第十夜┊九「理想の姿見」
映写機のようにパタパタとフィルムが飛んで、月日が流れる。
少しだけ背の伸びた兎楽々が、僕の隣でいつものように重箱を開けていた。
「おいしそう。僕、その黒豆が好き」
「そう、伝えておくわ」
兎楽々はすました顔の端に、少しだけ照れた紅潮を滲ませながら、僕の小皿に多めに黒豆を盛ってくれる。
兎楽々の家は、お金持ちらしい。
お手伝いさんが作ってくれるお弁当は、旬の食材がふんだんに使われていて、とても美味しかった。
……兎楽々は相変わらず、この医局に入り浸っている。
綺麗好きな兎楽々のおかげで、医局は一変して小綺麗になっていた。けれどいくら片付けたところで、こんな辺境の実験棟よりも、兎楽々の家のほうがよほど広くて快適だろう。
でも兎楽々に帰って欲しくない僕は、もう「帰らなくて大丈夫?」とは聞かなくなっていた。
「それにしても、結構な量だよね。お家の人は、兎楽々が一人で食べると思ってこのお弁当を持たせてるんだよね?」
「そんなわけないでしょ!? 友達と食べるから多めに作ってって言ってあるわよ!」
「なんだ、そうだったんだ。いつも重箱を持ってくるから、てっきりお家の人には大食いだと思われてるのかと……、あ、待って、レバーは入れないで」
「好き嫌いしてると大きくなれないわよ」
慌てて制止したけれど兎楽々は聞く耳を持たない。結局、しっかり盛り付けられたレバーとニラの炒め物を前にして、僕は途方に暮れた。
医局には面白いものなんて置いてなかったけれど、兎楽々はここで僕らと歓談したり、宿題をしたり、ぼんやりと培養槽を眺めたりしてから、夜遅くに帰っていく。
「誰もいない家に帰るより、ここのほうがいくらかマシだもの」なんて強がっていたけれど。
兎楽々が悪口や弱音を口にすることはない。
それでも、長い時間を共に過ごす中で、ぽつりぽつりとこぼされる兎楽々の本音を、僕は大事に拾って集めていた。
僕は元々「器」だから、普通の人よりも記憶容量が大きい。
なんでもない言葉尻や仕草、ころころと表情の変わる兎楽々の横顔を、僕は事細かに憶えている。
だから、兎楽々が口では仕事熱心なご両親を応援していても、本当は仕事なんか放り出して、早く帰ってきて欲しいと願っていることを、僕は知っていた。
「兎楽々のご両親は葬儀屋さんなんだよね? 葬儀場に行けば会えるんじゃないの?」
「バカなこと言わないで。あたしが行ったら仕事の邪魔になっちゃうでしょ。いいのよ、誇りを持って仕事をしてるパパとママが、あたしは好きなんだから」
兎楽々はいつもそうやって、キラキラした目で僕を見る。
僕はこんな風に、彼女に強がりばかり言わせる兎楽々の両親が嫌いだった。
兎楽々の両親は仕事に明け暮れていて、その分、兎楽々が医局で過ごす時間は増えていった。
それでも、たまに、ほんのたまーにだけ、兎楽々が医局に来ない日もあった。
珍しく休暇の取れたご両親と、家族水入らずの時間を過ごしているのだろう。
そういう日の翌日は、きまって兎楽々はご機嫌で、僕は尚更つまらない気持ちになった。
「ずっとここにいたらいいのに。兎楽々も医局に住めばいいよ」
「なによ、妬いてるの? そんな心配しなくたって、どうせ高等部に上がれば全寮制じゃない。今くらいは家に帰っておかなきゃ」
兎楽々はそう言って笑っていたけれど、兎楽々の両親はますます多忙を極め、彼女が家に帰る頻度はどんどん減っていった。
✤
パラパラ、パタパタと、フィルムが飛ぶ。
兎楽々が家に帰らなくなって、一年半ほどが過ぎていた。
「そうそう。明日は来られないから、晩ご飯は自分で用意してね」
すっかり夜も更けた帰りがけに、兎楽々が僕を振り返る。
