁッ!!」
鼓膜を劈くような、歓喜の絶叫。
濁流の中から飛び出してきたのは、雪のように白い肌を持つ、一糸まとわぬ少女の姿だった。
彼女は、生まれたての赤ん坊が母親を求めるような、あるいは狂信者が神にすがりつくような必死の形相で、一直線にわたしに向かってダイブしてきたのだ。
「すき! 大好き! 愛してるぅぅぅッ!!」
ドサッ!
受け身を取る暇もなかった。
わたしは、その白い塊に真正面からタックルされ、勢いよく床に押し倒された。
「んぐっ……!?」
背中に冷たい床の感触。
そして胸の上には、ずしりと重い「愛」の重量。
下手したら頭をぶつけて、大怪我一直線だったよ……。
けれど、わたしは怒らなかった。それどころか、聖母のような慈愛に満ちた微笑みを浮かべて、彼女を受け入れてあげる。
だって、仕方ないよね。
至近距離で、このアリスちゃんの『国宝級のかわいさ』を浴びちゃったんだから。
理性が焼き切れて、本能のままに求愛しちゃうのは、生物として正しい反応。
ああ、アリスちゃん。君はなんて罪な存在なんだろう。
存在するだけで、こうやって他人を狂わせてしまうなんて。
「うんうん、よしよし。ネネムーちゃんは甘えん坊さんだねぇ」
わたしは、懐いてきたペットをあやすように、余裕たっぷりに彼女の頭を撫でてあげようとした。
これぞ、主人の器の大きさってやつだね。
――ズブズブッ。
わたしの手が、彼女の頭に沈み込んだ。
「……え?」
髪の毛の感触じゃない。
まるで、少し溶けかけたマシュマロか、あるいはスライムのような、得体の知れない粘着質な感触。
「あぁっ! アリス様の手! アリス様のぬくもりぃッ! もっと! もっと触って! いっそ混ぜてぇッ!」
ネネムーが、恍惚とした声を上げながら、わたしの胸に顔をうずめる。
すると、彼女の輪郭がドロリと崩れた。
白い肌が液体のように融解し、わたしの服や肌にネットリと絡みついてくる。
「え、ちょっと……これ、どうなってるの?」
わたしは目を白黒させた。
抱きつかれているというより、飲み込まれている?
いや、コーティングされている?
ネネムーの体は、固体を保っていなかった。
まるで白玉団子か、つきたての餅のように、不定形に形を変えながら、わたしの体のラインにぴったりと張り付いてくるのだ。
「最高……最高ですぅ……! アリス様の匂い、アリス様の体温……! ああ、ネネムーの新しい体は、アリス様と一つになるためにあったんですぅ……!」
彼女の体である白い流動体が、わたしの首筋から頬、そして耳元へと這い上がってくる。
冷たいようでいて、どこか生暖かい、形容しがたい感触。
「ちょ、まっ、くすぐったいってば!」
わたしは身をよじったが、ネネムーは離れるどころか、さらに密着度を高めてくる。
「離れません! 一生離しません! ネネムーはアリス様の服になる! アリス様の皮膚になるぅうううううぁッ!」
いや、それは困る。
全身タイツみたいに張り付かれたまま生活するのは、公爵令嬢としてのファッションセンスに関わるし、何より動きにくい。
やれやれ、アリスちゃんの魅力がありあまるばっかりに、困ったことになっちゃったなぁ。
わたしが苦笑いで済ませようとした、その時だった。
「――貴様ァッ!!」
背後から、怒髪天を衝くような怒号が響いた。
「主殿から離れるんだ、このスライム女ッ!!」
ドカッ!
横合いから飛び込んできたクマのぬいぐるみ――ナガクが、短い足でネネムーの脇腹だと思われる場所を蹴り飛ばした。
ボヨヨンッ。
しかし、ネネムーの体はゴムまりのように衝撃を吸収し、ナガクの足をむにゅっと包み込んでしまった。
「なっ……!? 埋まっただと!?」
「もう! 邪魔しないでくださいクマさんッ!! ネネムーは今、アリス様との愛を育んでる最中ですのッ!!」
「ふ、ふざけるな! 主殿の神聖な御体に、そのような汚らわしい粘液を塗りたくるなど、万死に値するぞ!」
ナガクはぬいぐるみながらも、その顔を真っ赤にして憤慨しているようだった。
「姐さん! 俺が切り離しやす!」
ヴァグが大剣を振り上げた。
「待ってヴァグ! それだとわたしごと斬れちゃ――」
ズパッ!
