第2話-2 潜入作戦、待ち伏せ作戦
翌日。体育祭準備期間中で短縮になっている授業を終えると、晴人は委員室へと足を向けた。
放課後寄り道せずに委員会の教室へと急ぐのはいつものことだ。しかし今日はいつもの仕事の前に一つ、やることがあった。
委員室に入り、委員会の幹部が来るのを待つ。数分して、委員長の横山先輩がやってきた。
「先輩、身体はもう大丈夫なんですか?」
「昨日は迷惑かけた。大丈夫、体調はもうばっちりだ」
眞玄の見立てでは二日程度で回復するということだったが、その半分で十分だったらしい。いつも通りの溌剌とした声からは、強がりなどは欠片も感じなかった。
「ちょっと相談がありまして」
「おう、何だ?」
「このところ、うちは慢性的に人手不足じゃないですか。それを友達に話したら、手伝わせてほしいと言ってくれまして」
「ほう」
「助っ人として、委員会の仕事を手伝って貰うのってアリですかね?」
言いながら、慎重に先輩の出方を観察する。一応、委員会は体育祭準備の権限を一手に与えられているわけで、仮に助っ人扱いでも、部外者がその仕事を負担することには一抹の不安がある。
「……黒菱」
「はい」
やはり難しいか、と思いかけたそのとき。
「よくやった!」
予想外の言葉に、晴人は一瞬フリーズした。
「大歓迎だ! よくそんな人を見つけてきてくれた。是非とも、我が委員会の仕事を手伝って貰いたい!」
「いいんですか!?」
「当然だろう。体育祭準備委員会はいつでも助っ人を募集してるぞ!」
余りにもあっけらかんとした反応に、晴人はしばし話す言葉を見失った。先程までの緊張がもったいなく思えてくる。
「それで、その助っ人は誰なんだ?」
「ちょうど来たみたいなので紹介しますよ」
扉の向こうに気配を感じる。入ってきてくれと呼びかけると、案の定晴人の呼んだ人物が入室してきた。
「舘石眞玄です。事の次第はご紹介に預かった通りですが、私からも改めて、宜しくお願いします」
一瞬、別人かと思った。
いつもの古風で強気な口調はどこへやら、眞玄は懇切丁寧な口ぶりをしている。
硬直する晴人とは対照的に、先輩はすぐに反応した。
「あなたか! いやあ礼儀正しくて恐れ入る。助っ人の件、大歓迎だ。こちらこそよろしくお願いする」
相変わらず威勢の良い先輩の声に、眞玄はほのかに微笑したように見えた。
信じられない。あの眞玄に、こんな社交的な顔があるなんて。いつもなら皮肉の二つや三つ飛ばしているところだ。
眞玄の様子に驚く晴人を置きざりに、眞玄の仕事はとんとん拍子に決まり、10分後には晴人と眞玄は備品庫へと二人して足を進めることとなった。
何回行ったか分からない倉庫へ、何度見たかもわからない塗装用のペンキを取りに行く。一般生徒は備品庫には入れないので、教室で旗を作っている生徒に頼まれるたびに委員の誰かが取って来なければいけないのだ。無駄手間というほかないが、かといって好きに取って行っていいようにすると、紛失した時に困る。
しかしそんな普段の悩みは、今の晴人の頭の中からはほとんど追い出されていた。
「何だ、人の顔をじろじろ見て。私の顔がそんなに変か?」
「いや、眞玄、普通の喋り方もできたんだな、と」
正確にはかしこまり過ぎていて普通とは言い難いが、良家の令嬢か何かを彷彿とさせる丁寧な所作も相まって、かしこまった口調はほとんど違和感を伴っていなかった。
「当然だ。仮にも頼み事をする相手に、多少なりとも畏まらずに振る舞えるものか。というか君は、私が四六時中この口調だと思っていたのか?」
晴人の心を見透かしたように眞玄が答える。晴人とて眞玄に別の顔があることは考えないではなかったが、普通に過ごしている様子が想像できなさ過ぎて、考えるのをやめていたのだ。それに晴人がおどろいているのは口調だけではなかった。その口ぶりに取ってつけたような雰囲気を与えない、研ぎ澄まされた所作にも驚嘆していた。素人目に見ても一朝一夕で身につくものではないと分かるし、到底晴人が真似できるものではなかった。
「私とて一般社会で生きる一人だ。使い勝手の良い顔の一つくらい持っている」
まだ眞玄の顔について気になることはあったが、眞玄が「それより」と半ば強引に話題を変える。
