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【画集3弾発売中】幻想奇譚あやかし日記  作者: 惰眠ネロ
怪異アレルギーと魔法の鏡
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第十夜┊十「理想の姿見」

 兎楽々(うらら)は翌日、学校に来なかった。


 結婚記念日だと言っていたし、学校を休んで家族旅行でもしているのだろう。ぽっかり空いた窓際の席を寂しく思いながらも、深く気にしてはいなかった。


 明日になれば、きっと兎楽々(うらら)は医局に来てくれる。

 いつも通り、くだらない話をして、宿題をして、一緒にお弁当を食べるんだ。

 僕は、そう信じて疑わなかった。


 けれど兎楽々(うらら)は翌日も、その翌日も姿を現さなかった。




 ✤




 兎楽々(うらら)と別れてから、七日が経った。

 教授と二人きりの医局はどことなく気まずかったけど、その教授も数日前からふらっと姿を消した。


 教授はああ見えて研究マニアだし、学会シーズンはたびたび医局を空けるから、不在が珍しいわけじゃない。

 だけどこれまで、出張する日は必ず事前に予定を教えてくれていたし、代わりにいつも兎楽々(うらら)が医局に泊まってくれたから、こんな風にひとりぼっちで夜を迎えるのは初めてだった。



 月が厚い雲に覆われ、夜露で湿った空気が急激に冷えていく。

 誰もいない夜の医局は、空気の一粒一粒までもが僕を拒絶しているように感じられる。

 医局を満たす重たい静寂に、まるで世界にたったひとり、取り残されてしまったような気持ちになった。


兎楽々(うらら)も、教授も、もう帰ってこないのかな……」


 口に出したらそれが本当になってしまう気がして、僕は慌てて首を振る。

 心を無にしてさっさと眠ろうと毛布をかぶったけれど、外からホーホーと不気味な鳴き声が聞こえてきて、びくりと肩が跳ねた。

 しばらく息を潜めていたけれど、こわばっていた体がようやく緩んできた頃に、今度は何かがバサバサとけたたましく飛び立つ音がして、僕はたまらず声を上げた。


「ね、ねえ! だれか、誰かいないの!?」

「どうした、檻紙おりがみの子よ。我らは壊れぬ限りここにいるぞ」


 即座にあの姿見が返事をくれて、毛布を握りしめていた指が少しだけほどかれる。

 鏡とはあれからも話をしたことはあったけれど、片手で数え切れる程度だ。ましてや兎楽々(うらら)が入り浸っていたここ最近では、鏡と会話する機会もめっきりなくなっていた。


「よかった……。ねえ、教授がどこに行ったか知ってる?」

「ふむ、我らは何もことづけられていないが、ここを出る前に電話を受けていたな」

「電話?」

訃報ふほうのようだった。慌ただしく出ていったゆえ、戻るまで今しばらく掛かるかもしれぬ。……ところで、我らに語りかけるときは『鏡よ鏡』と唱えるよう、前にも申したであろう」


