第31話 雨の中の帰路
家畜市の騒ぎは、どうにか大事にならずに済んだ。
雄牛は飼い主達の手で落ち着かされ、壊れかけていた柵も応急で直されている。
少なくとも、牛が外へ飛び出すような事態にはならなかった。
その中で、俺だけが家畜の糞をかぶったまま立っていた。
正直、かなりつらい。
「すまん。うちの牛が迷惑をかけた」
雄牛の飼い主らしい男が、深々と頭を下げた。
「いや……怪我はしていないので」
怪我はしていない。
だが、無事かと言われると、かなり微妙だ。
男は俺の外套を見て、申し訳なさそうに顔をしかめる。
「裏に水場がある。桶も貸す。そこで洗ってくれ」
「……助かります」
俺はできるだけ平静を装って頷いた。
ゼインは何とも言えない顔で口元を引き結び、トビーは真面目な顔で目を逸らしていた。
ミアは明らかに気を遣って少し離れている。
誰にも悪気はないのだろう。
だが、それはそれで心に刺さった。
案内された水場で、俺は外套と髪を洗った。
冷たい水を桶で何度もかぶり、泥と糞を落としていく。
その間に、飼い主の男が騒ぎの経緯を話してくれた。
「あの牛は、雨と人混みで最初から落ち着いていなかったんだ。そこへ鹿の群れが近くを横切った」
「鹿で、あそこまで騒ぐんですか」
「若い牛や、慣れてない馬はそんなもんだ。一頭が騒ぐと、周りにも移る」
俺は桶の水を頭からかぶりながら、家畜市の方を見た。
まだ何人かが柵を直している。
「あれだけの鹿が家畜市の近くを横切るのは、あまり見ないな。森の奥で何かあったのかもしれん。まあ、ただの偶然かもしれんが」
「何かに追われていたんでしょうか」
「さあな。原因が何であれ、牛が暴れれば柵は傷む。家畜市じゃ、そっちの方が問題だ」
男はそう言って、補修中の柵へ目を向けた。
確かに、家畜市で柵が壊れれば、それだけで大事になる。
ロテアで釘や留め具がよく売れる理由が、少し分かった気がした。
そんな話をしているうちに、最低限の汚れは落ちた。
だが、気分まできれいになったかと言われると、まったくそんなことはない。
「……これで、だいぶましになったはずだ」
「はい。さっきよりは、かなりましです」
トビーが真面目な顔で言った。
「そこは、もう少し言い方を考えてくれ」
「すみません」
謝られると、余計に何も言えなかった。
ともかく、家畜市の騒ぎは収まった。
俺達も、ロテアでの行商に戻ることにした。
***
滞在中は、春先らしい不安定な天気が続いた。
小雨なら商売もできたが、激しい雨の日は露店を畳むしかない。
仕入れに回るにも荷を濡らさないよう気を使い、そのせいで予定より長くロテアに留まることになった。
それでも、売り上げ自体は悪くなかった。
家畜市の騒ぎもあり、釘や留め具、蝶番はよく売れた。
馬具や牛具に使う環金具も、よく手に取られていた。
ジャルミナで仕入れた品は、ロテアの需要にうまく合っていたらしい。
「売れ行きはかなりいいな」
テオが帳面を見ながら言った。
「ロテアに来た判断は間違っていなかったか」
「ああ。農具も金具も、この街の需要に合っている」
保存肉、革製品、革紐、革袋、毛織物。
雨の合間を見ながら、ゼオニカで売れそうな品を荷に加えていった。
宿の軒下で空を見上げていると、テオが帳面を閉じた。
「商品はほぼ売り切れた。仕入れも済んでいる。これ以上ロテアに留まる理由は薄いな」
「空も少し落ち着いてきたか」
「ああ。春先の天気は読みにくい。待つより、今のうちに動いた方がいい」
「そうだな。少しでも雨がましなうちに出るか……」
そう決めると、皆の動きは早かった。
幌をかけ直し、車輪と馬具を確かめる。
濡れて困る革製品や毛織物は、荷の内側へ移した。
ロテアの門を出る頃には、雨は小降りになっていた。
ただし、止む気配はない。
荷馬車三台は、ゼオニカへ向けてゆっくりと進み始めた。
帰り道は、農村や小さな町をたどりながら南へ進んだ。
雨は降ったりやんだりで、道にはぬかるみが残っている。
途中の村では空き地や納屋の一角を借り、荷馬車を置いて馬を休ませながら進むことになった。
***
そうして数日かけて戻るうちに、森を切り開いた街道の手前まで来た。
その頃には空はまた重くなり、細かい雨が幌を叩いていた。
森の木々は濡れて黒く見え、葉から落ちる雫のせいで、昼間だというのに道の奥は薄暗い。
俺は念のため、荷馬車を止めた。
「ラルフ、進んで大丈夫そうか?」
ラルフはしばらく森の方へ意識を向けてから、頷いた。
「はい。少なくとも、近くにこちらを待っている気配はありません」
「分かった」
行きにも通った道で、森の区間も長くはない。
ここで止まる理由はなかった。
「進もう」
トビーが手綱を握り直し、荷馬車がゆっくりと動き出す。
幌を叩く雨音が、木々の下へ入ると少しだけ鈍くなった。
濡れた森の匂いが、風に混じる。
ラルフの加護には、何も引っかからなかった。
俺達は少しだけ肩の力を抜き、そのまま森の道へと入っていった。
雨音だけが、森の中に淡々と響いていた。




