第十夜┊十二「理想の姿見」
渡された記憶を咀嚼しきって、目を開ける。
ずっと頭にかかっていたモヤが晴れ、目の前の景色が急に澄み渡って見えた。
長い数年間を旅してきたような気分だったけど、実際に経過した時間はほんの数秒だったのだろう。
踊り場には相変わらず、雛遊先生が苛立ちまぎれに佇立していて、階段では若宮さんが具合悪そうに腰掛けている。
踊り場より下の段からは、星蓮がじっと事の成り行きを見守っていた。
「僕の記憶……、福兎に消されちゃったと思ってたのに、君が持っていてくれたんだね」
「言ったであろう。例え簒奪者が現れようと、もう主からは何も奪わせぬと。——我らは諍いが嫌いだ。主らのすれ違いをこれ以上見ていたくない。今の主ならば、兎楽々の心を理解し、寄り添ってやれるだろう」
踊り場に設置された姿見が、優しい声音で語り掛けてくれる。記憶の中の姿より、随分と錆びて弱りきってしまっていたけれど、彼女もまた、あの医局でともに過ごした僕の友人だった。
鏡の中の女が動くたび、さらさらと長い銀髪が揺れる。
改めて見てみると、やや大人びてはいるが千鶴さんによく似た風貌だ。そういえばこの鏡は、檻紙の遺品として持ち出されたのだったか。
「もしかして、君の姿はお母……」
僕が言い切るより早く、僕の中から「キィキィ」と甲高い音が鳴る。
それが兎の鳴き声だと気付いたときには、目の前の姿見にピシリと大きな亀裂が走っていた。
「福兎……っ!」
卯ノ花さんの——兎楽々の体の中で、福兎が猛り狂っているのを感じる。
自由の代償として奪われるはずだった僕の記憶を、この姿見に掠め取られてから、ずっと怒っていたのだろう。
突然ヒビの入った姿見に、若宮さん(の姿をした雛遊先生)が即座に気付いて、星蓮を見た。
「あっ! やはり君が揺らしたせいで、ヒビが入ってるじゃないですか!」
「俺のあとにへっぽこ宮司も掴んでただろ。俺のせいじゃねーよ」
「どうするんですか。元に戻る前に鏡が割れたら、私達は一生このままですよ!」
途端に騒ぎ出す星蓮たちに、「ちがう、僕のせいだ……」と答えて首を振る。
「僕の記憶をずっと預かっていたから、こんなにも錆びて、弱ってしまったんだ。記憶を移し替えることはできても、保管する力はないって言ってたのに……」
渡されたばかりの記憶を反芻して、傷の入った鏡におろおろと手を触れる。
初めて僕を呼んだ夜に、鏡はこう言っていた。
『お前が心を求めるのなら、我らはお前にこれを渡そう。己が身より大切な預かりものだが、我らに『保管』の力はない。これ以上は抱えていられぬ。これ以上は壊れてしまう』
と……。
なのにずっと、この鏡は福兎に奪われそうになった僕の記憶を取り返して、今日まで抱えていてくれたのだ。
「ど、どうしよう、このままじゃ壊れちゃう……」
「構わぬ。我らは主に尽くせることを誇りに思う。わずかでも主の役に立てるなら、影踏もきっと喜ぶだろう」
姿見はそう言って慰めてくれたけど、その顔を横断するように入ってしまった亀裂は、致命傷のように思えた。
傷口からどろりとした銀色の液体が溢れて、血のようにゆっくりと鏡を伝う。
このまま壊れてしまったらどうしよう、と内心で焦る僕に、星蓮が「ガムテープでも探してくるか?」と尋ねてくれる。
「ないよりはマシだろ。応急処置ぐらいはしとかないとマズそうだぞ」
「そうだね。ここからなら実験棟の方が近いかな……。僕も探しに行くよ」
振り向きざま、星蓮が「おい鏡。先に聞いておくけど、おまえが割れたら入れ替わってる人間はどうなる?」と尋ねると、「主らに影響はない」と返事をくれた。
「我らがこれ以上力を失えば、『相互理解』が進まずとも元に戻るだろう」
「おや、そうなのですか。ならば手っ取り早く割ってしまいましょう」
怪異が嫌いな若宮さんは、急に機嫌を直して鏡の枠に手を掛ける。その手を星蓮が掴んで「おい、やめろ」と短く制した。
「なぜ止めるのですか。君だって先ほどまで鏡を割ろうとしていたじゃないですか」
「空気が読めないのか、ノンデリ宮司。そいつはカルタの古い知り合いらしい」
「私の知ったことではありません。所詮は道具、割って戻れるのならば割りますよ」
「なに焦ってんだよ。おまえは一生雛遊の体でも良いって言ってただろうが」
ほんの一瞬、若宮さんの表情に変な色が混じった。
それは、あまり内心を顔に出さない若宮さんが見せた、動揺の表情だったのかもしれない。
「……私はこのままでも構いやしませんが、自分の体を他人に明け渡すというのは、そう気分の良いものではないでしょう。肇さんも随分と弱っているようだ。このまま死なれでもしたら寝覚めが悪い」
「その鏡いわく、雛遊はもうおまえを理解して、解呪条件を満たしてるんだろ。なら鏡を割らなくても、おまえが雛遊を理解しろよ。そうすりゃ戻れるんだから」
「そんな面倒なことをするくらいなら、鏡を叩き割った方が早いと言っているんですよ」