 いつもと変わらない鏡の様子に、先ほどまで胸を満たしていた不安と恐怖がゆっくりと溶けていく。用事で出て行っただけなら、教授もいずれ帰ってくるだろう。

 少し心が軽くなった僕は、鏡からの要望に「うーん」と眉を寄せた。なんだかそれは、おとぎ話に出てくる悪い女王様みたいで気が進まない。


「それを言ったら、なにかいいことある?」

「我らは喜んでぬしの問いに答えよう」

「今でも答えてくれてるし……」

「世界で一番美しい者が誰か、教えてやってもよい」

「やっぱり良くない流れだと思うなあ」


 人見知りのくせにやたらと人懐っこい鏡は、楽しそうにカタカタと揺れたあと、僕を見た。


檻紙おりがみの子よ。ぬしに心を渡したのは我らだ。ゆえに我らは、ぬしが幸せになるために尽力する義務がある」

「僕の幸せ……」

「今はまだわからぬだろう。それでもよい。簒奪者さんだつしゃが現れようと、我らはもうぬしから何も奪わせぬ。我らはそう願われ、そう託されたのだから」


 鏡の言葉はよくわからなかったけど、下手なことを言って鏡の機嫌を損ねてしまうほうが怖かった。

 ひとりぼっちの医局で、やっと見つけた話し相手だ。今この鏡が黙ってしまったら、肌寒い夜を一人で耐え忍ぶ自信がない。

 頷くフリをする僕に、鏡は「そう怖がるな」と手を伸ばす。


 鏡は鏡の中から出てこられなかったけど、僕らを隔てるガラスの厚みを惜しむように両手をかざした。

 なんとなく、僕もその手に重ねるように、鏡と手を合わせる。

 人見知りの鏡は、いつも覗き込むとそっぽを向いてしまうけれど、今夜は薄暗いからだろうか。薄灰色をしたきれいな瞳と、はじめて目が合った。


「我らは何があってもぬしの味方だ。たとえ、ぬしが我らを忘れようとも」

「僕、記憶力はいいから忘れないよ」

「ああ、そうだな……」


 鏡は寂しげに笑うと、名残惜しそうに一度俯いてから、僕と合わせていた手を離す。

 どうしたんだろうと尋ねる前に、「帰ってきたようだ」と鏡が視線で下を示した。ほどなくして、階下で軋む扉を開く音が響く。


 待ち望んでいた物音に、僕ははっとして顔を上げた。


 会話に付き合ってくれた鏡にお礼を言うのも忘れて、二階の居住スペースから三段飛ばしで医局の階段を駆け下りる。

 慌ただしく玄関への扉を開くと、入り口に佇む教授と兎楽々(うらら)の姿があった。


兎楽々(うらら)! おかえり、こんな時間まで何を……」


 意気揚々と開いた口は、だんだんと元気を失って閉ざされる。

 兎楽々(うらら)は一見して、最後に別れたときとそう変わらない姿のように思えた。

 頭上にずっとしがみついていたはずの福兎ふくうさぎはいなくなっていたし、兎楽々(うらら)も見慣れない真っ黒のワンピースを着ていたけれど。


兎楽々(うらら)……?」


 久し振りにまみえた友人の姿に、再会の喜びよりも困惑が先に立って、それから恐怖に塗り潰された。

 器である「僕」には、兎楽々(うらら)がもう——、人間ではないことが、わかってしまったから。


 耳鳴りがするほど静かな医局で、培養槽のコンプレッサーがヴーンと唸る。

 これまでも怪異と対面したことはあったけど、この時ほど「怖い」と思ったことはなかった。


「だ、誰……?」


 震える声を絞り出す。

 目の前の存在を、脳が兎楽々(うらら)だと認めなかった。


「誰って、あたしよ。数日会わなかっただけで、友達の顔を忘れるなんて薄情ね」


 目の前の少女が、口を開いてそう返す。

 口調はいつもの兎楽々(うらら)みたいだったけど、その声には全く抑揚がない。まるで台本でも読んでいるみたいだった。


「そうそう、今日からあたしもここに住むことになったわ。良かったわね、ずっと医局ここにいて欲しかったんでしょ?」


 口の端を吊り上げて、虚ろな瞳が僕を見る。いつもの屈託のない笑顔とは全く違う、見たことのないいびつな笑い方だった。

 こんな兎楽々(うらら)が医局に残ってくれたって、僕はちっとも嬉しくない。


兎楽々(うらら)……? 本当に、君なの……?」

「そうだって言ってるでしょう? あたしが他の誰に見えるのよ」


 目の前の少女は、兎楽々(うらら)の姿で、兎楽々(うらら)の声音でそう言ったけど、僕にはとても信じられなかった。


兎楽々(うらら)……、ごめん。本当に君なのか、確かめさせて」


 一言謝って、兎楽々(うらら)と目を合わせる。


 僕の権能は、目が合ったものや、触れたものの記憶を無意識に覗いてしまう。

 でもこの時の僕は、目の前の少女が本当に兎楽々(うらら)なのかを確かめたくて、初めて意識的に権能を使った。


 暗いミントグリーンの瞳と視線がかち合う。パラパラと早送りするように、細切れの映像が脳内になだれ込んできた。


 ——運転する父と、助手席の母。

 ——行き先を尋ねる、弾む声。

 ——平和でありふれた、一家団欒(だんらん)の光景。


 ——鳴り響くクラクション。潰れた車両。

 ——車体から溢れる燃料と血。

 ——伸ばした手の向こうで、轟々と燃え盛る炎。


「う……わ、ぁ、ああ……、ッ!」


 兎楽々(うらら)の視点で再生される凄惨な記憶に、僕は悲鳴をあげて、その場にへたり込む。


 ひどい事故だった。

 映像だけでも、その衝撃が伝わるほどに。


 兎楽々(うらら)だけは()()()、近くの茂みに放り出された。

 けれどそれを幸運だったとは言えないほどに、流れ込んできた記憶は残酷だった。


 ……泣き叫ぶ兎楽々(うらら)の視線の先で、両親はまだ生きていた。

 生きていたけれど、助けられなかった。

 燃える車体に挟まれて、その下半身は潰れてしまっていたから。


 兎楽々(うらら)たちの車をき潰したのは、巨大なタンクローリーだった。

 横倒しになった車両には、よく知るガソリンスタンドのロゴマークが描かれている。

 20トンを超えるその車両の下から、兎楽々(うらら)の両親を助け出すことは不可能だと、僕でも理解できてしまった。


 兎楽々(うらら)の両親は、「助けて」とは言わなかった。

 熱いとも、痛いとも言わなかった。


『来ないで、兎楽々(うらら)!』


 声にならない声が叫ぶ。愛娘を火の手から遠ざけようと。

 それでも駆け寄ろうとする兎楽々(うらら)を、何人もの腕が押さえつけた。

 噛みついても、蹴飛ばしても、大人たちは兎楽々(うらら)を離さなかった。


 たくさんの人たちが二人を助けようとしたけれど、轟々と燃え盛る炎と巨大な車両の重量を前に、なすすべもなく。


 兎楽々(うらら)の目の前で、二人は炭になっていった。


 

「う、兎楽々(うらら)……」


 記憶を覗き終えて、あまりの出来事に言葉を失う。

 何を言っていいかわからなくて、何も気の利いた言葉が思いつかなくて、縋るように名前を呼んだ。


 僕も兎楽々(うらら)にしてもらったように、兎楽々(うらら)の心に寄り添ってあげたかったのに。今こそ、そうするべきだったのに。

 僕にはそのやり方が、まったくわからなかった。


「ねえ聞いて。お金、降ってきたのよ。とーってもたくさん! すごいでしょう? あたし、お金持ちになったのよ。パパとママのお金じゃない、あたしのお金!」


 ケタケタ、ケタケタと兎楽々(うらら)が笑う。

 自責と後悔にまみれた、痛ましい笑い声だった。


 ——兎楽々(うらら)もきっと、気づいてしまったのだ。

 この事故は、己の「願い」が引き起こしたものだと。




『お金、降ってこないかしら』と、あの日の兎楽々(うらら)は確かに願った。


 福兎は願いを叶えたのだ。

 お金が欲しいという兎楽々(うらら)の願いを、両親からの莫大な『()()』という、最悪の形で。


 お金が手に入っても、それを使うべき相手はもういない。

 買いたかった時間は永遠に失われてしまった。


 両親と過ごす時間こそが、兎楽々(うらら)の本当の「願い」だったのに——。




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