第十夜┊十六「理想の姿見」
あたしが「彼」と出会ったのは、実験棟に通い始めてから一ヶ月ほど経った頃だった。
その日は、あたしもいろいろと用事があって、実験棟を訪れる頃にはすっかり夜になっていた。
「教授? いないのー?」
扉を開けて、真っ暗な室内に声を掛ける。
実験棟は静まり返っていて、電気もついていない。教授は実験に集中していると電気をつけ忘れることも多々あるけれど、その日は全く人の気配がしなかった。
「用事かしら。珍しいわね……」
手探りでなんとか電灯のスイッチを入れて、二階に上がる。書き置きがないか机の上を確かめたけれど、いつもより更に散らかっているだけで、あたしに宛てられたメモはない。
散らかり具合から見て、作業中に急遽呼び出されたのだろう。教授は作業を中断させられるのが好きじゃない。突然のお呼び出しに、あの整った顔がかすかな苛立ちを見せるのが目に浮かんだ。
「じきに戻ってくるだろうし、コーヒーでも用意しておいてあげようかしら。……あら、フィルターを切らしてるわね」
雑然とした部屋を見渡す。この部屋のどこにコーヒーのフィルターがしまわれているのか、皆目見当がつかない。あたしは仕方なく、片端から戸棚を開けて回ることにした。
居住スペースの戸棚は、ほとんどがカラだった。
たまにファイルや資料が詰め込まれている棚もあったが、ほぼ書類ばかりで食料の類は見つからない。
こんぺいとうの入った缶だけが、あれからずっと机の上に出しっぱなしになっている。
「二階にはなさそうね」
散らかってはいるが、居住スペースの私物はそんなに多くない。戸棚の中も外も書類ばかりだ。
あたしは意を決して、階段を降りた。
一階は古い分娩台や手術台が置いてあって、お化け屋敷そのものだ。
教授といる時は、いつも二階の居住スペースしか使わないから、一階は通り過ぎるだけでほとんどまともに見て回ったことがない。
静まり返った一階は、廃病院らしさが滲み出ていて、思わず身震いした。
エアシャワーを浴びて、そっとクリーンルームに足を踏み入れる。滅菌されたクリーンルームでは、天井まで届く大きな円筒状の培養槽が、いくつも並んでいた。
よくわからない生き物——それが人間に見えることは頭の隅に追いやった——が息づいている培養槽は、あまり見ないようにしながら戸棚を探す。
教授が潔癖症なら、クリーンルームにコーヒーフィルターをしまう事もあるだろう。
「……?」
ふと背中に突き刺さるような視線を感じて、勢いよく振り返る。
キャビネットの上にはいつの間にか、あたしと同じくらいの男の子が腰掛けていた。
「だ、誰!? ここに生徒は入らないはず……っ」
「……」
尖った声音で問い詰めるあたしに反して、男の子はぼんやりとあたしを見ている。見ているというより、彼の正面にあたしが立っているだけのようにも思えた。
試しに一歩左にずれてみると、男の子の視線はあたしを追うようなことはせず、ぼんやりと正面を眺めたままだ。
「お人形……?」
おそるおそる男の子に近づく。実験棟に限れば、男の子が紛れ込むよりも、精巧な人体模型が置いてあるといわれた方が、いくらか現実味がある。
けれど、数歩先で男の子がまばたきしたので、あたしは再び飛び上がった。
「や、やっぱり人間じゃない! アンタ、ここで何してるの!?」
「……」
「ま、迷子? どこのクラス? あたしが正門まで送ってあげるから、そこから降りてきなさいよ」
「……」
あたしの言葉に、男の子は全く反応を返さない。
もしかしたら、耳が聞こえないのだろうか。だとしても、目の前で呼びかけているのがわかれば、少なくともこちらを見るだろう。
「に……、人間、よね……?」
急に、教授から聞いた怪異の話をいくつか思い出してしまって、ぞわりと鳥肌が立つ。
もしかして、彼は怪異なんじゃないだろうか。だって、こんなところに男の子がいるはずがない。
教授は言っていた。ここを医局と呼んで訪れるのは、怪異だけだと——。
「おいで」
今度は背後から女性のような声がして、ビクリと肩がこわばる。
そっと目だけで振り向くと、壁沿いに固定された大きな姿見の中から、誰かが呼んでいた。
「こちらにおいで」
鏡の中にはぼんやりと、女の姿が浮かんでいる。
それはあたしの姿ではないし、鏡の前には誰も立っていない。
明らかな怪奇現象だったけれど、呼ぶ声はどこか切実で、あたしは怖いとは思わなかった。
「来たわよ、どうしたの?」
「おいで。どうかこちらに……」
あたしが近寄っても、姿見の中の女はあたしに見向きもせず、鏡に両手をついて誰かを——キャビネットの上の男の子を呼んでいた。
「こちらにおいで」
「……? あの子を呼んでるの?」
あたしは鏡とキャビネットの上を交互に眺めたあと、仕方なくキャビネットの前へと進んだ。
「ねえ、呼んでるじゃない。どうして無視するの?」
あたしの呼びかけに、その男の子は答えない。
何も考えていなさそうな薄暗い目が、もう一度ゆっくりとまたたいた。
「もう、仕方ないわね。この部屋で動けるのはあたししかいないのかしら」
あたしは意を決して、彼の手を取った。
✤
その後のことは、もう知っているでしょう。
彼——小手鞠カルタは、鏡から心を受け取った。
あたしは、その薄暗い瞳に夕暮れの色が差し込む瞬間を、誰よりも間近で見た。
「ねえ教授、あたしくらいの男の子の人体模型って持ってたりする? まばたきするやつ」
「……精神鑑定を行う。リラックスしてそこに座れ」
翌日訪ねた教授は、あたしの荒唐無稽な質問に一笑すらせず、いつものソファを指さした。
やっぱり彼は、動く人体模型ではなかったようだ。
「連れてきてるんだけど」、とあたしの後ろで縮こまっていた彼を紹介すると、教授は無言でそれを見下ろす。
しばらくしてから、彼がおずおずと教授を見上げると、教授は片手で顔を覆った。
「働きすぎたようだ。三日休む」
「そう、おやすみなさい」
ソファにもたれる教授にブランケットをかけて、あたしは彼の手を引く。
教授が彼の存在を受け入れるまでに、数日が掛かった。




