第十夜┊十一「理想の姿見」
内臓がひっくり返るような気分の悪さを押し込めて、呆然と教授を見上げる。
兎楽々が酷いショックを受けていることはわかったけれど、覗き見た記憶の限りでは、兎楽々の命に別状はなかったはずだ。
記憶は確かに、兎楽々のものだった。
人格は確かに、兎楽々のものだった。
意識もあり、身体も損なわれてはいなかった。
けれど目の前に立っているのはもう、人間の卯ノ花兎楽々ではない。
その理由が、僕にはわからなかった。
続きを覗けば答えが見つかったかもしれないけど、僕にはもうこれ以上、兎楽々の記憶を見る勇気がなかった。
「う、兎楽々に、何をしたの……。福兎はどこに行ったの?」
「福兎ならいるだろう、貴様の目の前に」
教授が片手で兎楽々を示して、僕は今度こそ口元を押さえてうずくまる。
「な、なんで……? どうして……」
「深い理由などない。次の実験には福兎の権能が必要だった。それだけだ」
「それだけって……、なに? それだけのために、兎楽々と福兎を……」
聞いてはいけないと、脳が警鐘を鳴らす。
駄目だとわかっていながらも、聞かずにはいられなかった。
——今になって思えば、最初からおかしかったんだ。
教授が、見られたら困るものしか置いていないこの医局に、兎楽々を招き入れたのも。
僕や教授の素性をやすやすと明かし、兎楽々をそばに置き続けたのも。
教授は最初からずっと、福兎を手に入れるために——。
「福兎は自我が強く、他者の命令には従わない。だが宿主である兎楽々と融合させた今、こいつは福兎の権能と兎楽々の人格を併せ持つ人造怪異として生まれ変わった」
玩具を自慢する子供みたいに、教授が兎楽々の肩に手を回す。
教授が何を言っているのか、僕には全然わからない。
わからないけれど、僕はとても——怒っていた。
「最初から……、兎楽々に憑いた福兎が目当てだったの? 福兎を従わせるためだけに、兎楽々をこんな風に利用するなんて……っ!」
「教授に近付かないで」
立ち上がって教授に掴みかかる僕を、兎楽々が引き剥がして間に入る。
淡々と距離を取らせる兎楽々の顔には、先ほどまでの壊れた笑顔など跡形もない。マネキンみたいに無表情だった。
「どうして邪魔するんだ、兎楽々!」
「教授の実験を遂行することが、あたしに下された『命令』だから」
「しっかりしてよ! 君はそんな風に、他人に従うような人じゃなかっただろ……!!」
僕がどれだけ叫んでも、兎楽々は教授の前から動かない。
……兎楽々は嫌だったはずだ。
正義感にあふれる彼女が、大切な両親を奪った福兎を許すはずがない。
そんな福兎と兎楽々をこんな風に混ぜ合わせて、兎楽々をめちゃくちゃにしてしまった教授が許せなかった。
「アンタに説教される謂れはないわ。何のために教授が福兎を求めたと思ってるのよ」
「何のためって、それは、実験のために……」
「だから、何を確かめる実験なのかって聞いてるの。アンタ、自分の役割をちゃんとわかってるの? 第一被検体」
兎楽々の言葉に、背筋を冷たいものが伝う。
兎楽々は今まで一度たりとも、僕をそんな風に呼んだことはなかった。他人を実験体扱いすることを、なによりも彼女が良しとしなかったから。
目の前の少女はやはり、もう僕の知る兎楽々ではないのかもしれない。
耐えがたい事実を突きつけられて、目の前が真っ暗になる僕に、兎楽々は容赦なく詰め寄った。
「何もしない、何もできない、お気楽で間抜けな第一被検体。アンタがそんなだから、あたしが実験体になったのよ。——構えなさい。アンタがもう何の役にも立たない無能だってこと、証明してあげるから!」
兎楽々がどこからか杖を取り出して、僕に向ける。
直感的にまずいと悟って、入口に立つ二人を押しのけると、医局の外へと無我夢中で転がり出た。
背後で、無数のガラスが割れる音が響く。
あのまま中にいたらどうなってたんだろう、なんて……、考えるまでもない。
「待ってよ、兎楽々! 僕は君と争う理由なんてない!」
「そう、じゃあおとなしくやられてよ。あたしにはアンタを倒す理由があるんだから」
兎楽々が杖を向ける。
子供向けの絵本にでも出てきそうな、可愛い色をしたステッキだったけど、福兎の権能を持つ今の彼女が持つそれは、ただの凶器だった。
風に吹かれて折れた枝が、たまたま落ちてくる瓦が、目をギラつかせた夜鳥が、一直線に僕を狙う。
「……っ」
「福兎は人の願いをなんでも叶える代わりに、その三倍の代償を要求する」
福兎の権能について、僕がようやく正しい理解を得られたのはこの時だった。
もう何もかも手遅れだけど、もし、もっと早く知っていたら。福兎が『良い怪異』なんかじゃないと、もっと早く分かっていたら。
僕は、兎楽々を助けてあげられたのだろうか。
必死に逃げる僕の行く手を、あらゆる『幸運』が阻む。
