番外編6 某県 廃旅館にて 5
忍び足かつ最速で、志村を背負って一階ロビーへ降りる階段に向かう。
一か八かの賭けだ。
非常階段は使えない、またあの手に絡まれたら志村ごと落下して大怪我だ、それは絶対に避けたい。
三岳を呼ぼうかとも思ったが、あいつが今役に立つかどうか怪しい。
警察を呼びに行ってくれただろうか。
頼むからお前も少しは行動してくれ、伊地知と五味の状況も気掛かりだし、丹羽も早く見つけてやらないと。
顔の黒い男はいなくなっている。
助かった。
どうかこのまま見逃してくれ。
ホッとしつつ階段を降りようとした。
その時。
笑い声。
お、男みたいな、女のような、老人のような、子供のような声が、四方八方から押し寄せてくる!
「ッあ!」
段の下に顔の黒い男ッ!
う、おおッ、咄嗟にバランスを崩しかけた、どうにか持ち直したッ!
にッ、逃げろ!
「ひッ!」
こ、こっちにもいる、なんで!?
角を曲がって客室のある廊下の方へッ、あッ!
―――いる。
黒い男と、影。
影は複数。
嘘だろ?
後退りしかけて固まった。
後ろにもいるかもしれない。
影たちと男が少しずつ、少しずつ、近付いてくる。
はッ、はッ、はッ。
お、おち、つけ。
―――落ち着け。
考えろ。
切り抜けるんだ、ここはもう、覚悟を決めるしかない。
「くそッ、たれぇッ!」
志村を背負い直す。
よくもッ、よくも俺をこんなに怖がらせやがって、許さん!
お化けだからって調子に乗るなよ?
お前ら如きにどうこうされてたまるかあああああッ!
その場でバスケのピボットターンよろしく素早く向きを変える!
―――目の前に顔の黒い男ッ!
咄嗟に息が止まった。
動転して志村を落としそうになる。
くそがぁッ!!
グッと腰を落とし、ディップの要領で奴の脇をすり抜ける態勢に入る!
ンナァ~~~~~~~~~~~~オ~~~~~~~~~~~~~~!
なッ、なんだッ!?
猫だ! さっきまで聞こえていた鳴き声よりずっとデカい!
直後にドオンッと地響きッ、くッ、な、何!?
―――猫だ、猫がいる。
顔の黒い男の後ろ、俺の目の前に猫が現れた。
唐突に。
そして、デカい。
二メートルくらいある黒猫、目だけが爛々と金色に光っている。
ンナーオ!
猫は鳴いて、振り上げた前足で顔の黒い男をグシャリと呆気なく潰した。
は?
男は跡形もなく消える。
ンナーオ。
また鳴いて、今度は俺の背後へ飛ぶ!
振り返ると影の一つにパクッと食い付いた!
―――た。
た。
食べてる?
食べてるぞ?
あの猫、影を食べてる!?
咀嚼音は聞こえない、時折ペチャペチャと舐めるような音がして、最後にゴクンと飲み込んだ。
食べちゃった。
猫が、影を、食べちゃった!
長い尾をピンと立てて、猫は次の影に嬉々として飛び掛かっていく。
食べてる。
お、おお、影たちが逃げ出していく。
だが猫の方が早い、片っ端から前足で潰し、頭から丸かじりにして、あれは完全に遊んでいる。
「こら」
唐突な誰かの声。
全身がビクンッと激しく震える。
だ、誰だ?
「流石に食べ過ぎだ、程々にしたまえ」
振り返った猫がウニャンと可愛く鳴いた。
「やあ」
あっ。
あああっ、ああッ!
ああああああああああッ!
こ、ここにいるはずないのに。
幻?
いや、俺が間違えるわけがない、それに、それにしゅごくいい匂いがしゅるッ!
どんな宝石よりも美しく、どんな花よりも芳しい、この世の神秘、奇跡のような俺の恋人、俺の愛の全て、俺の女神、俺の魔女。
あ、会いたかった!
会いたくて会いたくてたまらなかった姿が、今、まさかの目の前に!