「魔霊の話だ。あれから少し詳しく調べたが、過去に同じ魔霊が出た形跡はなかった。つまり、ノロウイルスの三人は正真正銘の病欠だ」
「手がかりがひとつ消えたな」
「悪い報告ばかりではない。微弱な魔霊の気配を探知することに成功した。予想通り、委員会メンバーにまとわりついている」
「気配って探知できるものなのか」
てっきり、魔霊が出るまでは気配など分からないと思っていた。だからこそ、眞玄は魔霊が出た途端飛んでくるのだ。
「正確には邪気の流れだ。邪気というのは魔霊が出なくとも、薄っすらと存在するものなのだよ。邪気のない所に魔霊は出ないし、邪気の流れ方で大まかな発生傾向がわかる。今回はそれが露骨なお陰で、魔霊の攻撃対象がわかる」
「それじゃあ、邪気があるところでずっと警戒していれば、魔霊の先をとれるんじゃないのか?」
「名案だな。しかし名案すぎて、すでに実行中だ。希薄な邪気はこの町全体を取り巻いている。だからこそ、私がここにいるのだよ」
眞玄がよくできましたとばかりに応える。確かに、その程度のこと、やらない方が不自然だ。
「魔霊は土地の影響を強く受ける。それは実質、土着の邪気の影響に等しい。火山活動のように、邪気が噴き出しやすい場所、時期があるんだ。私のような人間は、火山地帯を渡り歩く旅人のようなものだな」
その言葉に、ふと『眞玄のような人間は他にもいるのか』という問いが浮かんだ。しかしそれを口に出す前に、二人は目的の備品庫に到着した。
晴人が足を踏み入れると、眞玄も一歩遅れてついてくる。委員長に言われた通りの品の棚の前まで行き、一番下の段から使いかけのペンキを取った。
「向かって左側が塗装類、右側が布類。基本的に上の方の棚はストック品だから、使いかけのは下から探すと早い」
「説明してくれるのはありがたいが、私は委員会の人手不足を解決するために助っ人を名乗り出たのではないぞ」
眞玄は晴人の言葉にはあまり関心を示さず、倉庫の棚を順々に見ていく。棚の裏から、数年は動かしていないと思われる古い段ボール箱の裏まで。時たま箱の蓋を開けて中身を確認するが、目ぼしいものは見つからなかったのかすぐに興味を失っていた。
「何を探してるんだ?」
「漠然と手がかりを探しているだけだ。いじめの痕跡のようなものが最も分かりやすいが、まあそう簡単にはいかんな」
一通り倉庫の中に目を通して、眞玄は晴人の側へと戻ってくる。と、晴人の足元の箱に視線を投げた。
「その箱は何か大事なものでも入っているのか?」
晴人の側に置かれている中くらいの箱には、他の箱には見ない赤いガムテープがベタベタと貼られていた。遠目に観ても、何かしらの注意を要するものに見える。
「いや……よく知らないな。別に開けてまずいものじゃないはずだから、開けてみるか」
しゃがみ込んで蓋を開け、少し慎重に中を覗いてみる。しかし、中に入っていたのはただの紙の束だった。
「これは……昔の体育祭の競技ルールか」
薄緑色やクリーム色の再生紙で出来た冊子には、綱引きやリレーの細かいルールが書いてあった。ざっと見ただけでも過去3年分のものがあり、箱の奥にはまだまだ小冊子が見える。
「気になる?」
不意に背後から声がして、晴人はビクッと振り返った。
倉庫の入り口を入ってすぐのところに、髪の長い男子生徒が立っていた。面識はないが多分委員の一人だろう。
「ごめん、驚かせた。その箱、一つだけテープが貼ってあるでしょ」
「すいません、開けちゃいました」
「いいのいいの。別に危険なものでも何でもないし。中身は見ての通りの過去の体育祭のルールブック。多分十年分くらいあるんじゃないかな」
男子生徒は砕けた感じで、特に晴人を咎めたりする気はないようだ。眞玄が委員でないことには気づいていないらしいが、別にわざわざ説明することでもないので黙っていた。
「それで赤テープの理由なんだけど、混同防止なんだ。今年のとの。昔は余ったのをそのまま段ボールに詰めて、翌年参考のために引っ張り出してたんだけど、去年間違って前年度のをいくつか配っちゃったんだ。それで、気を付けるようにってことで赤テープ」
「知りませんでした」
「多分今年から委員に入ったでしょ。今年は周知してなかったと思うし、知らなくて普通だよ。あ、でも取り違え騒ぎはちょっと大きな騒ぎになったな」
