7.『壁に囲われた場所』
メシュエが体力を回復するまでに何日の昼と夜が巡ったかは分からない。魔女王――もとい、ハナの館は思ったよりもこじんまりとしていたが、それでもメシュエが育った代官の館よりも立派なつくりをしていた。メシュエの訪れを察知して自動的に輝く灯りは火ではない何かで輝いており、魔法の品であろうと思われた。出てくる食事は塩気の強い汁の中に浮かんだ麺であったり、メシュエの身からすれば煮すぎて崩れた野菜が浮かぶ牛乳のシチューと白い粘り気の粒の山――粒の名はコメというらしい――であったり、暇なハナが気まぐれに出す菓子の数々であったりした。
部屋は常に心地よい風が吹き、暑さとも寒さとも無縁であった。窓から見える庭は花盛り。〈小鬼〉が体から銀色に光る細い腕のような物を伸ばし、その先についている鋏で花々や果実を剪定していた。
メシュエの知らない花や果実は初夏の心地よい風に吹かれて、さらに美しく輝く。
そうして窓を眺め、戻ってきた体力で館の一階を歩き回り、風呂と寝台を行き来する日を繰り返す。
風呂の湯は常に暖かく、初めてハナに出会った時のような芳香の石鹸や、領主の館で侍女たちが貴婦人に塗り込むような香油、その他奇妙な形の瓶が置かれていた。
一度だけハナが不承不承、という様子でメシュエを洗ったことがある。最初〈小鬼〉に案内されたはいいものの、熱い湯が出る噴水や何やの使い方が分からず途方に暮れていたメシュエは、困りに困ってハナを呼んだ。メシュエは自分の図々しさに悩みながらも埒が明かなかったため、ハナに湯浴みの手伝いを頼み込んだ。魔女王をとっ捕まえて侍女の真似事をさせようとは。
結果的にハナは呆れながらやって来た。
「全く、今回だけだからね。部屋水浸しにされるわけにもいかないし」
メシュエを洗うハナの手つきは乱暴であった。メシュエの傷ついた体を石鹸の付いたごわごわした布で無理やりこすり、何度も湯の出る噴水で洗い流す。メシュエは痛みを訴えようとするが、年の近い姿をした側の少女が恐ろしき魔女王だということを思い出し、唇を噛んで耐えた。ハナはぶつくさと「ゲームやりかけだったんだけどなあ!」やら「最高難易度でのドラゴン戦はたるいけどさあ」やらメシュエにはわからぬことをつぶやき続ける。用事を邪魔された者特有の当てつけにしては子どもっぽく、ごしごしとメシュエを洗うハナの年と正体を忘れそうになる。
数百年も〈世界〉から隔離されていた、永遠の少女。慈悲なき殺戮者。愚かで恐ろしい魔女王。
湯気に混じった甘い花の香りと湯の心地よさに、全てが嘘であるような気がしてくる。何かの間違いで彼女は恐ろしい存在として伝えられたのではないかとさえ、思いかける。
「あ、まずった」
メシュエを現実に戻すかのように、染みるような痛みが走った。
「かさぶた、ごりってやった。膿んでいたから……まあ、その方がいいと思うけど。ほら、すごい臭い」
わざわざ膿んだ場所に鼻を近づけて嗅ぐハナ。
「ま、全体的にここの世界の人はすごい臭いだけど。風呂一般的じゃないの?」
急に話を振られてメシュエは考え込む。今は遠ざかった村の暮らしを思い出す。いつの間にか、痛みは鈍い物へと変わっていた。まだ痛いが、泣き出すほどではない痛み。心にもかさぶたはできるようだった。
「代官の館には風呂がありました。だけれども大体は井戸から水を汲んで浴びて……」
「石鹸は?」
「高級品です……田舎だったので」
「そっかぁ」
そしてハナは黙り込む。
「石鹸屋になって財を築くって生き方も、アリだったかもしれないね」
ぽそりとつぶやくハナの声は、まるでハナ自身のことを指していないかのように他人事であった。
沈黙、沈黙、お湯を被って今度は髪の毛。奇妙な形の白い瓶の口、白鳥の首のように優美に曲がったくだの先から真珠色の液体が出る。
「髪の毛洗うのはこっちね。これも石鹸のようなもの」
そうしてごしごしとメシュエの髪の毛は洗われる。荒っぽいハナの手つきが妙に心地よい。
「ああもう! 垢だらけ! ノミいないよねノミ」
最初は泡立たなかった液体であったが、湯を被り洗いなおすこと何度。ようやく泡立ち、湯で流され、最後に別の液体を髪の毛にすりこまれてまた湯で流され、そうしてメシュエはハナが自分を洗い終わったということを理解する。ハナを見ると、彼女は最初の不平はどこへやら、大仕事をやり切った人特有の満足げな笑みを口元に浮かべていた。絵に描かれる慈悲の無い薄笑いとは違う、満面の笑みを。
「あー、洗った洗った。後は適当にお湯入って。タオルは洗面所の側に掛かっているから。服の替えも置いておくね」
「あの」
メシュエは意を決して言った。
「ん、礼?」
ハナは怪訝そうな、相変わらずの投げやりさを浮かべた顔でメシュエを見る。満足げな笑みはもう消えていた。
「それもあるけど……あの、ゲームって、何ですか? 遊戯盤? 石遊び? 札占い――? もしよければ、遊び相手になります……けど……」
「悪いね、メシュエ。このゲーム一人用なんだ」
ハナはにやりと笑う。年相応の少女のように、意地悪く、自慢げに。メシュエは再び心に疑問が浮かび上がるのを感じる。
――本当に、彼女は悪人なのかしら?