この場合、兎楽々にとっての『幸運』は、イコール僕にとっての『不運』だ。
逃げようと踏み出した足はツタに絡まり、転がる先には尖った石だらけで、ボロボロになりながら兎楽々から逃げる。
どうして逃げてるのか、どうして追われてるのか、これがなんの実験なのか、全然わからなかった。
「なんで、こんなことをするんだよ……っ!」
「第一被検体『空白の記憶』。土地神を屠るために作られた依代でありながら、アンタは既に別の人間の魂を宿してしまった」
緩慢な態度で僕を追いかけながら、兎楽々が語り掛ける。
僕は必死に走り回っているのに、嵐のように降りかかる不運に阻まれて、ただ歩いているだけの兎楽々に今にも追いつかれそうだった。
「今のアンタに、土地神の魂を奪う力が残っているのか、どれだけの記憶容量が残されているのかも定かじゃない。だから、それを確かめるための実験が必要になった」
「だからって、なんで福兎が……?」
「土地神は、その者の持つ『もっとも美しいもの』を代償に、願いを叶えると言われているから」
噛み砕かれた兎楽々の説明に、「なんだか福兎に似ているな」と思ったところで、思考が停止する。
教授が、何のために福兎を必要としたのか、わかってしまった気がした。
「あたしは第三被検体、『提供者』。土地神をモデルに生成された人造怪異。……これは、第一被検体に土地神を殺す能力が残っているのか、第三被検体の命を以て検証する機構解析実験」
走り続けた足がもつれる。
同じ言語を共有しているのに、兎楽々が何を言ってるのか、まったく理解できない。
理解、したくない。
——遠く、少しでも遠くへと、医局から飛び出したはずなのに。追い立てられた僕はいつの間にか、医局の前へと戻ってきてしまっていた。
砕けたガラスが散らばる扉の前には、先ほどと変わらない位置に教授が立っている。ふらふらとその黒い影に近寄る僕の足を、伸びた草が絡め取った。
「ッ……!」
顔から勢いよく地面に叩きつけられて、しばらく衝撃で動けずにいたけれど、そのまま地面を這いずって教授を睨み上げる。
「僕に殺させるために、兎楽々を怪異にしたの……? 僕が、『心』を持ったから……?」
驚きと、失望と、悲しみで、どうにかなりそうな気持ちを必死で抑え込む。
表情のないペストマスクは、静かに僕を見下ろして一言、「そうだ」と答えた。
……悪い冗談だと、言って欲しかった。
僕を驚かせたくて、二人でふざけてみただけなんだと、今からでもそう言って欲しかった。
でも、兎楽々が冗談でこんな風に他人に怪我を負わせたりしないことは、僕が一番よくわかっている。
何より、そんな理由でもなければ、兎楽々が福兎とくっつけられることもなかったはずだ。
表面上は何も変わらない様に見えたけど、兎楽々の内側はもう、手の施しようがないほどぐちゃぐちゃに怪異と混ざってしまっていた。
「ほら、アンタにも矜持があるなら立ち向かいなさいよ。あたしを殺せたら、教授はアンタを第一優先プランとして続投してくれるわ」
「……できないよ、そんな……」
「でしょうね。アンタはそう言うわよね。教授の最高傑作のくせに、自分の役割も、使命も、全然理解してない。のんきに食事して、つまらないことで笑って、学校にも通っちゃったりして。これだからアンタは……っ!」
兎楽々が杖を振り上げて、思わず硬く目をつぶる。
兎楽々はずっと、僕のことが嫌いだったのだろうか。
僕といても、少しも楽しくなかったのだろうか。
思えば兎楽々にはずっと、何かをしてもらうばかりで、何かをしてあげた事なんて一度もなかった。
食事を与えてもらうばかりで、満たしてもらうばかりで、僕は何も提供してこなかった。
提供者。
名の通り、彼女はいつも誰かに何かをあげるばかりだ。
僕らは彼女に頼ってばかり、甘えてばかり。
だから兎楽々は強がるしかない。どんなに寂しくても、ボロボロでも、大丈夫だって、平気だって言うしかない。
そんなの、いくらなんでも兎楽々が報われないだろ。
ぐっと拳を握りしめる。
今この瞬間、僕は彼女に何かをしてあげたくてたまらなかった。
兎楽々は、ずっと僕を殺したかったのだろうか。
殺したいほど、僕のことが嫌いだったのだろうか。
僕を殺しても、兎楽々が依代にされるわけじゃない。第一被検体は偶然の産物だ。僕が機能しなくなれば、教授は他の手段を探すだろう。
そっか。……じゃあ、僕が死んでも、兎楽々は土地神様の器にならなくて済むんだね。
それなら、嫌なことばかりで疲れてしまった彼女に、少しくらい八つ当たりされたって、かまわないや。
もう抵抗することを諦めた僕の頭上で、振り上げられた杖がきらりと光を映す。
ずっと隠れていた月が、厚い雲の合間から覗いて、東の空にかすかな夜明けの色が差した。
