第十夜┊十「理想の姿見」
兎楽々は翌日、学校に来なかった。
結婚記念日だと言っていたし、学校を休んで家族旅行でもしているのだろう。ぽっかり空いた窓際の席を寂しく思いながらも、深く気にしてはいなかった。
明日になれば、きっと兎楽々は医局に来てくれる。
いつも通り、くだらない話をして、宿題をして、一緒にお弁当を食べるんだ。
僕は、そう信じて疑わなかった。
けれど兎楽々は翌日も、その翌日も姿を現さなかった。
✤
兎楽々と別れてから、七日が経った。
教授と二人きりの医局はどことなく気まずかったけど、その教授も数日前からふらっと姿を消した。
教授はああ見えて研究マニアだし、学会シーズンはたびたび医局を空けるから、不在が珍しいわけじゃない。
だけどこれまで、出張する日は必ず事前に予定を教えてくれていたし、代わりにいつも兎楽々が医局に泊まってくれたから、こんな風にひとりぼっちで夜を迎えるのは初めてだった。
月が厚い雲に覆われ、夜露で湿った空気が急激に冷えていく。
誰もいない夜の医局は、空気の一粒一粒までもが僕を拒絶しているように感じられる。
医局を満たす重たい静寂に、まるで世界にたったひとり、取り残されてしまったような気持ちになった。
「兎楽々も、教授も、もう帰ってこないのかな……」
口に出したらそれが本当になってしまう気がして、僕は慌てて首を振る。
心を無にしてさっさと眠ろうと毛布をかぶったけれど、外からホーホーと不気味な鳴き声が聞こえてきて、びくりと肩が跳ねた。
しばらく息を潜めていたけれど、こわばっていた体がようやく緩んできた頃に、今度は何かがバサバサとけたたましく飛び立つ音がして、僕はたまらず声を上げた。
「ね、ねえ! だれか、誰かいないの!?」
「どうした、檻紙の子よ。我らは壊れぬ限りここにいるぞ」
即座にあの姿見が返事をくれて、毛布を握りしめていた指が少しだけほどかれる。
鏡とはあれからも話をしたことはあったけれど、片手で数え切れる程度だ。ましてや兎楽々が入り浸っていたここ最近では、鏡と会話する機会もめっきりなくなっていた。
「よかった……。ねえ、教授がどこに行ったか知ってる?」
「ふむ、我らは何も託けられていないが、ここを出る前に電話を受けていたな」
「電話?」
「訃報のようだった。慌ただしく出ていったゆえ、戻るまで今しばらく掛かるかもしれぬ。……ところで、我らに語りかけるときは『鏡よ鏡』と唱えるよう、前にも申したであろう」
いつもと変わらない鏡の様子に、先ほどまで胸を満たしていた不安と恐怖がゆっくりと溶けていく。用事で出て行っただけなら、教授もいずれ帰ってくるだろう。
少し心が軽くなった僕は、鏡からの要望に「うーん」と眉を寄せた。なんだかそれは、おとぎ話に出てくる悪い女王様みたいで気が進まない。
「それを言ったら、なにかいいことある?」
「我らは喜んで主の問いに答えよう」
「今でも答えてくれてるし……」
「世界で一番美しい者が誰か、教えてやってもよい」
「やっぱり良くない流れだと思うなあ」
人見知りのくせにやたらと人懐っこい鏡は、楽しそうにカタカタと揺れたあと、僕を見た。
「檻紙の子よ。主に心を渡したのは我らだ。ゆえに我らは、主が幸せになるために尽力する義務がある」
「僕の幸せ……」
「今はまだ判らぬだろう。それでもよい。簒奪者が現れようと、我らはもう主から何も奪わせぬ。我らはそう願われ、そう託されたのだから」
鏡の言葉はよくわからなかったけど、下手なことを言って鏡の機嫌を損ねてしまうほうが怖かった。
ひとりぼっちの医局で、やっと見つけた話し相手だ。今この鏡が黙ってしまったら、肌寒い夜を一人で耐え忍ぶ自信がない。
頷くフリをする僕に、鏡は「そう怖がるな」と手を伸ばす。
鏡は鏡の中から出てこられなかったけど、僕らを隔てるガラスの厚みを惜しむように両手をかざした。
なんとなく、僕もその手に重ねるように、鏡と手を合わせる。
人見知りの鏡は、いつも覗き込むとそっぽを向いてしまうけれど、今夜は薄暗いからだろうか。薄灰色をしたきれいな瞳と、はじめて目が合った。
「我らは何があっても主の味方だ。たとえ、主が我らを忘れようとも」
「僕、記憶力はいいから忘れないよ」
「ああ、そうだな……」
鏡は寂しげに笑うと、名残惜しそうに一度俯いてから、僕と合わせていた手を離す。
どうしたんだろうと尋ねる前に、「帰ってきたようだ」と鏡が視線で下を示した。ほどなくして、階下で軋む扉を開く音が響く。
待ち望んでいた物音に、僕ははっとして顔を上げた。
会話に付き合ってくれた鏡にお礼を言うのも忘れて、二階の居住スペースから三段飛ばしで医局の階段を駆け下りる。
慌ただしく玄関への扉を開くと、入り口に佇む教授と兎楽々の姿があった。
「兎楽々! おかえり、こんな時間まで何を……」