大剣が、わたしの上に覆いかぶさるネネムーの背中を両断した。
……うん、さすがの手際だ。寸分違わず、わたしの肌ギリギリで止めている。
だが。
ドロリ、ニュルンッ。
斬られた端から、白い液体が再び融合し、元通りになってしまった。
「あははっ! 無駄なんですぅ! 今のネネムーちゃんは無敵なんですぅ!」
ネネムーは切断されたことすら気にした様子もなく、さらにわたしに頬ずりをした。
ぬるぬるする。
すごくぬるぬるするよ。
「今のネネムーはどんな物理攻撃でも愛の力で受け流しちゃうんです! えへへ、すごいでしょう? 褒めてください、アリス様ぁ……大好きですぅ……♡」
「くっ……! こいつ、厄介すぎるぞ!」
「野郎ども、かかれッ! アリス様を救出するんだ!」
リビングアーマーのヨルグやモラたちも参戦し、総出でネネムーを引き剥がしにかかる。
「離れろ! この不届き者がッ!」
「アリス様から離れろォォッ!」
頭を掴むナガク。
腕をねじ上げるヴァグ。
体を押さえる騎士たちとゾンビたち。
ビヨヨヨヨヨヨヨヨヨヨォォォォォォンッ!!
ネネムーの体は、四方八方にありえないほど引き伸ばされた。
部屋の中央に、巨大な白い蜘蛛の巣が張られたような惨状だ。
その中心で、わたしはスライムまみれになりながら、呆然と天井を見上げていた。
「いやぁぁぁッ! 剥がさないでぇぇッ! ネネムーはアリス様の皮膚になるのぉッ! ずっとピッタリ一緒なのぉぉッ!」
「ええい往生際が悪いぞ! 貴様ぁ!」
ナガクが、短い足をばたつかせながら叫ぶ。
混沌。
カオスだ。
殺伐とした殺し合いをしていたはずなのに、なんでこんな運動会の騎馬戦みたいなことになってるんだろう。
ふと視線を向けると、部屋の隅で金髪のビスクドール――ドゴルゴンちゃんが、腕を組んで冷ややかな視線を送っていた。
「……ハッ、くだらない。品性の欠片もありませんわね。あんな粘液まみれになるなんて、貴族としての誇りはないのかしら」
彼女だけは我関せずといった態度で、呆れたように肩をすくめている。
ドゴルゴンちゃんは相変わらず斜に構えてる。
わたしは、顔に垂れてきたネネムーの手の一部をふぅっと息で吹き飛ばすと、必死になってネネムーを引き剥がそうとしているナガクやヴァグたちを見渡した。
みんな、顔を真っ赤にして「不届き者!」なんて怒っているけれど……。
もしかして、みんなも、ネネムーちゃんみたいにわたしに抱きつきたかったのかな?
そういうことなら、みんながあれだけ必死になるのも仕方ないか。
ひとしきり暴れまわった後、ようやくヴァグたちの手によって引き剥がされたネネムーは、床の上でゼリーのようにぷるぷると震えていた。
「むぅ……ひどいですぅ……。せっかくアリス様と一体化するチャンスだったのにぃ……」
スライム状になったネネムーは、なんとか人の形を保とうとしているが、気を抜くとドロリと溶け出してしまいそうだ。
「ネネムーちゃん、体、大丈夫?」
わたしが声をかけると、ネネムーは申し訳なさそうに体を縮こまらせた。
「うぅ……ごめんなさい、アリス様ぁ。この体……形を保つのがすごく難しくてぇ……。気を抜くと、すぐにドロドロになっちゃうんですぅ……」
なるほど。
流動体ゆえの悩みってやつかな。
これじゃあ、普段の生活にも支障が出そうだね。
わたしは、ふと部屋の隅に転がっている「あるもの」に目を向けた。
「ねえ、ネネムーちゃん。アレ、使ってみたら?」
わたしが指差したのは、首を絞められて死んでいる、かつてのネネムー・シュタインの肉体だった。
「え……? ネネムーの……死体?」
「うん。その体は、あらゆるものを取り込んで自分の力にするんでしょ? だったら、元の自分の体を取り込めば、安定するんじゃないかな?」
わたしの提案に、ネネムーはパァッと顔を輝かせた。
「なるほど! さすがアリス様です! 美しいだけでなく、天才なんてぇ!!」
ネネムーは嬉々として、自分の死体へと這い寄っていった。
そして、アメーバのようにその体を包み込み、ゆっくりと飲み込んでいく。
ジュルリ、ゴクン。
骨も、肉も、服さえも。すべてが白濁したスライムの中に溶けていく。
やがて、完全に消化が終わると、ネネムーの体が眩い光を放ち、その輪郭がくっきりと固定された。
そこには、以前と変わらない――けれど、どこか透明感を増した、新しいネネムーの姿があった。
「わぁ……! すごいですアリス様! 体が、カチッとしました!」
彼女は自分の手を見つめ、嬉しそうに飛び跳ねた。
「これでまた、アリス様に抱きつけますねッ! 大好きですぅ!」
……うん、元気になったのはいいことだけど。
とりあえず、このあとお風呂に入らないなぁ。




