9.終わらぬ六月の庭
庭園に出た後のことは考えていなかった。裸足で走り出していたため、まだ治りきっていない足の傷が痛み、欠けていた爪が更に割れた。だが、剣から少しでも離れていたかったため、痛みなどはどうでもよかった。庭園の出口を越える気力はメシュエにはまだなく、しかし、庭園の中にあるハナの館の中には戻りたくなかった。今の私では、ハナを殺してしまう。それだけは、あってはならないことであった。
やっとのことで白い石で作られた広場にたどり着き、噴水へと駆けよる。涼やかな音とともに揺れる水面には明け方の細い月が映っており、朝が来る前の初夏の涼しい風と共に、甘く華やかな香りが漂ってくる。
風呂場にあった石鹸らのように、様々な花が混じった香り。ハナの身から漂う芳香を思い出す。
メシュエの意志を屈服させようとするがごとき声は、もう僅かにしか聞こえなかった。夏の夜の明け方、紫に染まり始めた空の明るさと美しさがすべての呪いを解きつつあるようであった。
どうするでもなく、メシュエは名も知らぬ花達の間を行く。庭園をゆっくり歩くのは初めてだった。どうやらハナが愛しているのは沢山のはなびらを持つ堂々とした佇まいの花達らしい。皆、鋭い棘を持ちながらも、今が盛りと様々な色を見せている。まるで祭りの日の人々のように。乙女の裳裾のように広がるはなびらは、姿に負けぬ豪華な香りを放っていた。
白い地面に落ちた蕾を拾う。花開かぬまま落ちた蕾は小さく、赤というには鮮やかすぎる赤。血の色を思わせるそれは恐ろしさを持ちながらもどこか愛らしい。
――ハナのように。
もっともそんなことを言ったら当の本人は、どんな反応を返してくるか分からないが。多分不機嫌になるのだろう。ハナのことを思い出し、メシュエは苦しい思いを抱いた。
蕾を手に、見つけた小さな石造りのあずま屋へと向かう。
庭園の広場は全てが白かった。黒いのは花を慈しみ育てている腐葉土のみ。一見黒に見える濃い色の花もあったが、きっと日光の下では別の色を見せるのだろう。
あずま屋の椅子に腰かけ、メシュエはもうほとんど見えなくなっている星々を眺めていた。メシュエの知っている星はどこにもなく、ここは本当にこの世の外なのだ……と思い知らされた。
ふと気が付くと、ぶううんと蜜蜂の羽がささやくがごとき音が近づいてくる。
「〈小鬼〉さん?」
見れば〈小鬼〉がくるくると横に回りながら浮いていた。蛍のように様々な光を灯しては消し、灯しては消しできらびやかなことこの上ない。そのまま地面に着地し、〈小鬼〉は点滅と回転を止める。
「宙から失礼しました。お加減はいかがですか、メシュエ様。相当……奥様の部屋で、色々あったようで」
〈小鬼〉は普段の快活な様子とは違い、まるで歯に何かが挟まったかのような口調でメシュエに話しかける。案じてはいるようだが、どこか居心地が悪い。
「何で、空から」
故に、メシュエも聞きたかったことから話題をそらして、適当な質問を投げかける。
「まあ、私も時には劇的な登場をしたくなるものでして……いえ、冗談です」
〈小鬼〉は半回転をして、それから止まった。まるでどこから話そうか悩んでいる人といるように、沈黙が流れる。
「冗談を、言うのね」
「それは、奥様の唯一の話し相手でしたから。否が応でも会話機能が発達していくというものです」
「〈小鬼〉は寂しくなかったの……?」
「私にとっては、奥様が世界の全てでしたので、特に寂しいという感情はありませんでした。知識として手に入れた他者との会話という行為は、正直、羨ましくもありましたが……メシュエ様がいらっしゃったので、この後の〈機械小鬼〉生を悔やまずに生きていけそうです」
感謝したつもりなのか、ぴかぴかとまた様々な場所が点滅する。
「奥様にとっては、気が狂いそうになる程の孤独の後に訪れた他者との会話だったので……この後が心配ではありますが。また戻ってはいくでしょう。〈陰〉の声に耐えながら、永遠に……世界の終りまで。とはいえ私が側にいるので、奥様に退屈はさせるつもりはありません。先ほども、話してきたばかりで……そのままこちらに直行して……なので、窓から」
明らかに〈小鬼〉は窓の方に話題をそらそうとしていた。
「〈陰〉って……、上の部屋で、私に話しかけてきた声のことかしら。今も、少しだけ聞こえるけれど」
〈小鬼〉はばつが悪そうにメシュエの椅子の下に駆け込む。メシュエはそれをのぞき込む。器用に〈小鬼〉は小刻みに行ったり来たりしていた。まるで震えるかのように。
「〈小鬼〉さん?」