「……あたしはアンタのそういうところが、大嫌いだった。いつもぼんやりして、目の前のあたしを見もしないで、俯いてばかりいるアンタが大嫌いだった。いつも諦めたみたいに、未来を望まないアンタが大嫌いだった! ねえ、一度くらい『生きたい』って言ってみたらどうなのよ!」
兎楽々が僕の首元を掴んで、引き寄せる。見たことのない形になってしまった瞳孔に見つめられながら、兎楽々もこんな風に声を荒らげることがあるんだと、他人事のように思った。
死にたいわけじゃない。
でも僕は生きていたって、どのみち土地神様の依代になるだけだ。
それならここで、兎楽々に壊されたっていい。
やり場のない彼女の怒りの捌け口になれる方が、この人生にも意味があったと思えるだろう。
何も言わない僕から、兎楽々が諦めたように手を離す。
怒っているかと思ったけど、まっすぐに僕を見つめる瞳と目が合って、少しドキリとした。
「……あたし、やっぱりアンタのことは嫌い。あたしの嫌なところとそっくりで、まるで鏡を見せられてるみたいなんだもの」
杖の先が光る。ロウソクを灯すみたいに淡く頼りなかった光が、だんだんと鮮明に、色濃く輝き出して。
眩い光に照らされながら、「あたしもね、アンタのために死ねるなら、少しくらい自分の人生がマシになるような気がしたのよ」と兎楽々が呟いた。
「何もしない、何もできない、お気楽で間抜けな第一被検体。アンタがもう何の役にも立たない無能だってこと、あたしが証明してあげる。……もう実験は続けられないんだって、アンタは心を授かって、普通の人間として生きていくんだって、あたしが教授に見せつけてあげる」
兎楽々に言われて、思わず教授を振り返る。
兎楽々の意向を知っていたのか、教授が止めに入る様子はない。
もう目も開けていられないほどに、光の輝きは増していた。
眩しくて、兎楽々がどんな表情をしていたのか、僕には見えなかった。
「だから、アンタはそのままでいなさいよ。普通の子供みたいに、何も知らずに生きて、笑って、普通の幸せを掴んだらいいわ。あたしにはもう、できなくなっちゃったけど……。アンタにはまだ、すてきな未来が待ってるんだから」
今生の別れのような兎楽々の言葉に、僕は不安になって手探りで彼女の手を掴む。
渦を巻くようにバサバサと風が吹き荒れて、朝の気配が柔らかく頬を撫でた。
「小手鞠カルタが、どうか自由になりますように」
僕の大事な親友は、最後にそう願った。
✤
ガタガタ、ガタガタとフィルムが音を立てる。
壊れてしまった映写機のように、白と黒の明滅を繰り返していたけれど、やがてプツリと音を立てて映像が途切れた。
知っている。これは、僕の記憶だ。
失われてしまったはずの、僕の記憶。
あの日、兎楽々が願った幸福は、僕を自由にする代わりに、兎楽々と過ごした日々の記憶を僕の中から消し去ってしまった。
医局での思い出も、自分の役割も、卯ノ花兎楽々という恩人の存在も全て忘れることで、「僕」は晴れて自由の身になった。
医局に一人残された兎楽々にとって、それがどういう意味を持つのか。
あれから兎楽々がどんな風に過ごしていたのか、僕には想像もつかない。
僕は、知っていたのに。
ひとりぼっちの医局から眺める窓の外の景色が、どれだけ侘しく、悲しく、胸が苦しいものなのか……。
兎楽々は僕が未来を望まないと言ったけれど、過去に一度だけ、兎楽々に願ったことがある。
「ずっと医局にいてよ」と。
願いを歪曲させる福兎とは対照的に、卯ノ花兎楽々は僕の願いを正しく受け取り、そして、より正しい方へと導いた。
——他人を医局に引き込むのではなく、僕自身が医局の外に出られるように。
卯ノ花兎楽々は、何重にも僕の願いを叶えたのだ。
ずっと医局にいて欲しいという、僕の願いを。
彼女の幸福と、未来と、人生と引き換えに……。
時を経て、高等部で再会した僕は、はたして兎楽々の目にどう映っていたのだろうか。
自分のすべてを賭けて助け出した「僕」が、彼女のことなどすっかり忘れて、友人だと名乗る怪異と楽しく学校生活を送っている姿を、どう思っただろうか。
卯ノ花兎楽々は、それでも僕を見放さなかった。
彼女のことも、医局のことも忘れてのうのうと生きている僕に、兎楽々は簡単な自己紹介をしてくれた。
ちょっとした縁があって、僕のことを知っていること。
存在を知ってはいるけど、神や怪異が嫌いなこと。
そして、僕がもう怪異を怖がっていないと知って、自分には幸運を呼ぶ力があるのだと教えてくれた。
『そうなんだ。すごい、うらやましいな』
——その言葉が、一体どれほど彼女を傷つけてしまったのだろうか。
兎楽々から両親を奪い、生きる意味も希望も、果ては友人さえも奪った権能を、よりにもよって「僕」にうらやましがられる状況が、どれほど彼女の心を追い詰めてしまったのだろうか。
考えるだけで、恐ろしかった。