その顔には隠しきれない笑みが浮かんでいて、僕は一気に嫌な気分でいっぱいになった。
「ご両親のお休みが取れたの? 随分久し振りだね」
「明日はパパとママの結婚記念日なのよ。去年はお祝いできなかったから、今年こそはって! ママの好きなパティシエのケーキを予約したんだけど、プレゼントは何がいいと思う?」
弾む声で尋ねられて、「ケーキがあるならそれでいいじゃないか」と喉元まで出かけた言葉をなんとか飲み込み、「うーん。君があげるものなら、何でも喜ぶと思うけどな」と無難に返した。
「あら、珍しく優しいじゃない。びっくりしたわ」
「どんな返しを期待してたんだよ……」
「『ケーキがあるならそれでいいじゃないか』とか?」
「……」
狭い心を見透かされたようで、僕は俯いて足元の小石を蹴る。
兎楽々はそんな僕を軽く笑って、「あさってにはまた遊びに来るわよ。アンタって意外と寂しがり屋なのね」と軽く肩を叩いた。
兎楽々の動きに合わせて、頭上のウサギもゆらゆらと揺れる。
「……なんか、前より大きくなってるね。重たくないの?」
「え? なによ、何の話?」
「ああ、ごめん。視えないんだっけ……」
じゃあ重たくもないのかな、と兎楽々にしがみついている福兎を見る。
黒っぽい毛皮の中央で、鮮やかなミントグリーンの瞳が、宝石のようにギラギラと光を映していた。
「外でそういうこと言うの、やめなさいよ。アンタには当然の光景でも、怖がる人だっているんだから」
「ごめん。兎楽々にしか言わない」
「はあ……、まあいいわ。それより、早く高等部にならないかしら。初等部じゃアルバイトもできないもの」
「お金には困ってないのに?」
「困ってないけど……、必要なのよ」
兎楽々が遠い目で夜空を見上げる。
「パパとママにプレゼントだって買いたいし、最近出たコスメだって気になるし……」とごまかすように言葉を続けていたけど、それが本音じゃないことはわかっていた。
「お金が必要なら、教授に言えばどうにかしてくれると思うよ」
僕の言葉に、兎楽々はふるふると首を振る。
「そうじゃない。そういうのじゃないのよ……。あたしが代わりに働けるようになったら、パパとママも少しは休めるでしょ。あたしは大人になったら山ほど稼いで、そのお金でパパとママの時間を買うの。……そのために今は勉強してるのよ」
兎楽々がゆっくりと僕を見る。
正直、驚いた。兎楽々はすごく成績がいいけど、それは単に生真面目な性格からくるものだと思い込んでいた。
だけど兎楽々にはちゃんと人生の目標があって、そのために一歩一歩進んでいるんだ。
毎日一緒に過ごしているのに、何も考えていなかった僕とは大違いで、頭を殴られたような心地がした。
「……君は、すごく色々なことを考えて生きてるんだね」
「そんなんじゃないわ。あたしも、アンタと同じで寂しがり屋なだけよ」
そう言って、兎楽々が僕の手を握る。
記憶容量が多いわけでも、言葉の味がわかるわけでもないのに、兎楽々はこうやって相手の心の機微に気づいては、寄り添ってくれる人だった。
「アンタはまだ、自分の心を持ち始めたばかりでしょ。これからたくさんのものに触れて、たくさんの人に出会って、少しずつ自分を知っていけばいいわ」
何も答えられない僕を、兎楽々と福兎がじっと見つめる。
鮮やかなミントグリーンが、食い入るようにこちらを見ていた。
しばらく兎楽々は僕の手を握ってくれていたけれど、やがてぱっと手を離すと、「あーあ。お金、降ってこないかしらー」とわざとらしく口に出して、気恥ずかしそうにそっぽを向く。
——あの日、卯ノ花兎楽々が確かにそう願ったのを、僕もその耳で聞いていた。




