第十夜┊十四「理想の姿見」
それからあたしは、教授を追い掛ける形で実験棟——『医局』に通うようになった。
学園敷地の端に建っている古びた建物は、元は小さな病院だったらしい。
水回りこそ綺麗に改築されているものの、解剖台や手術室はそのまま残されている。
そして信じがたいことに、教授はここに寝泊まりしているらしい。
「便宜上、『実験棟』などと呼ばれているが、授業は新校舎の理科室で行うため、この場所に生徒が立ち入ることはない」
「ずいぶん変なところに建ってるのね。旧校舎からも新校舎からも独立してるし」
「使う予定がなかったからな。ここは新校舎を建てる際に潰して、グラウンドの一端になる予定だった。だが、旧校舎の取り壊し工事が中断され、その際に俺が管理権限を買い取った」
「ふーん。ねえ教授、それって何年前の話?」
あたしの質問に、教授は答えなかった。
旧校舎時代ならば、下手するとあたしが生まれるよりも前の話だ。何十年も前からいるのに、一向に年を取らないという教授の噂話は、あながち嘘ではないらしい。
アルコールランプで水を沸かし始めた教授の隣に座って、ぐるりと部屋を見渡す。
実験棟は二階建てで、今あたし達がいるこの二階は、どうやら居住スペースのようだった。
あまり使われた形跡のない寝室には、広めのベッドが置かれている。腰掛けているソファは上質だけれど、背もたれには乱雑に白衣が投げ捨てられていた。
目の前のテーブルには、付箋だらけのカルテや手書きの実験記録が山積みになっている。奥の扉は恐らくシャワールームだろう。
ここに来る前に通り過ぎた一階には、解剖室やクリーンルーム、薬品棚が並ぶ実験室があった。
小ぢんまりとしてはいるものの、元病院だった形跡はしっかりと残っている。簡単な手術なら問題なく行えるだろう。
「実験棟としては十分な設備だと思うけど、人が住む場所ではないわよね」
至極当然の感想を述べると、ペストマスクの奥でかすかに笑う気配がした。
「……なんだ、ちゃんと人間なのね」
「なんだと思って付いてきたのだ」
もっともな質問に、今度はあたしの方がけらけらと笑う。
狐につままれたような心地でこんなところまで付いてきてしまったけれど、教授は思っていたよりもずっと普通の人間だった。
緊張の糸が切れたあたしは、教授が淹れてくれたお茶を手に取る。
……世の中に、ビーカーを湯呑み代わりにする人間がいるということを、あたしはこの実験棟にきて最初に学んだ。
「ごく一部の者はここを『医局』と呼ぶ。いずれ貴様の耳にも入るだろうが、『医局』は表向きの名ではない。校内では口にしないよう気を付けたまえ」
「医局? 表向きじゃないってことは、教授は裏向きのお医者さんなの? いけないのよ、そういうのを『ヤミ医者』っていうんでしょ」
「……語弊を正そう。前提、この世には怪異というものが存在する。そしてそれらは通常、人の目に触れることはない」
「オバケのことね。知っているわ」
なにせ葬儀屋の娘なのだ。得意げに語るあたしに、「幽霊と怪異は異なるものだ」と教授が補足してくれる。
「俺たちは幽霊を視ることはできないが、怪異の存在を知覚することができる。他と変わらないほどハッキリと視えるがゆえに、俺には怪異と生物の見分けがつかん」
「じゃあ、教授は怪異のお医者さんなの?」
「現状を要約するとそうなるな。過去、この近辺で行き倒れていた生物を実験がてら治療してやったことがある。だが、どうやら俺が診たのは怪異だったらしく、以来ここは人も怪異も分け隔てなく診療する『医局』と呼ばれるようになった」
「……つまり、ここを『医局』と呼んで訪れるのは、基本的に怪異なのね」
「そういうことだ」
ならば、『怪異のお医者さん』という理解でも間違いではないだろう。
何十年も前に破棄され、いまや校舎の敷地に位置するこの廃病院に、普通の人間が訪れることはないだろうから。
——現世と幽世の境界、【ツクヨミ医局】。
教授は、この実験棟をそう呼んでいた。
緊張が解けるのを待ってくれていたのだろうか。あたしのお茶が半分ほどまで減った頃合いで、教授は「本題に入る」と告げてあたしを向く。
「貴様は『福兎』という怪異に取り憑かれている。頭が重いのは、そこにそいつが乗っているからだ」
おとぎ話でも聞くようなつもりで『医局』の話を聞いていたから、唐突にあたし自身に水を向けられて、思わず自分の頭に手をやった。
頭の上には何もなかったけど、「祓力を持たない者では、怪異に触れることも視ることもできん」と付け加えられて、おずおずと手を下ろす。
「ふ、福兎ってどんな見た目をしているの……? 怖い?」
つとめて冷静なふりをしたつもりだったけど、思わず声が震えた。さすがに、自分の頭上に怪異が張り付いていると言われたら、あたしだって怖い。
おそるおそる尋ねたあたしに、「いや、外見は普通の兎だな。一回り小さいくらいか」と教授が答えた。
「ダークブラウンのつややかな毛並みをしている。目だけは鮮やかなグリーンで、自然界には存在しない虹彩だ。宝石のようにも見える」
あたしの頭上をまじまじと眺めながら解説されて、「そうなんだ……」と安堵とも言えない息が漏れる。
異形の化け物を想像していたけれど、見た目が普通の兎(しかもちょっと小さい)と聞くと、嫌悪感も薄らいだ。
「教授は、福兎を捕まえたいの?」
「貴様の同意が得られるなら、そうさせてもらう」
教授の言葉に、あたしはこくこくと頷いて同意を示した。頭に乗っているのが可愛い兎の怪異だとしても、見えない何かがそこにずっと乗っかっているというのは気分が悪いし、単純に頭が重い。
頷くあたしに、教授はいくらか福兎について説明をしてくれた。
その怪異は幸運をもたらしてくれるけれど、あとになって三倍の代償を取り立てるとか。
宿主であるあたしにはそのルールは適用されず、代わりに周囲の人間が代償を支払わされることになるとか。
身に覚えのあるあたしは、教授の言葉を疑わなかった。




