8.『壁の中』の罪人
酷いいびきであった。
獣の唸り声を思わせるそれにメシュエはぎゃっと身をすくませて目を覚ます。音の主を見れば、ハナであった。どうやら二人揃ってうつらうつらとしてしまったらしく、ハナはあまり良い眠り方をする訳ではないらしい。ハナの人らしさにメシュエは思わず顔を綻ばすが――。
――それでも、彼女は魔女王だ。竜で人々を殺したことを、当たり前のように口にする……。
冷たい思いが、心の中に浮かんだ。暗闇に近い薄茶色の明かりが照らす部屋の中で、ハナの首は妙に細く見えた。剣技で鍛えたメシュエの手でならば、絞められそうなくらいに細く。
ふと、ハナのいびきが止まり、唸り声に変わる。否、うなされているのだとメシュエは気づく。ハナは父と母のことを呼んでいた。クレナの名も出てきた。それから苦しむようなうめきに合わせて、知らない名が次々と溢れだす。メシュエの世界の物であろう名前、ハナの世界の物であろう名前、様々な名前が。
そっと、メシュエはハナの部屋から去ろうとする。これは、ハナの心のあまり見られたくない部分だろう――そう、察したのもある。だが、目の前の少女から何とも言えぬ忌まわしさを感じた、そのような気持ちの方が強かった。
――彼女は魔女王なのだ。『壁の中』の罪人なのだ。
音を立てぬよう、転ばないよう、つたい歩きでたどり着いた戸の側で、己の剣がぶっきらぼうに立てかけてあるのを見つけた。どうして今まで見つからなかったのだろう、とメシュエは訝しむ。〈小鬼〉は側におらず、ハナはうなされたまま眠っている。メシュエは今しかないと重い剣を持ち上げる。何しろここは魔女王の館なのだ。自衛するに越したことはない。彼女を殺すことは出来ずとも、彼女を傷つけて――。
――傷つけて、どうする?
メシュエは怯える。明らかに自分の物ではない考えが、自分の中に染み込んでいくのを感じる。ざわめく声が内側から外側から聞こえる。夜よりも暗く、鋼よりも冷たく、どこか恐ろしいもの、逃亡の間や記憶にうなされる中で何度も聞いたような心を締め付け押さえつけるかのような声。
「お前に手を貸そう、メシュエ。ハナを殺せ」
メシュエはいつの間にか剣を抜いていた。ただの重い剣は、赤く鈍く輝いている。
「村の仇を取りたくはないか。お前を犯そうと思った男たちは他にもいるぞ。奴らを殺して王になりたくないか」
「もはやあの少女は役立たずだ。野心もなく――悪意もない。ただの抜け殻」
「ハナを殺せ。さすればお前に手を貸そう」
メシュエは操られるようにハナの首筋に剣を当てる。
「わたしなんてもう死ねばいいんだ、嫌だ、わたしを殺さないで、わたしなんか……」
同じ年頃のように見える少女は、うなされ続けている。何百年も彼女は『塀の中』の庭園で、このような夜を続けてきたのだろう。
――いっそ一振りで楽に。
剣を持つ手が、震える。
――楽にして、どうしようというの?
目の前の少女は、いくら仲良くなっても、沢山の人を殺した魔女王だったことには変わりない。だが。
メシュエは、剣を当てたまま、されど最後の一振りが出来ぬまま、固まり続ける。
――私がハナを裁けるというの?
メシュエには、分からなかった。殺してという懇願と殺さないでという悲鳴が続く。殺せという暗い何者かの声がメシュエを苛み始める。
振り下ろせば楽になるのだ、と痺れそうになる意識を必死に起そうとする。目の前の魔女王は、ひとりの人だった。取り返しのつかない殺戮と圧制の罪を犯した、ひとりの人。ハナの苦しみに安い同情で立ち入ってはいけないが、同時に、ハナの行いを行きずりの誰かが剣程度で裁くことは出来ない。恐らくは、この世の誰も出来ない。
きっと、剣ではなく、語り継がれることで、彼女は裁かれ続けているのだ。そして、己の心に裁かれ続けているのだ。
――第一、彼女を「今」殺して何が変わる……?
問う。
――力を得ても、私の小さな欲が、満たされるだけ。
やっとのことで、心が答えを返す。
殺せ、殺せ――わたしを殺して/殺さないで。
意志を振り絞ってメシュエは剣を床に突き刺す。めきめきと木の鈍い音がする。さらにねじ込むように全体重をかけて刺した。剣は重く、力を入れるのは難しく、メシュエから離れるのを嫌がるようですらあった。だが、やっとの思いでメシュエは剣を床にめり込ませ、駆け出す。夜が何度も来たかのような疲れが体を襲う。
メシュエは振り返らなかった。ぞっとするほど冷たい鋼の感覚から逃げ出すように階段を降り、庭園に続く扉を探した。




