第十夜┊十五「理想の姿見」
教授は、あたしから福兎を引き剥がそうとしてくれたけど、何度試してもうまくいかなかった。
「……随分と貴様に入れ込んでいるな。ここまでとは想定外だった」
ラテックス製の手袋を外しながら、教授は疲弊した声で「気分はどうだ」と声を掛けてくれる。
あたしの方は、頭の重さが一瞬なくなったり、また戻ったりを何度か繰り返しただけで、特に変わったところはない。
感触がないのでよくわからないけれど、福兎はかなり抵抗しているみたいだった。
「教授って、動物には甘かったりするのかしら」
「否定はしないが、学問を究めるためには必要な犠牲もある。覚えておけ。高等部一年で行う最初の授業は、蛙の解剖だ」
「え」
うっかり想像してしまって、ぞわっと悪寒が背筋を駆ける。虫や爬虫類が完全にダメなわけじゃないけど、できるなら欠席したくなる授業予告だった。
「……しかしここまで福兎に執着されているとなると、時間をかけて切り離さねば貴様にも影響が出るだろう。日を改めるしかないな」
「教授は、福兎を殺したりはしないのね」
「可能なら穏便に捕獲したかったのだがな。これ以上福兎の機嫌を損ねても始末が悪い。今日は帰って早めに就寝することだ。明日以降、またしばらくここへ通いたまえ」
ぶっきらぼうな言葉とは裏腹に、丁寧に見送られて、あたしははじめての実験棟を後にする。
——キラキラした試験管。ずらりとならぶ薬品棚。ビーカーで飲むほうじ茶。積み上がる実験記録。そして怪異。
実験棟で体験した非日常は、地味でドタバタしていて、そのうえ何の成果もなかったけれど、これまで与えられてきたどんなオモチャよりも、あたしの好奇心を満たした。
それからあたしは、放課後になるたびに実験棟を訪れるようになった。
福兎を引き剥がす作業は難航するばかりだったけれど、あたしはそんなことよりも、実験棟に行くこと自体が楽しみになっていた。
いつものようにソファに座って、ビーカーに淹れられたお茶を飲む。
家で出されるどんな高級な紅茶よりも、教授に注いでもらったほうじ茶の方が、なんだか丁寧な味がして好きだった。
あたしに負荷が掛かるからと、教授は頻繁に休憩を挟んでは、生物学や怪異について教えてくれる。
実験棟で真新しい知識に触れていると、寂しさなんてどこかに消し飛んだ。
「教授はいい人ね」
今日も今日とて福兎は離れる様子がなく、試行した内容をガリガリと書き連ねている教授の背中に声を掛ける。
最初は福兎をなんとかしたくて訪れた実験棟だったけれど、頭の重さは教授がくれた頭痛薬で治まっていたし、今やほとんど不都合はない。
むしろ、福兎の捕獲に成功して、実験棟に来る理由がなくなってしまうことをあたしは恐れ始めていた。
「それは嫌味のつもりか」
「……教授って、こんなに頭が良くていろんな賞を取っているのに、どうして褒められることには慣れてないのかしら」
「その証書は賞ではなくただの資格だ。そして俺は三週間経過した今も、貴様から福兎を引き剥がせずにいる」
目的を遂げられず焦っているのは、あたしよりも教授の方だった。
頭を悩ませ続ける教授にお茶を淹れながら、「教授はいい人よ。だって、こんなに頑張ってくれてるもの」と繰り返す。
「下心のない善意など存在しない。俺は福兎に用があるだけだ」
「それはわかってるわ。ねえ、教授も幸運が欲しいの?」
なにか叶えたい願いがあるのならば、あたしが代わりに叶えてあげられるかもしれない。
そう思っての質問だったけれど、教授は「いや」と首を振った。
「実験に使いたい。土地神に近い権能を持つ福兎を手に入れて、計画を次の段階に移す」
「プラン? ずっと不思議に思ってたんだけど、教授はここで一体何の実験をしているの?」
「土地神を弑逆するための実験だ」
「しいぎゃく?」と聞いたばかりの言葉を復唱する。初めて聞く単語だった。
