第4話 スリの少女の追跡
ゼオニカの入り組んだ路地裏を、小柄な人影が猿のような身軽さで駆け抜けていく。
「チィッ、なんだあのすばしっこさは! ちょこまかと!」
先を走るゼインが本気で追いかけているにもかかわらず、少女との距離は一向に縮まらない。
それどころか、人混みや障害物を巧みに利用され、少しずつ引き離されそうになっているのが遠目にもわかった。
「ハァ、ハァ……待ってくれ、ゼイン! どっちに行ったんだ!?」
身体能力が上がる加護を持たない俺は、完全にゼインの後ろに取り残され、ゼオニカの貧民街特有の複雑な迷路のような路地裏で、あっさりと迷子になってしまった。
周囲には崩れかけの木箱やガラクタが散乱しており、水はけが悪いのか地面はひどくぬかるんでいる。
「くそっ、完全に撒かれたな。ゼインともはぐれちまった」
俺は息を切らし、膝に手をついてうめいた。
(とりあえずテオの待つ大通りに戻ろう。)
そう思って引き返そうとした、その時だった。
「はぁ、はぁ……なんとか、振り切れたかな……」
少し先の路地の交差点、積み上げられた木箱の上に、スリの少女がひょっこりと姿を現した。
こうして近くで見ると、俺たちより少し下――十五、六歳くらいの、まだあどけなさの残る少女だった。彼女はどうやらゼインを完全に撒いたと確信し、少し油断したように安堵の息を吐きながら、屋根の上に逃れようと跳躍の体勢に入った。
あいつ、あんなところに!
「おい、待て!」
俺が咄嗟に足を踏み出した瞬間だった。
ツルッ!
「うわっ!?」
ただでさえ歩きにくいぬかるみに足を取られ、俺は派手に滑った。
転ぶまいと、俺は咄嗟に路地にあった古い二輪荷車の取っ手をガシリと掴んだ。
だが、俺の体重が乗ったことで、荷車はテコの原理で手前が沈み込み、後部がガコンッと跳ね上がった。
どうやらその荷車は、頭上に張られた巨大な日除け布のロープを固定するための、重石代わりに使われていたらしい。跳ね上がった後部から、引っ掛けられていたロープの輪がスポッと抜け落ちた。
張力を失った巨大な布がバサァッと垂れ下がってくる。
そこへ、路地裏を吹き抜ける一陣の突風が吹いた。
「え?」
跳躍しようとしていた少女の頭上に、風に煽られた布が見事に覆い被さる。
「きゃあっ!?」
布は空中にいた少女をすっぽりと絡め取り、少女はそのまま「あいたっ!」と情けない声を上げてゴミの山へと転がり落ちた。完全に簀巻き状態で身動きが取れなくなっている。
静まり返る路地裏。
「チィッ、完全に撒かれたか……って、サイラス!?」
ちょうどそこへ、別の路地から息を切らしたゼインが駆けつけてきた。彼は簀巻きになった少女と、荷車の取っ手を掴んで中腰で必死に踏ん張っている俺を見て、ポカンと口を開けた。
「……お前、どうやってあいつを捕まえたんだ?」
ゼインは信じられないものを見るような、それでいてどこか感心しきった様子で息を吐いた。
(いや、ただつまずいただけなんだけどな!)
【幸運の加護】が、俺の意志とは無関係に奇跡を引き起こしてしまったらしい。
俺は体勢を立て直しつつ言い訳しようと口を開きかけたが、簀巻きの布の中から這い出してきた少女の声に遮られた。
「うそ、でしょ……!? 完全に逃げ切ったはずなのに、なんで……!」
少女は信じられないものを見るように、自分を絡め取る布と、目の前で荷車の取っ手を掴んでいる俺を交互に見比べた。
そして、何かに気づいたようにハッと息を呑む。
「この布……あなたが落としたの!? まさか、私の動きを完全に読んで、あらかじめ罠を……!?あなたたち、いったい何者なの!?」
(どうやらこの子、ものすごい勘違いをしていないか?)
