第3章 母の週末を奪っていた男
翌週の土曜日。
「今日は道空いてんな」
助手席で健太が言った。
運転しているのは私だった。
「おい、美咲」
「何?」
「今日もちゃんとテキパキ動けよ」
私は前を向いたまま答えた。
「ええ」
「母さんも楽しみにしてるからな」
「そうね」
思わず笑いそうになる。
楽しみにしている。
今日という日だけは、間違いなく。
「なんだよ。機嫌いいじゃん」
「そう?」
「やっと嫁としての自覚出てきた?」
私は答えなかった。
三十分後。
実家へ到着する。
健太はいつも通り靴を脱ぎ散らかし、リビングへ入った。
「母さーん! 来たぞー!」
返事がある前にソファへ直行。
「今日も美咲に全部やらせるから、母さんはゆっくりしてていいぞ!」
私は少し遅れてリビングへ入った。
そして。
思わず足を止めた。
ダイニングテーブルには、すでに三人分のお茶が用意されていた。
小さな皿には、上品な和菓子まで並んでいる。
「あら、美咲さん」
頼子さんが立ち上がった。
「いらっしゃい」
それから私を見て。
小さく頷いた。
「お茶、淹れてあるから。座って」
「ありがとうございます」
私が席に着こうとすると。
「ちょっと待った!」
健太がソファから身を起こした。
「母さん何やってんだよ」
「何って?」
「そういうのは美咲にやらせればいいじゃん」
頼子さんは黙っている。
「ほら美咲、代われよ」
「……」
「嫁なんだからさ」
頼子さんの眉がわずかに動いた。
「美咲さん」
「はい」
「座ってて」
静かな声だった。
けれど。
反論を許さない声だった。
「いやいや母さん」
健太は笑った。
まだ何も分かっていない。
「遠慮しなくていいんだって」
「遠慮?」
「週末くらい休めばいいじゃん。俺が親孝行しに来てるんだから」
その言葉を聞いた瞬間。
頼子さんの表情から、完全に笑みが消えた。
「ねえ、健太」
「ん?」
「あなた」
一拍。
「自分が今、どれだけ馬鹿なことを言ってるか分かってる?」
「……は?」
頼子さんが立ち上がった。
手には一枚の紙。
そして。
バンッ!
テーブルへ叩きつけた。
「うわっ!」
健太が肩を揺らす。
紙を覗き込む。
「……ソシアルダンス教室?」
色鮮やかなパンフレットだった。
中年の男女が楽しそうに踊っている。
そして隅には、若い男性インストラクターの写真。
「そう」
頼子さんが腕を組んだ。
「私、今ダンス習ってるの」
「……は?」
「毎週土曜日」
「え?」
「午前十一時から」
「……」
「レッスンが終わったら、お友達とランチして、それから買い物したりお茶したりするの」
健太の口が半開きになった。
「待って」
「何?」
「毎週土曜って……」
「そうよ」
頼子さんは言った。
「本来なら今頃、私はダンスしてる時間なの」
沈黙。
健太の表情が固まる。
「じゃ……じゃあ、俺たちが来るから」
「休んでる」
「……」
「毎週」
「でも」
健太が慌てた。
「母さん、嬉しいだろ? 息子が毎週会いに来て」
頼子さんが大きく息を吸った。
そして。
「嬉しくないわよ!」
家中が震えたようだった。
「えっ」
「迷惑なのよ!」
「……え?」
「あなたが来るたび、私は予定をキャンセルしてるの!」
健太が絶句する。
「だってあなた、何日前に連絡してくると思ってるの? 前日の夜よ! しかも『明日行くから』だけ!」
「いや……家族なんだから……」
「家族なら、人の予定を勝手に潰していいの?」
「でも親孝行を」
「何が親孝行よ!」
頼子さんがテーブルを叩いた。
「来たらソファに寝転がって、お茶一杯自分で淹れない!」
「いや、それは美咲が」
「そこ!」
頼子さんが指を突きつける。
「そこが一番腹が立つのよ!」
健太が言葉を失った。
「あなたね」
頼子さんは低い声で続けた。
「美咲さんは、あなたの家政婦じゃないの」
私は思わず顔を上げた。
「平日は仕事してるんでしょう?」
「それは……」
「あなたと同じように!」
「……」
「それなのに休日まで連れてきて、自分の代わりに働かせて、それを自分の親孝行だと言ってる」
頼子さんは鼻で笑った。
「随分安上がりな親孝行ね」
「ち、違う!」
健太が立ち上がる。
「俺は母さんに楽をさせようと……」
「だったらあなたが動きなさいよ!」
一刀両断だった。
「掃除したいなら、あなたが掃除する。お茶を淹れたいなら、あなたが淹れる。買い物を手伝いたいなら、あなたが荷物を持つ」
そして。
「なんで全部、美咲さんなのよ」
健太が黙った。
「美咲さん」
頼子さんが私を見る。
その顔から怒りが消えた。
代わりに浮かんだのは、申し訳なさだった。
「本当にごめんなさい」
「お義母さん……」
「もっと早く言うべきだった」
頼子さんは頭を下げた。
「夫婦のことだからって、遠慮してた。でも私まで黙ってたせいで、あなたを苦しめたわ」
「そんな……」
「私、前から思ってたの」
頼子さんが健太を一瞥する。
「あんた、いつからそんな偉そうな男になったの?」
「母さん!」
「私はそんなふうに育てた覚えはない!」
「俺は家族のことを思って――」
「美咲さんの気持ちは?」
健太が止まった。
「え?」
「家族なんでしょう?」
「……」
「じゃあ、美咲さんの気持ちは聞いたの?」
答えはない。
頼子さんは深くため息をついた。
「もういいわ」
「母さん」
「来週から来なくていい」
「は?」
「私にも私の生活があるの」
静かに。
しかしはっきりと。
「二度と、あなたの自己満足で私の週末を潰さないでちょうだい」
その瞬間。
健太が信じていた世界が、音を立てて崩れたのが分かった。