意気揚々と開いた口は、だんだんと元気を失って閉ざされる。
兎楽々は一見して、最後に別れたときとそう変わらない姿のように思えた。
頭上にずっとしがみついていたはずの福兎はいなくなっていたし、兎楽々も見慣れない真っ黒のワンピースを着ていたけれど。
「兎楽々……?」
久し振りに見えた友人の姿に、再会の喜びよりも困惑が先に立って、それから恐怖に塗り潰された。
器である「僕」には、兎楽々がもう——、人間ではないことが、わかってしまったから。
耳鳴りがするほど静かな医局で、培養槽のコンプレッサーがヴーンと唸る。
これまでも怪異と対面したことはあったけど、この時ほど「怖い」と思ったことはなかった。
「だ、誰……?」
震える声を絞り出す。
目の前の存在を、脳が兎楽々だと認めなかった。
「誰って、あたしよ。数日会わなかっただけで、友達の顔を忘れるなんて薄情ね」
目の前の少女が、口を開いてそう返す。
口調はいつもの兎楽々みたいだったけど、その声には全く抑揚がない。まるで台本でも読んでいるみたいだった。
「そうそう、今日からあたしもここに住むことになったわ。良かったわね、ずっと医局にいて欲しかったんでしょ?」
口の端を吊り上げて、虚ろな瞳が僕を見る。いつもの屈託のない笑顔とは全く違う、見たことのない歪な笑い方だった。
こんな兎楽々が医局に残ってくれたって、僕はちっとも嬉しくない。
「兎楽々……? 本当に、君なの……?」
「そうだって言ってるでしょう? あたしが他の誰に見えるのよ」
目の前の少女は、兎楽々の姿で、兎楽々の声音でそう言ったけど、僕にはとても信じられなかった。
「兎楽々……、ごめん。本当に君なのか、確かめさせて」
一言謝って、兎楽々と目を合わせる。
僕の権能は、目が合ったものや、触れたものの記憶を無意識に覗いてしまう。
でもこの時の僕は、目の前の少女が本当に兎楽々なのかを確かめたくて、初めて意識的に権能を使った。
暗いミントグリーンの瞳と視線がかち合う。パラパラと早送りするように、細切れの映像が脳内になだれ込んできた。
——運転する父と、助手席の母。
——行き先を尋ねる、弾む声。
——平和でありふれた、一家団欒の光景。
——鳴り響くクラクション。潰れた車両。
——車体から溢れる燃料と血。
——伸ばした手の向こうで、轟々と燃え盛る炎。
「う……わ、ぁ、ああ……、ッ!」
兎楽々の視点で再生される凄惨な記憶に、僕は悲鳴をあげて、その場にへたり込む。
ひどい事故だった。
映像だけでも、その衝撃が伝わるほどに。
兎楽々だけは運良く、近くの茂みに放り出された。
けれどそれを幸運だったとは言えないほどに、流れ込んできた記憶は残酷だった。
……泣き叫ぶ兎楽々の視線の先で、両親はまだ生きていた。
生きていたけれど、助けられなかった。
燃える車体に挟まれて、その下半身は潰れてしまっていたから。
兎楽々たちの車を轢き潰したのは、巨大なタンクローリーだった。
横倒しになった車両には、よく知るガソリンスタンドのロゴマークが描かれている。
20トンを超えるその車両の下から、兎楽々の両親を助け出すことは不可能だと、僕でも理解できてしまった。
兎楽々の両親は、「助けて」とは言わなかった。
熱いとも、痛いとも言わなかった。
『来ないで、兎楽々!』
声にならない声が叫ぶ。愛娘を火の手から遠ざけようと。
それでも駆け寄ろうとする兎楽々を、何人もの腕が押さえつけた。
噛みついても、蹴飛ばしても、大人たちは兎楽々を離さなかった。
たくさんの人たちが二人を助けようとしたけれど、轟々と燃え盛る炎と巨大な車両の重量を前に、なすすべもなく。
兎楽々の目の前で、二人は炭になっていった。
「う、兎楽々……」
記憶を覗き終えて、あまりの出来事に言葉を失う。
何を言っていいかわからなくて、何も気の利いた言葉が思いつかなくて、縋るように名前を呼んだ。
僕も兎楽々にしてもらったように、兎楽々の心に寄り添ってあげたかったのに。今こそ、そうするべきだったのに。
僕にはそのやり方が、まったくわからなかった。
「ねえ聞いて。お金、降ってきたのよ。とーってもたくさん! すごいでしょう? あたし、お金持ちになったのよ。パパとママのお金じゃない、あたしのお金!」
ケタケタ、ケタケタと兎楽々が笑う。
自責と後悔にまみれた、痛ましい笑い声だった。
——兎楽々もきっと、気づいてしまったのだ。
この事故は、己の「願い」が引き起こしたものだと。
『お金、降ってこないかしら』と、あの日の兎楽々は確かに願った。
福兎は願いを叶えたのだ。
お金が欲しいという兎楽々の願いを、両親からの莫大な『遺産』という、最悪の形で。
お金が手に入っても、それを使うべき相手はもういない。
買いたかった時間は永遠に失われてしまった。
両親と過ごす時間こそが、兎楽々の本当の「願い」だったのに——。