「俺はただのしがない行商人だ」
「サイラス、能書きはいいから早く財布を取り返せ。また逃げられるぞ」
ゼインに急かされ、俺は偶然だという言い訳を飲み込み、服の乱れを整えながら少女から自分の革財布を取り返した。中身の銀貨が無事なことを確認してホッと息をつく。
「……っ」
財布を取り返された少女は、逃げるのを諦めたように地面にへたり込んだ。その小さな体は、恐怖で小刻みに震えている。
「ごめんなさい……。衛兵にだけは突き出さないで……!」
この国では、窃盗は重罪だ。衛兵に突き出されれば、腕を切り落とされるか、奴隷として鉱山に送られるのが関の山だろう。
少女は下唇を強く噛み、必死に涙を堪えながら俺たちを縋るように見上げていた。
「……なんでスリなんてしたんだ。それだけ素早いなら、他にも真っ当な仕事はあっただろうに」
俺が少しトーンを落として尋ねると、少女はしゃくりあげながら語り始めた。
「最近、盗賊団に村を荒らされて……。命は助かったけど、冬を越すための食料もお金も全部奪われちゃったの……!」
昨日、ゼオコリス村の村長が言っていた奴らのことだろう。
「それで、口減らしのために村の何人かと一緒にゼオニカへ出稼ぎに来たんだけど……まともに食べていけるだけの仕事なんて見つからなくて……。一緒についてきた小さな子たちがお腹を空かせて泣くから、それで……!」
俺はゼインと顔を見合わせた。
盗賊に故郷を奪われ、路頭に迷う悲哀。それは、数年前の俺たちと全く同じ境遇だった。俺たちはたまたま加護持ちが三人揃っていて、運良く行商人のおやっさんに拾われたから生き延びられたが、一歩間違えれば俺たちも裏路地で泥水をすすっていたかもしれない。
「……お前、自分のためじゃなく、村の連中のためにこんな危ない真似をしたのか」
ゼインが、ほんの少しだけ声のトーンを和らげて少女を見下ろした。
俺は短くため息をつき、肩から提げていた荷袋を探ると、道中のために少し多めに買っておいた硬いパンと干し肉をいくつか取り出し、少女の前に無造作に放った。
「……事情はわかった。だが、スリはもう二度とやるな。次に捕まったら、今度こそ衛兵に突き出されるぞ。」
俺はあえて、低くドスの利いた声で凄んでみせた。
「真っ当な仕事を探せ。どうしても仕事が見つからないなら、明日の朝、大通りの広場に来い。荷下ろしや雑用でよければ、お前や村の奴らを人足として雇ってやる」
少女は信じられないものを見るように、足元の食料と俺の顔を交互に見た。窃盗を働いた自分を衛兵に突き出さないばかりか、食料と仕事までくれるというのだ。
「あ、ありがとうございます……! ありがとうございます……っ!」
少女はパンと干し肉を胸に抱きしめ、何度も何度も頭を下げた。
「私、ミアって言います! 凄腕で頭がキレる上に、こんなに優しいなんて……! 明日の朝、村の仲間も連れて必ず行きますっ!」
ミアと名乗った少女は、キラキラと尊敬の入り混じった目を俺たちに向けた後、弾かれたように路地裏の奥へと駆けていった。
「……また厄介な面倒事を背負い込んだな、サイラス。大方、手伝いにかこつけて、あいつらに腹一杯飯でも食わせてやるつもりだろう?」
「うるさい。俺はただ、昔の自分たちと重なって少し胸糞が悪かっただけだ。それに……お前だってこいつを見逃す気だっただろ?」
「ふん。自分のことしか考えてない悪党ならともかく、身内のために必死な奴を斬る趣味はねえよ」
ゼインはそう言って、ミアが消えた路地の奥を少しだけ眩しそうに見つめた。
俺は照れ隠しに頭を掻きながら、ふと嫌な予感に襲われて足を止めた。
(そういえば、あいつ『村の仲間も連れて行く』って言ってたよな。具体的に何人いるのか聞かなかったけど……)
まあ、働き手の若者や子供を含めても数人程度だろう。俺たちの稼ぎなら、数日雇うくらいならどうにでもなる。
俺は一抹の不安を覚えつつ、テオが待つ大通りへと引き返した。
まあいい。あの様子なら、明日の朝には広場へやって来るだろう。少しばかり食い扶持は増えるが、力仕事を手伝わせる分には悪くない取引だ。
――もちろん、俺のその甘い予想もあっさりと裏切られ、とんでもない事態に巻き込まれることになるのだが。
ミアが捕まった後のセリフを少し修正しました。5/21




