第30話 家畜市の騒動
門の向こうから牛の鳴き声が響き、並んでいた人々が一斉に顔を上げた。
道中で聞いた、のんびりした鳴き声とは少し違う。
短く、荒く、落ち着かない声だった。
「……随分、騒がしいな」
俺が呟くと、御者台のトビーが門の向こうを見た。
「普通に鳴いているだけではなさそうです。何かあったのかもしれません」
門番も顔をしかめ、街の奥へ視線を向けた。
「家畜市の方だな」
「家畜市ですか?」
「ああ。街の北側で開いている。春先は家畜の出入りが多いからな」
列に並んでいた男が、慣れた様子で肩をすくめた。
「若い牛が騒いだんだろう。あそこじゃ珍しいことじゃない」
家畜市での騒ぎなら、すぐに危険が及ぶわけではなさそうだ。
ただ、牛や馬が落ち着かないとなると、荷馬車の通行には少し響くかもしれない。
やがて俺達の番になり、門番が荷を確認した。
白鹿の蹄鉄商会としての登録証を見せると、問題なく通行を許可される。
「入ったら、荷馬車は通りの端に寄せてくれ。家畜市へ向かう道は空けておきたい」
「やはり、さっきの騒ぎですか?」
「ああ。大ごとではないと思うが、家畜市の方へ人が流れると道が詰まる。荷馬車が立ち止まると、余計に面倒になるからな」
「分かりました」
「宿と荷馬車置き場は、中の詰め所で聞ける。家畜市の方へ行くなら、荷馬車は置いてからにした方がいい」
門番の言い方は慣れていた。
この時期のロテアでは、家畜市の小さな騒ぎは珍しくないのだろう。
俺達は荷馬車を進めながら、もう一度街の奥を見た。
牛の鳴き声は、まだかすかに続いていた。
***
ロテアの街に入ると、畜産の街らしさはそこかしこに見えた。
通りには馬具や牛具、革製品、飼葉を扱う店が並び、荷車には干し草の束や飼葉袋が積まれている。
風に混じるのは、ゼオニカの潮でも、ジャルミナの炭と鉄でもない。
干し草と革、それに獣脂の匂いだ。
俺達はまず、宿と荷馬車置き場を確保した。
その後、荷を一部だけ降ろし、小さな売り場を借りる。
並べたのは、ジャルミナで仕入れた農具や金具だ。
特に、釘や留め具、蝶番、馬具や牛具の金具はよく手に取られた。
「これと、これもくれ」
年配の男が、釘と留め具をまとめて選んだ。
「柵の補修ですか?」
「ああ。北門外の家畜市で使う。今朝から少し騒がしくてな」
「何かあったんですか?」
「さあな。春先は毎年こんなものだ。若い牛は、ちょっとした物音や匂いですぐ騒ぐ。人も家畜も増えるし、雨で地面も悪い。柵が緩んでいると、あっという間に押し倒されるんだ」
男はそう言って、少し顔をしかめた。
「家畜相手の商売は、柵が命だからな。壊れてからでは遅い」
「なるほど」
ロテアらしい困りごとだと思った。
牛が騒ぐ。
柵が傷む。
だから金具が売れる。
商売としては悪くない。
だが、そう単純に喜べる話でもなかった。
その時だった。
北門の方から、ひときわ大きな牛の鳴き声が響いた。
続いて、人の怒鳴り声。
さらに、豚の鳴き声まで重なる。
客の男が、嫌そうに眉を寄せた。
「……またか」
「また、ということは」
「家畜市だろうな。今日は妙に落ち着かん」
男は買った金具を抱え、足早に北門の方へ向かった。
俺達も売り場をテオとハンスに任せ、様子を見に行くことにした。
騒ぎが続けば、客足にも影響しそうだった。
北門を抜けると、外の牧草地には柵で区切られた家畜市が広がっていた。
雨で地面はぬかるみ、牛や馬、豚を連れた人々が慌ただしく行き交っている。
「……かなり騒がしいな」
大きな雄牛が、荒い鼻息を吐きながら地面を蹴っている。
鼻綱を握った男達は横から向きを逸らそうとしているが、雄牛はそれに逆らうように柵へ寄っていた。
「あれ、まずいです」
「分かるのか?」
「はい。綱で誘導できる状態ではなさそうです」
柵の外にいる者達も、それ以上は手を出せずにいる。
俺達も邪魔にならないよう距離を取ったが、雄牛が柵へ寄るたびに、周囲の空気が張り詰めていった。
足元は、雨でぬかるんでいる。
「下がった方がいいです」
トビーが小さく言った。
「正面にいると危ない」
「分かった」
俺が一歩下がろうとした、その時だった。
雄牛が頭を振り、鼻綱を嫌がるように後ろ足で地面を蹴った。
その拍子に、ぬかるんだ地面から何かが跳ね上がる。
「うわっ――」
避ける間もなく、頭から外套までべちゃりとかぶる。
泥だと思った。
だが、鼻を突く臭いで、すぐに違うと分かった。
……これは、間違いなく家畜の糞だ。
周囲が、一瞬だけ静まり返った。
鼻綱を握っていた男達も、柵の近くにいた者達も、そろって俺を見ていた。
……見るな。
怒鳴り声も、慌ただしい動きも止まった。
そのせいか、雄牛の動きもほんのわずかに鈍る。
「今だ。引くな、横へ流せ」
牛の飼い主らしい男が低く言った。
男達ははっとしたように、力任せに綱を引くのをやめた。
飼い主が正面を避け、横へ回りながら低い声でなだめる。
それに合わせて、周りの者達も少しずつ綱の向きを変えていった。
やがて、雄牛の足踏みは少しずつ弱まっていく。
「……落ち着いてきました。周りが静かになったのがよかったんだと思います」
トビーが、俺から少し目を逸らしながら言った。
「そのきっかけが、これか」
俺は外套から垂れるものを見下ろした。
……運がついたのは間違いない。
だが、これを幸運と言い張るには、かなり無理があった。




