第5章 私の人生を返してもらう
私はバッグからスマートフォンを取り出した。
「何だよ」
「聞いて」
「は?」
音声ファイルを開く。
再生。
『お前は俺の家に嫁に来たんだぞ?』
健太の顔が固まった。
『嫁が夫の親孝行を手伝うのは当たり前だろ』
次。
『俺は外で働いて疲れてんだから、家の中くらいお前がやれよ』
次。
『誰のおかげで生活できてると思ってんだよ』
「……」
血の気が引いていくのが分かった。
「お前……」
かすれた声。
「録ってたのか」
「うん」
「いつから」
「しばらく前から」
私はスマートフォンを止めた。
本当は、すぐに離婚するつもりで録音を始めたわけではなかった。
自分がおかしいのか。
健太がおかしいのか。
分からなくなっていたから。
自分自身を確認するためだった。
「こんなの卑怯だろ!」
「そう?」
「夫婦の会話を勝手に!」
「私ね」
私は静かに言った。
「あなたと話していると、自分の方がおかしい気がしてくるの」
健太が黙る。
「だから残してた」
バッグへ手を入れる。
封筒を取り出す。
「それと」
一枚の紙を差し出した。
健太が受け取る。
広げる。
そして。
「……は?」
顔が引きつった。
「離婚届?」
「私のところは書いてある」
「お前……」
「離婚したい」
健太はしばらく動かなかった。
やがて。
「たかが」
呟く。
「……たかが親孝行くらいで」
私は首を振った。
「違う」
「何が」
「今日一日の話じゃない」
私は、ひとつひとつ数えるように言った。
「家事を私に押しつけること」
「……」
「私の仕事を軽く見ること」
「……」
「休日を勝手に決めること」
「……」
「嫌だと言えば説教すること」
「……」
「私があなたを立てるのは当然だと思っていること」
そして。
「私の気持ちより、自分のメンツをずっと優先してきたこと」
健太が何か言おうとする。
私は続けた。
「今日、お義母さんからあれだけ言われたあと、あなたが最初にしたことは何だった?」
「……」
「謝ることじゃなかった」
「……」
「全部、私のせいにした」
返事はない。
「それで分かったの」
私は言った。
「もう無理だって」
健太の手から、離婚届が震えた。
「待てよ……」
さっきまでの怒鳴り声が消えていた。
「俺……そんなつもりじゃ」
「分かってる」
「だったら」
「だから余計に無理なの」
健太が固まった。
「悪気があってやってたなら、まだ分かる」
私は言った。
「でもあなた、本気で自分が正しいと思ってたでしょう?」
「……」
「私を苦しめながら、自分を理想の夫だと思ってた」
健太の顔が歪んだ。
「じゃあ……直すよ」
初めてだった。
健太がそんなことを言ったのは。
「家事もする」
私は黙って聞いていた。
「実家も毎週行かない」
「……」
「母さんにも謝る」
「……」
「だから」
縋るように言う。
「離婚は大げさだろ?」
私は少しだけ笑った。
「ほらね」
「何が」
「最後まで、自分が決めると思ってる」
健太が目を見開く。
「離婚が大げさかどうかを決めるのは、あなただけじゃない」
私は彼から離婚届を取り返し、封筒へ入れた。
「一度持ち帰って考えて。サインするかどうかは任せる」
「美咲!」
「話し合いに応じないなら、第三者を入れる」
「第三者って」
「必要なら弁護士にも相談する」
スマートフォンを見せる。
「記録は保管してあるから」
健太は言葉を失った。
「待てよ」
「さようなら」
「美咲!」
私は歩き出した。
後ろから名前を呼ばれる。
一度。
二度。
三度。
それでも。
振り返らなかった。
足が軽かった。
驚くほど。
今まで自分が背負っていたものが、どれほど重かったのか。
そのとき初めて分かった。