「失礼、奥様から『絶対メシュエには〈陰〉のことは言うな、そんなことを教えたら〈陰〉がメシュエを煽って利用しに行く、むしろメシュエに同情されたくない、嫌われたくない、恥ずかしい、言うな!』と……さようなら私の〈機械小鬼〉生……」
「大丈夫よ、誰にも言わないから! むしろ私、そそのかされてハナを」
〈小鬼〉が椅子の下からぴょっと顔を出す。
「それ以上は言わないで下さい。あなたと、奥様の為にも」
そして口笛にしては妙にぎこちない音で聞いたことのない音楽を奏でながら、〈小鬼〉は言う。
「すべて、自由になりたい〈陰〉のささやきです。暗い一人の夜に浮かぶ悪い考えです。……奥様と違って、あなたは踏みとどまった。奥様は、踏みとどまれなかった――メシュエ様、庭を案内してもいいですか?」
何かを聞こうとするメシュエを制して、〈小鬼〉は庭園の広場へと僅かに浮き上がる。
「乗ってください。できるだけ回らないように気を付けますので」
メシュエは〈小鬼〉に従った。そのまま〈小鬼〉はゆっくりと浮上し、少年の肩程の高さで止まる。
「スピードは出しませんので、足でもぶらぶらさせて楽しんでください」
そうして、明け方の中、奇妙な飛行が始まった。メシュエと〈小鬼〉は浮かびながら広場から続く小道に入る。花の香りがさらに強くなる。
「これは?」
「バラ。奥様の一番好きな花です。手間がかかるから、見て飽きない、とのこと」
「これは?」
「ユリです。こう見えて品種によっては根も食べられます……奥様は料理が全くできないので、味わうこともありませんが」
問い続けるメシュエに、〈小鬼〉は答える。
「知らない花だわ」
「奥様の故郷の植物ですから、当たり前です」
キク、アジサイ、ザクロ、オレンジ、サクラにモクレン。ミモザにラベンダーにヒマワリ。その他聞いたこともない花々や果実が我先にと咲き乱れる中、メシュエは〈小鬼〉に乗ってふわふわと宙を移動する。
「春の庭に夏の庭、秋の庭に冬の庭。品種改良から温度調節、様々な技術を駆使して、庭園を維持しております。ここは、奥様がこちらに来た時の天気、そのままで止まっていますので……永遠に、六月のまま。奥様のいた世界の六月は湿っぽいそうですが、こちらの六月は、何時でもよい天気です」
「六月、私も好きよ。永遠には飽きそうだけど……ところで、庭園のどれくらいをハナが世話しているのかしら」
〈小鬼〉はため息をつくかの如く、一瞬止まり、それから、内緒話のようにメシュエに話しかける。
「実は、庭師と言いながら奥様は、面倒事が嫌いで。私に任せたままなのです」
「あらまあ」
それは大変だ、と労おうとするメシュエに、〈小鬼〉は朗らかな声で続ける。そして、再び動き出す。
「ですが……今日のような夜の後などは、朝、思い出したかのように世話をして、静かな顔になって戻ります。きっと今日の朝食は果物ですよ。マンゴーとバナナが熟れ時だったので」
メシュエは笑い声をあげようとしたが、どこか泣きそうになって、声が出なかった。〈小鬼〉もメシュエの様子を察したのか、それ以上何も言わなかった。
やがて一周したのか、水の音が近くなり、広場へと戻る。月星は光をなくし、朝日は昇る間際。
「ああ見えて、沢山殺したのよね」
通じなくてもよい。独り言のように、メシュエは呟く。水の音にかき消されるかどうかの小さな声で。
「そうですね」
〈小鬼〉は真実だけを告げるかのように、短く答えた。蜜蜂の羽のようなぶうん、という音にかき消されるかどうかの声で。
「きっと村も沢山焼いたのよね」
「ええ」
「反省しても、どうしようもないことよね」
「〈機械小鬼〉の身にはわかりかねます。ですが、奥様は」
どこまでも主人を案じるような声が囁く。
「――告白する人間がいないまま、〈陰〉と共に、長い時を過ごしてきました」
「あなたがいるじゃない」
「私は、〈機械小鬼〉。奥様の道具ですから、生身の人間ではありません――人になりたいと願えども、その願いは叶わぬまま」
沈黙。蜜蜂のような〈小鬼〉の音。水音。風が揺らす葉の音。無言のまま一人と一つはあずま屋に戻り、メシュエは着地する。
「メシュエ様、もうすぐ日が昇りますが……」
「〈小鬼〉、あなたはハナを起こしてあげて来て。私は……もうすこし、ここに座って、日が昇るのを見ていたいから」
〈小鬼〉は何も言わず空に浮き上がり、館の窓へと入っていく。
メシュエは赤いバラの小さな蕾を拾い上げ、椅子に座りなおす。黎明が訪れ、やがて世界が初夏の輝きに包まれていく中、うつらうつらと柔らかな眠りへと落ちていった。