若宮さんが言い募るが、体格のいい雛遊先生の身体をもってしても、星蓮の腕力には遠く及ばないようだった。
腕をつかんだまま微動だにしない星蓮を忌々しそうに見下ろしていたけれど、若宮さんが動く前に「その辺にしとけよ」と雛遊先生が口を挟む。
「今のお前の状態で、星蓮君をどうこうできるわけがない。自分でもわかってるだろう」
「傍観を決め込むつもりですか、仮にも怪異の前ですよ」
「雛遊は、人の世を脅かさない怪異とは敵対しない。綾取と違ってな」
若宮さんを一瞥すると、雛遊先生は星蓮と僕に「行って大丈夫ですよ」と頷いた。
「鏡は私が見ておきます。簡単な手当てくらいはできるでしょう」
「わかった。俺らはガムテープを探しに行ってくるから、ノンデリ宮司が鏡を割らないように見張ってろ」
雛遊先生に若宮さんと鏡を任せると、僕らは階段を駆け降りた。
✤
若宮さんと雛遊先生を呼び込んだのは、きっと幸運の力だ。
それが後でどれほどの災厄をもたらすのか、僕は嫌と言うほど知っている。そして、福兎が決して兎楽々以外に従わないということも。
この体は間違いなく兎楽々のもので、福兎は兎楽々の身体から切り離せない。
つまり今、提供者の権能を持っているのは僕で、兎楽々は空白の記憶の権能を持っていることになる。
……彼女の昼食が人参ジュース一本で、本当に良かった。
もしも兎楽々がレバーを食べていたら、大変なことになっていただろう。
「とにかくガムテープだな」
そう言って僕の手を引く星蓮は、なんだかいつもより少しだけ強引に見えた。
普段、星蓮はいたずらに他人に触れるようなことはしない。少しでも手加減を間違えば、彼は人間なんて簡単に潰してしまうだろうから。
「どうしたの? なにか困ってたりする?」
「あー、ちょっとまずいことになってる。『あるじさま』から伝言だ。卯ノ花が桐崎に連れていかれた。実験棟に向かったってさ」
「え? 桐崎さん……?」
桐崎さんと言われても、接点のない僕はぼんやりとしか顔を思い出せない。確か、女子だけど僕より背が高くて、スラッとした印象のクラスメイトだ。
それよりも、『あるじさま』からの伝言ということは……。
「君と会話してるの、コンちゃんなんだね」
「そう。……おまえ、視えてないんだろ」
「うん。兎楽々にはコンちゃんが視えないみたい」
前を走る星蓮に、頷く。
星蓮が途中から誰かと喋っていたように見えたのは、状況を伝えるために派遣されたコンちゃんだったらしい。
もしかしたら今もそこにいるのかもしれないけど、僕の目には星蓮しか写っていなかった。
「狐は隠れるのが上手いからな。卯ノ花に見つからないようにしようと思えば簡単だろ。まあ、もし見つかったとして、隠れるのは卯ノ花の方かもしれないけど」
「兎楽々が? どうして?」
「狐は兎を喰うから」
事も無げに答えられて、ぞっとする。
すっかり忘れていたけれど、怪異の世界は本来、弱肉強食なのだ。
「……え? もしかして僕、コンちゃんに食べられそうになってる?」
「なってない。俺の前でおまえを喰おうとするやつがいたら、俺がそいつを喰うし」
星蓮の言葉に、ほっと胸を撫で下ろす。
視えないし聞こえないけれど、「たわけ! この私がそんな節操なしに見えるのか!」と憤慨しているコンちゃんの姿が目に浮かんだ。
「それにしても、愛色さんと兎楽々、同室なのにお互いのこと隠してるんだね。仲良さそうに見えたけど……」
「仲が良いからこそ、かもな。卯ノ花は愛色に、自分が怪異だなんて知られたくないんじゃないか?」
星蓮が肩をすくめる。確かに、そうかもしれない。
兎楽々にとって、大嫌いな怪異と一体化してしまった自分の存在は、ひどいコンプレックスなのだろう。愛色さんにはとても言えたものじゃない。
ましてや、カミングアウトした末に僕から『うらやましい』なんて言葉を引き出してしまった今となっては、兎楽々はもう、誰にも秘密を打ち明けられないだろう。
「もっとも、当の愛色は怪異よりも人間の方が嫌いなんだから、皮肉なもんだよな」
星蓮のため息が、旧校舎の廊下に小さく響いた。
✤
「……、はぁ、はぁ……っ」
なるべく音を立てないように、乱れた息を整える。
抑えた右肩からは血が滴っていたけれど、深く切りつけられたはずの傷は、いつの間にかふさがっていた。
「……聞いてないわよ、第一被検体……っ」
小声で悪態をつく。
あたしのことを覚えていなくても、医局のことをきれいさっぱり忘れてしまっていても。
きっと普通の人間として、幸せになってくれているはずだと信じていたのに。
入れ替わった体は、とても人間のものとは言えなかった。
「うーららちゃーん、どこ行ったのかなー?」
隠す気もない足音が、明後日の方向へと歩を進める。
かなり距離があるけど、桐崎さつきはとても足が速い。尋常じゃないほどに。
ひとつでも物音を立てれば、すぐさまこちらに迫ってくるだろう。
これが自分の身体なら、幸運の力で逃げられただろうけど。慣れないこの身体では、迂闊に前を向いて歩くことさえできなかった。