「まあ、どうしてもっていうなら……体力が戻ってきたら見ていけば? 邪魔しなければ、何も言わないから。でも、言っとくけど部屋、汚いからね」
そう言うハナはやはりどう見ても年頃の少女で、メシュエはさらに疑問が膨らむのを抑えきれなかった。
何時しかハナはメシュエのことを、きみ、ではなく名前で呼ぶようになっていた。メシュエを私室に招いては、話し相手になることを遠回しに求めて来るようになった。メシュエもハナのことを魔女王ではなく、同年代のどこか風変わりな友人として扱うようになっていった。村では出会えないと思っていた、なんでもないことを話すことが出来る友人。
「ねえ、わたしの世界のある地方ではね、メシュエ。楽園の語源は、「壁に囲われた場所」だったらしいよ」
ある日の午後、ふいにハナが話しかけて来る。ハナの会話は、大体が突然だった。
「じゃあ、ここは楽園?」
「でもね、メシュエ。わたしの故郷ではね、「塀の中」は牢獄の中、って意味なんだ――さあ、私が今いる場所は、どっちだと思う?」
ハナは謎をかけるように、メシュエの方をのぞき込む。メシュエは分からない、という仕草をする。ハナのいる場所は、神々や妖精が住まう楽園のようにも見えたがその実――魔女王が封じられたこの世の外の場所でもあるのだった。
ハナは魔法の鏡に向かって、カタカタと音がする平べったい板と、手に握れる程の楕円形の物体を器用に動かしながら、〈ゲーム〉を行っていた。日が傾き、夜になった後も集中して〈ゲーム〉を続けていた。
――本当は十八にならないと遊べないタイトルなんだけどさ、もうとっくに十八越えてるからいいと思ってさ。私はこっちに来た日より未来の物は取り出せないけど、やり込めるゲームは沢山あるし。過去の名作なら外れないでしょ。それにこれ、何の気なしに歩いているだけで楽しいから。
ハナは何時ものようにメシュエには訳の分からぬことを言った。分からないなりにハナの言った一人用の何とやらはこのことなのか、とメシュエは納得し……それから何日も何日も、メシュエを横に置いてのハナの一人遊びは続いた。時に先ほどのような謎かけめいた問答を投げかけて来たりしながら。
鏡の中ではメシュエの故郷よりもさらに北、話でだけ聞いたことのあるもっと寒い地方の景色を思わせる山々が映されており、鏡の中心では赤い髪の毛の剣士が竜相手に両手剣を不器用に操っている。剣士は本物の人間に近いように見えて、どこか同じ動きの繰り返しであり――剣を学んだメシュエからはどこか歪な人形のように見えた。
ハナはこの〈ゲーム〉をことさら好んで遊んでいた。ある日は魔術師を鏡の中に呼び出し、ある日は盗賊を呼び出し、ある日は剣士を呼び出していた。
「ま、どっちでもいいけど、ね!」
鏡の中の剣士は竜に飛び乗り、何度も剣を突き刺す。返り血が何度も剣士にかかる。その行為の荒々しさにメシュエは思わず村が襲われた日のことを思い、顔をそらす。荒々しい〈ゲーム〉であった。血まみれになった剣士の手によって、側に寄って来た山賊らしき者達の首がよく転がっていく。
「あ、あの。ハナは竜に乗っていたって……本当?」
思いを戦火から逸らそうと、メシュエは適当なことを聞く。ハナはひと段落付いたらしく、どうやら竜の貯め込んだ宝を漁っているようだ。
「あー? ああ、乗ってた。竜はね」
思い出すようにハナはぼんやりと視線をさまよわせる。
「竜はねー、臭いよ。あと、ごつごつしていて、乗りにくい。しかも……頭の悪い奴らは勝手に人を食べるし襲うから、面倒」
メシュエはぎょっとする。横の少女がはるか向こうの存在であるように感じる。
「まあ、軍潰すのには役立ったけどね、でも奴ら乙女とか美少年とか宝とか要求が多いから……どうしたのさ、メシュエ」
「いえ、聞かなきゃよかったな、って」
メシュエは出来るだけ青ざめていなければいい、と思いながら顔を横に逸らした。それを見てハナはくっく、と笑い声をあげる。
「大丈夫、ここには竜は呼べないから。今のわたしが呼び出せるのは、基本的に生きていないものと、植物と、力の弱い魔物だけだし、……それだって、呼び出したのは〈小鬼〉の原型となった奴くらいだよ」
「陰界の生き物は、皆邪悪だと聞いていたけれど」
「アレは陰界の生き物じゃない。陰界を好みはするけれど……外を目指す奴もいる。ま、人格持ったのは人工知能のおかげではあるけどね。さ、晩御飯にしようか。メシュエ、今日は激辛行ってみる?」
「あ、甘口で……いいです……」
しばらくすると、〈小鬼〉が背に皿と水の入った盃を乗せてやってくる。メシュエの皿は白、ハナの皿は茶色でメシュエの物より少し大きい。一度に二つは持ってこれませんので、とすまなそうに〈小鬼〉は言いながら、律儀に二度やって来る。いつもの光景、いつもの夕餉であった。
食べ終わればゲームの続き。メシュエはメシュエの知っているゲームをハナに教える。ハナは最初〈ゲーム〉の遊び方をメシュエに教えようとしたが、メシュエには鏡に映る画面と聞こえる言葉の意味が全く理解できないことを知ると、教わる側に回った。メシュエのゲームには不承不承といった感じで付き合っているそぶりを見せるハナであったが、何だかんだで負ければ悔しがり、勝てば自慢げな顔をするのであった。
そうして、夜は更けていく。




