最終章 親孝行したかった男の末路
それから一か月半後。
私たちの離婚は成立した。
最初の数日間、健太は抵抗した。
『考え直せ』
『夫婦なんだから話し合えば解決できる』
『母さんにも謝った』
『俺だって被害者だ』
メッセージが何度も届いた。
けれど私が、
『今後は必要な連絡だけにしてください』
と返すと、少しずつ減っていった。
頼子さんから聞いた話では。
健太は一度、実家へ泣きついたらしい。
「美咲を説得してくれ」
と。
しかし。
頼子さんの答えは一言だった。
『自分で壊したものを、お母さんに直してもらおうとしないの』
さらに。
『あなたはもう四十近い大人でしょう』
と言われ、追い返されたらしい。
その後、健太はしばらく一人暮らしに苦戦したそうだ。
それまで当然のように私がやっていた。
洗濯。
掃除。
食事。
日用品の補充。
クリーニング。
ゴミ出し。
公共料金の管理。
名もない家事の数々。
それらが全部、自分へ返ってきた。
一度だけ、共通の知人からこんな話を聞いた。
「健太、最近『家のことってこんな大変だったのか』って言ってたよ」
私はその話を聞いても。
嬉しいとも。
ざまあみろとも。
思わなかった。
ただ。
――そう。
と思っただけだった。
もう私には関係がない。
それが何より嬉しかった。
* * *
日曜日の朝。
私は新しい部屋のカーテンを開けた。
一LDK。
以前住んでいた家より、少し狭い。
けれど。
この部屋の中には。
私に命令する人がいない。
「んー……」
大きく伸びる。
時計を見る。
午前九時半。
誰にも起こされなかった。
誰にも、
「朝飯まだ?」
と言われなかった。
コーヒーメーカーのスイッチを入れる。
やがて。
ふわり。
香ばしい匂いが部屋いっぱいに広がった。
マグカップへ注ぎ、ソファに座る。
窓の外には青空。
今日は何をしよう。
映画を観てもいい。
本を読んでもいい。
昼まで寝直してもいい。
何もしなくてもいい。
私の休日だから。
その当たり前の事実が。
泣きたくなるほど、幸せだった。
――ピコン。
スマートフォンが鳴った。
画面を見る。
頼子さん。
『美咲さん、新しい生活には慣れましたか?』
続いて。
『今度の日曜日、ダンス教室のあとにお友達と評判のケーキ屋さんへ行く予定なの。もし気が向いたら一緒にどう?』
そして最後に。
『もちろん、予定があったら遠慮なく断ってね』
私は思わず笑った。
最後の一文が、いかにも頼子さんらしい。
返信する。
『ありがとうございます。ぜひご一緒したいです』
少し考えて。
もう一文。
『今度、ダンスのお話も聞かせてください』
すぐに返事が来た。
『もちろん! 先生がものすごくイケメンなのよ!』
「ふふっ」
声を出して笑った。
元義母。
普通なら、離婚と同時に縁が切れていても不思議ではない関係。
でも私にとって頼子さんは。
あの日。
「嫁なんだから我慢しなさい」
ではなく。
「あなたは家政婦じゃない」
と言ってくれた人だった。
そして。
きっと頼子さんにとっても、私は。
自分の週末を勝手に奪っていた息子に、
「もういい」
と言うきっかけになったのだと思う。
だから。
戦友。
そんな言葉が一番しっくりくる。
私はスマートフォンをテーブルへ置いた。
コーヒーを一口。
温かい。
美味しい。
誰かに淹れろと言われて作ったものではない。
誰かの機嫌を取るためでもない。
私が飲みたくて。
私が私のために淹れた一杯だ。
結婚している間。
私は何度も考えた。
私の人生って、一体何なんだろう、と。
今なら。
その答えが分かる。
私の人生は。
夫のものでも。
義実家のものでも。
「嫁」という役割のものでもない。
私のものだ。
ただ、それだけのことだった。
窓から差し込む朝日を浴びながら、私はもう一度大きく伸びをした。
今日は日曜日。
予定は何もない。
だからこそ。
最高の休日だった。
私の人生は。
ここから、もう一度始まる。




