第42話 臣従の誓い
その朝、俺はかつてないほど落ち着かない気分で、領主館の控えの間に立っていた。
慣れない礼装の襟が、首元を妙にくすぐる。マルコが「家臣となる以上、相応の格好でなければ示しがつきません」と言って、わざわざ仕立屋まで手配してくれたものだ。ありがたい話ではあるのだが、袖を通した瞬間から、自分が自分でないような気がしてならなかった。
「サイラス、さっきから固まりすぎだろ」
隣でゼインが、堪えきれないという顔で笑った。こいつもこいつで、いつもの軽装ではなく、それなりに整えた格好をしている。
「こんな場で緊張しないやつがいるか。貴族の前で、誓いを立てるんだぞ」
「気楽にいけって」
ゼインは軽く肩をすくめた。
テオはと言えば、控えの間に飾られた調度を眺めながら、値踏みするように目を細めていた。
「鑑定するなよ、こんなところで」
「つい癖でな。……あの燭台一つで、荷馬車が一台増やせそうだ」
俺が儀式に臨む間、ゼインとテオはこの控えの間で待つことになっている。まったく、こいつらの図太さが少し羨ましい。俺がため息をついたところで、扉の向こうから案内の声がかかった。
「サイラス殿。お時間です」
いよいよか。俺は一つ深く息を吸い、襟を正して、扉をくぐった。
***
通されたのは、領主館の奥にある一室だった。
正面にはグレアム伯爵が腰を下ろし、その傍らにアルフレッド様が控えている。壁際には、家中の者が数名、証人として静かに立っていた。
そして、そのなかに、コレイン様の姿もあった。
救出したばかりの頃は、まだ顔色も悪く、本調子とは言えなかった。だが今日のコレイン様は、背筋をまっすぐに伸ばし、すっかり凛とした女騎士の顔に戻っていた。その視線が一瞬こちらに向き、小さく頷く。
……よかった。俺は内心でほっと胸を撫で下ろした。
「サイラス。前へ」
グレアム伯爵の落ち着いた声に、俺は伯爵の前まで進み、片膝をついた。作法は昨夜のうちにマルコから叩き込まれている。頭の中で何度も繰り返したはずなのに、心臓は勝手に早鐘を打っていた。
「サイラスよ。汝を、ペトロス家の家臣として迎える」
伯爵の声が、静かな部屋に響いた。
「汝は、ペトロス家とその領、そしてここに暮らす民を守るため、その力を尽くすか」
俺はただ、平穏に商売をしていたいだけの男だ。それでも、守りたい仲間も、帰る場所も、いつの間にか増えていた。ならもう、腹をくくるしかない。
「お誓い申し上げます」
自分でも驚くほど、声は震えなかった。
「グレアム・ペトロス伯爵に、そしてペトロス家に。俺の持てる力を、お役に立てるようお尽くしいたします」
言い終えた瞬間、部屋の空気がわずかに緩んだ気がした。
「うむ」
グレアム伯爵は、満足げに頷いた。
「これより、サイラスはペトロス家の家臣である」
その一言で、儀式は終わった。
誓いの言葉は、たったそれだけだ。派手な催しがあるわけでもない、静かな儀式だった。それでも、これで俺は、確かにペトロス家の家臣になったのだ。
――まさか、こんなことになるとは。
半年前の俺に話したところで、信じはしないだろう。荷馬車一台で、細々と商売をしていた行商人が、貴族の前で臣従の誓いを立てているなどと。
俺が立ち上がると、アルフレッド様が一歩進み出て、一枚の証書を差し出した。
「サイラス殿。これが、白鹿の蹄鉄商会を御用商会として認める証書だ」
受け取った紙は、見た目以上にずしりと重く感じられた。
「……ありがとうございます」
俺は、証書に記された文字を、しばし黙って見つめた。
たった一枚の紙だ。だが、この紙があるだけで、商会への不当な横槍は防ぎやすくなる。拠点の者たちも、孤児たちも、これまでより安心して商いに励めるようになるだろう。
「ただし」
アルフレッド様は、声を少しだけ低めた。
「この証書は、ペトロス家がサイラス殿を信頼に足る相手と認めた証でもある。御用商会の名に恥じぬよう、これまで以上に振る舞っていただく」
「肝に銘じます」
頭を下げながら、俺は手の中の紙の重みを、改めて噛みしめていた。立場が変わるというのは、こういうことなのだろう。
一通りの手続きが終わり、退室しようとしたところで、コレイン様がこちらへ歩み寄ってきた。
「サイラス殿」
コレイン様に呼ばれて、俺は背筋を正した。
「あなたが家臣となることを引き受けてくれて、嬉しく思います」
その声には、儀式の間の張り詰めた響きとは違う、穏やかなものが混じっていた。
「正直に言えば、あなたほどの方が、すんなり頷いてくれるとは思っていませんでした」
「買いかぶりです。俺は、商会と仲間を守りたかっただけですよ」
俺がそう答えると、コレイン様はふっと小さく笑った。
「そうやって欲のないことを言うところが、あなたらしい」
その表情に、凛とした女騎士の顔が、ほんの少しだけ和らぐ。……まずい。本当に、この人の前ではどうも調子が狂う。
「これからは、家中の一人として頼りにしています。どうか、力を貸してください」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
そう言って頭を垂れると、コレイン様は穏やかにうなずいた。張り詰めていた一日だったが、最後にこの人と話せたことで、少しだけ心が和らいだ気がした。
***
すべての用件が終わり、領主館を辞する頃には、日はすっかり傾いていた。
「お疲れさん、ご家臣様」
門を出たところで、ゼインがからかうように肩を叩いてきた。
「やめろ、その呼び方は」
「いいじゃねえか。立派になったもんだ」
ゼインはなおも楽しげだ。テオも、めずらしく口元を緩めている。
「商会としては、願ってもない話だ。これで拠点の連中も、胸を張って商いができる」
二人の言う通りだ。悪い話ではない。むしろ、商会にとっては大きな前進だろう。
それでも、俺の胸の内には、いつものあの感覚が居座っていた。
守るものが、また増えた。いや、正確には――増えたのは、責任だ。
「……増えるのは、稼ぎだけにしてほしいんだがな」
俺がぼやくと、ゼインが声をあげて笑った。その笑い声を聞きながら、俺は夕暮れの街を、拠点へと歩き出した。




