第十夜┊十三「理想の姿見」
——他人より恵まれた人生だったと、子供ながらに思う。
実家は裕福だった。
欲しいものはなんでも与えられた。
パパとママは惜しみなく愛情を注いでくれた。
甘やかすばかりではなく、ダメなことはダメだときちんと教えてくれた。
適度に叱ってくれた。それよりたくさん、たくさん褒めてくれた。
あたしにはもったいないほどに、素敵な両親だった。
✤
卯ノ花グループは、大きなセレモニーホールを経営する葬儀屋だ。
人生の最期という大切な瞬間に、故人とご遺族の心に寄り添う。幕が下りるその時を、「終わり」ではなく「新たな旅の始まり」として受け止められるように。
あたしは両親に教わった、この経営理念が好きだった。
急な別れに戸惑い、心の整理がつかなかった人も、長い介護と闘病生活に疲れ切ってしまった人も。
みんな葬儀を終えると、少しだけ前を向けるようになる。また日常に戻っていける。
その背を押す仕事が、とても誇らしかった。
あたしも誰かの心に寄り添って、また前を向けるように導くような、そんな存在になりたかった。
あたしは元々物欲が強い方でもなかったし、満ち足りた生活を送っていたと思う。
そんなあたしにも、手に入らなかったものがあった。
——パパやママと、一緒に過ごす時間だ。
パパもママも忙しくて、ほとんど家には帰ってこない。
あたしの誕生日や、家族の記念日なんかは二人がとても頑張って仕事を調整してくれていたけれど、パパとママがあたしを大切に思うのと同じくらい、二人が仕事やお客様のことを大切に思っているのも知っている。
だから寂しさには蓋をして、あたしはいつも笑顔でパパとママを送り出した。
大きくなったらたくさん働いて、稼いで、パパとママの時間を買うんだ。そうすれば、もっと一緒にいられる。
そう決意して、あたしはひとりぼっちの時間をひたすら勉強に費やした。
家にはいつもお手伝いさんがいてくれたし、衣食住に困ったこともない。
ロビーにはいつも季節の花が生けてあって、リビングにはママの好きなフリージアのルームフレグランスが漂っている。
他の人が聞けば、うらやむような生活だろうと思う。
だけどあたしは、家の中で「お嬢様」として扱われるのがすごく嫌だった。
他人行儀にうやうやしく、子供のあたしに接する大人たちを見ていると、なんだか胸のあたりがムカムカしてくる。
なんとなく、パパとママのいない家に帰るのが億劫になって、放課後の教室にひとり残って宿題をやるようになった。
だんだんと居残る時間が延びて、日が落ちる前に帰路に着くことはなくなっていた。
✤
当時のあたしは、怪異なんかとは縁もゆかりもない、普通の子供だった。
家業柄、幽霊や神様を信じてはいたけれど、それこそ故人が化けて出てこなくていいように葬儀を執り行うのが「卯ノ花」の仕事だ。
どちらかといえば現実主義で、占いや迷信などはあまり信用していない。
それでも他人より少しだけ、「ツイている」という自覚はあった。
席替えのくじを引けば、いつだって窓際の最後列になるし、あたしが外を歩けば、どんよりしていた天気がたちまち青空に変わっていく。
偶然というには出来すぎていたし、あたしは「そういうものなんだ」と素直に幸運を受け入れた。
幸運。なんて素敵な能力だろう。
あたしはそれを、寂しさに耐えて勉強をがんばるあたしに、神様がくれたプレゼントだと思っていた。
……そんなうぬぼれに猜疑心が混じり始めたのは、初等部の二年生に上がった頃だった。
あたしは気付いたのだ。
幸運のあとにはいつも、よくないことが起こることに。
席替えのくじを引けば、いつだって窓際の最後列になる。
——かわりに、あたしの直後にくじを引いた子の席には、蛍光灯が落下して大怪我をした。
あたしが外を歩けば、どんよりしていた天気がたちまち青空に変わっていく。
——かわりに、隣の町では局所的な豪雨で土砂崩れが起きた。
それらを「幸運」と呼べるほど、あたしは傲慢じゃなかった。
度重なる不幸を目の当たりにして、いつしか幸運を願わなくなっていった。
むしろ、あたしに不幸があればあるほど、どこか知らない場所で誰かが幸せになっているような気さえした。
無私無欲。いい言葉だ。
重い頭をなんとか支えて、勉強机にかじりつく。
キィキィと悲鳴のような鳴き声が、重い頭の中で何度も鳴り響いていたけれど、これが幻聴であることは周囲の反応で理解していた。
あたしはこれまで以上に、目の前の勉強にひたすら打ち込むようになった。
——教授と出会ったのは、そんな日々のさなかだった。
「頭が重いと感じることはあるか。あるいは、甲高い悲鳴のような動物の声を聞くことは?」
誰もいない放課後。
夕焼けが真っ赤に壁を染めた教室で、気付けばペストマスクの男があたしを見下ろしていた。
当時のあたしにとって、教授は怪談話に出てくる架空の存在だった。
何十年も前からこの学校にいるのに、一向に年を取る気配がないとか、あのペストマスクはマスクじゃなくて本当の顔なんだとか、黒魔術を使ってゾンビをたくさん作ってるんだとか。
そんな風に、まことしやかに囁かれる噂話で教授の名前を耳にしたことはあったけど、二年生ではまだ理科の授業が始まっていなかったから、あたしが自分の目で教授を見たのは、その日が初めてだった。
思い返してみても、あの日のあたしはよく悲鳴をあげなかったわねと称賛したい。
夕焼けに照らし出された長躯のペストマスク男は、初等部二年に上がったばかりのいたいけな女子生徒からして、間違いなく不審者だった。
けれど掛けられた声が、存外落ち着いた大人の声だったからか、それとも、誰にも言えなかった悩みをぴたりと言い当てられたからか。
あたしは教授を見上げて、こくりと頷いた。
「……はい、あります」
「他人より運が良いと思ったことはあるか。その幸運が不運の前触れではないかと疑ったことは?」
「…………あります」
「それらの悩みについて、俺はいくつかの答えを持ち合わせている。聞く気はあるか?」
蛇の甘言に耳を貸してはならない——。昔読んだ一節を思い出しながら、表情のないペストマスクを見上げる。
知恵の実は、一口かじればもう楽園にはいられなくなる。
それでも、あたしはその果実に手を伸ばした。