「弑逆とは即ち、上位の存在に逆らい、殺すこと。——こちらの話だ。特に面白い話でもない」
「怪異の話は面白いわよ。教科書には載ってないし。ねえ教授、もっと聞きたいわ」
「……土地神は近隣の街を治める怪異だ。住人を危険から守る、怪異を裁く怪異。俺はそれを討ち滅ぼすことを目的にしている」
教授の言葉に、再び首をひねる。
街を守る怪異なら、いい怪異なのではないだろうか。
どうして教授がその怪異——土地神をやっつけようとしてるのか、あたしはますます興味を持った。
「教授はその神様が嫌いなの?」
「ああ。心底憎んでいる」
「どうして?」
「……俺の妻が、憎んでいたからだ」
一瞬、実験棟の中の時間が止まった。
ツマ。よくお刺身と一緒に出てくる、細く切った大根のことだろうか。
最初にそんなことを考えてしまうくらい、教授の口から出てきた言葉は、あたしの理解を超えていた。
「……え? 教授って、結婚してるの?」
「ああ」
「うそ、だって、ここに住んでるのよね?」
「妻は随分前に他界した。ここには俺しかいない」
突然のカミングアウトに、思わず閉口する。
教授が妻帯者だったという時点であたしの脳はキャパオーバーだっていうのに、そのうえ亡くなられていたなんて。
こういうとき、なんて言うのが正解なのかしら。
葬儀屋の娘ではあるけれど、この場において「ご愁傷さまです」が正解じゃないことは、なんとなく理解した。
あたしの混乱に気づいたのか、掛ける言葉を見失っておろおろしているあたしの前で、教授がおもむろにペストマスクの留め具を外す。
パチ、という軽快な音ともに革のベルトがたわんで、隙間からずっと覆い隠されていた口元が覗いた。
少し長い黒銀色の髪は、色素の薄い髪を無理やり黒染めしているようで、ところどころ色が抜けている。
伸び切った前髪を掻き分ける指の間から、見たことのない淡い瞳がこちらを向いて、思わず肩がはねた。
「……び、びっくりした。それ、外せるのね」
「外せるとは。このマスクが人間の頭に見えていたなら、貴様の目も俺に負けず劣らずの節穴だが」
「だって、ずっと付けてるから、外せない理由があるのかと思って」
さすがに、このペストマスクこそ教授の真の顔である、なんて噂話を信じていたわけじゃなかったけれど、こんな珍妙な格好を校内でも貫いているのだ。顔に傷があるなり盲目なり、何かしら大きな理由があるのだと思っていた。
だけど、ペストマスクを外した教授の顔には傷一つない。
それどころか、初等部生のあたしから見ても、とても綺麗な顔に見える。
これで淡い金髪だったなら、きっとおとぎ話に出てくる王子様そのものだっただろう。
けれど黒く染められた髪と、目の下に刻まれた深いクマのせいで、第一印象はどちらかといえば敵役だった。
「教授って、思ってたより若いのね……」
「そう見えるだけだ。俺は歳を取らない」
「そうなの? じゃあやっぱり、何十年も前からいるのに年を取らないって噂は本当だったのね」
「怖いか」
「あら。いつまでも若いままなんて、女の子の夢じゃない?」
「……そうか」
奥さんが既に亡くなってると聞いた時は、この空気をどうしようかと思っていたけれど。
どうやらあたしの回答に機嫌を良くしたようで、教授は戸棚からこんぺいとうの缶を取り出すと、山のようにシャーレに盛ってから、あたしの前に押しやった。
「……教授って、一見わかりにくいように見えて、結構わかりやすいわよね」
じっとこちらを見ている教授の顔に表情はないけれど、教授は顔や言葉ではなく、行動で示す人だ。
「甘いものは嫌いか」
「好きよ。ありがたくいただくわ」
目の前のカラフルな山から黄色の星を一粒取って、口に運ぶ。
砂糖そのもののクリアな甘さが、舌の上で溶けてゆっくりと広がっていった。