「り、理央ぉッ!」
「やれやれ」
理央だぁぁぁぁぁぁーーーーーッッッ!!
やった、理央だッ! わぁい!
理央だッ! 理央だッ! 理央だぁーッ!!
でもなんでここにいる?
今日も可愛いなッ、本物だ、俺の理央だ!
ああ美人だなあッ、理央ッ、理央ッ! 理央ーッ!
「君はここで何をしている」
「今日も最高に綺麗だよッ、理央!」
「有難う、それで?」
「お前こそ、なんでこんな場所にいるの?」
可愛い。
理央は俺をじっと見つめて、少し視線を逸らす。可愛い。
「先日」
「うん」
「君は、週末にラグビー部の助っ人で試合に参加すると言っただろう?」
「言ったな」
「だから、その」
「うん」
「観に来た、君の雄姿を、その、秘密裏に」
えっと、確かあの時は『頑張っておいで』って応援してくれたよな?
俺も遠征先が遠かったから、わざわざ観に来てもらうのも悪くて敢えて誘わなかった。
「秘密裏に?」
「ああ」
「なんで?」
理央は目を逸らしたまま、なんだか気まずそうだ。
ちょっと恥じらっているようにも見えて可愛い。
「君が誘ってくれなかったから」
「えっ」
「それに、僕が観戦していると知ったら、君は僕を意識しただろう?」
まあ、そうだな。
褒められたくて、格好いいところを見せたくて、普段以上に気合を入れて試合に挑んだ、確実に。
「だが、僕は、僕と関わりのない君の雄姿が見たかった」
「そ、そうか、誘わなくてごめんな?」
「いいさ、僕も隠し立てしてすまない」
だが、と理央は俺を見上げる。
美人だなあ。
「君がここへ来たことは想定外だ」
「俺もだよ」
「そうか、一体何の用があってここへ?」
「えーっと、実は」
廃旅館に来る羽目になったいきさつを簡単に説明する。
話を聞き終えた理央は溜息を吐いて「呆れた」なんてバッサリ、うう、仕方ないだろ。
俺だって来たくなかったよ。
でも理央に会えたから、結果的にはよかったかな。
「ここはね、健太郎、それなりに危険だ、君達のような防衛手段を持たない者が安易に踏み込んでいい場所ではない」
「わ、分かってるよ、散々怖い目に遭ったし」
「そうだね」
はあ、理央にも叱られるなんて、今日はとことんツイてない。
不意にンーと鳴き声がして振り返ると、あの大きな黒猫がッ、あ、ああッ!
志村を咥えてる! いかん、うっかり落としてた!
「わっ、あ!」
理央が「クレオパトラ」と飼い猫の名前を呼ぶ。
「え?」
黒猫は志村を床へ降ろし、ニャーンと可愛く返事した。
「く、クレちゃん?」
「略して呼ぶなと言っているだろう」
憤慨する理央を見てから、また黒猫を見る。
黒猫はシュシュシュンッと見慣れたサイズまで唐突に縮んだ。
おお、クレオパトラ!
理央が飼っているクレちゃんじゃないか!
「お、おお、クレちゃん!」
ニャンニャンと鳴きながら走ってきたクレオパトラは、俺の足に体をスリスリと擦りつける。
わあ、可愛いなあ。
よしよし、いい子だぞ、いつ見ても艶々して綺麗な猫だ。
「なあ、理央、クレちゃんって」
「クレオパトラだ」
「クレオパトラってデカくなれるの?」
「そうだよ、使い魔だからね」
使い魔。
なんだそれ、つまり普通の猫じゃなかったってことか。
理央は自分の方へ来たクレオパトラを抱き上げて頭を撫でる。
クレオパトラは喉をゴロゴロ鳴らして理央に甘えている。
どっちもすごく可愛い。
「ここでクレオパトラを遊ばせるついでに、おやつを食べさせていたのさ」
「おやつ?」
「君が怖がって逃げ惑っていたあの影だよ」
あれが? おやつ?
おやつって何? どういうこと?