「それは、どのような騒ぎだったのですか?」
ここまで喋らなかった眞玄が口を開く。男子生徒は特段驚かずにそのまま続けた。
「どのような……まあクラス間での揉め事かな。一年前とはルールが少し変わってたからね。いくつかのクラスに間違ったルールブックを渡しちゃって、体育祭の当日に発覚。結局その競技は順位を付けないことにしたけど、みんな一生懸命に練習してたからちょっといざこざがあってね。あれは委員会、ちょっと恨み買ったかもなぁ」
思わず、眞玄と顔を見合わせた。委員会が恨みを買うような出来事。まさにぴったりのものがあったではないか。
「ま、そういうわけだから見たら箱の中に戻しておいてね。僕はそろそろ教室の方に戻るから」
そう言うと、男子生徒は横にある棚からプラスチックコンテナを取り、倉庫を出て行った。足音が遠くなって、やがて消える。
「眞玄」
「ああ。まさに求めていた事実だ。どのクラスで問題が起きて、あわよくば誰が恨みを買ったかまで分かれば、事態の解決が一気に近づくぞ」
体育祭委員という体育祭以外で出番のない委員会が、恨みを買う機会というのはそう多くはない。昨年の出来事というのが晴人達の期待通りであれば、魔霊発生の根本的原因はこれでほぼ決まりだった。
去年の体育祭の競技種目に熱を上げていた生徒がわかれば、魔霊化している生徒も一気に絞り込める。まずは、先輩たちに当時のことを聞かねばならない。
しかし。晴人達にもたらされた詳細は、少なからず晴人を落胆させるものだった。
「去年のあれでしょ。問題になったのは三年のクラスだったと思うわよ」
「別に他の学年には大した影響なかったと思うな。黒菱も知らなかっただろ」
「取り違えたのは当時の委員長だよ。順位を付けない決定も委員長の決定。影響受けたクラスへの説明とか謝罪とかも委員長だったから、まあもし恨まれたとしたらあの人じゃない?」
ペンキを抱えて戻ってきた晴人達が聞いたのは、概ねその予想を裏切る言葉だった。問題の当事者たちは、すでに卒業していたのだ。
とりあえず目につく先輩四五人に聞いて回って、自分たちの予測がほとんど外れていたことを認識してから、晴人と眞玄は二人で段ボール箱を運んでいた。
「見事に当てが外れたな」
「まったくだよ。これで振り出しに戻ったわけだから、早く別の原因を探さないと」
「同感だが、この際だ、去年の事件の中心になっている前委員長のことをもう少し調べたい。別の原因といっても、現時点でまるで見当がつかないからな。去年の事件が、意外な形で今回の魔霊に繋がる可能性もある」
確かに、ただでさえ出番の少ない体育祭委員、そう簡単に他の原因が見つかるとは思えない。去年の出来事の当事者が軒並み卒業生であるとしても、何らかの形で被害を被った下級生が存在する可能性は十分にある。
気付くと眞玄は晴人の隣から消え、早速目についた上級生に声を掛けに行っていた。慌てて晴人も追いかける。
「委員長のことなら、秋田がよく知ってるよ。彼、委員長と一番仲が良かったし、委員長も秋田を自分の後継として強く推してたからね。諸々の都合で委員長は横山になったけど、あの人のお陰で秋田は今年も委員会にいるって話だよ」
秋田先輩の名前が、ここで出てくるのは少し意外だった。面倒見のいい先輩の過去というのをあまり考えなかったかもしれないが、自分の知らない秋田先輩がいることがなんだか不思議だった。
「秋田先輩というのは、君の知り合いか?」
「一番世話を焼いてもらってる先輩だよ。大体委員室でパソコンを使ってる眼鏡の先輩」
仕事場所は分かっていたのですぐにでも聞きに行きたかったが、晴人と眞玄が任された仕事は決して少なくなかった。委員長は眞玄の真意を知らないのだから当然だ。全ての仕事が終わって一息つけたのは、今日の活動の終わる17時だった。
昨日と同じように委員長が皆を集めてねぎらい、今日は軽く眞玄の紹介が行われる。一部生徒を残して皆が下校する中で、晴人と眞玄はそれとなく秋田先輩に近づいた。
「秋田先輩」
「黒菱か。どうした?」
相変わらず壁を作らない気さくな反応。フランクなわけではないのに、小さなことでも気兼ねなく話せる気がする。秋田先輩は、いつも通り頼れる人だった。
「去年の委員長ってどんな人だったんですか?」
「なんだ藪から棒に」
特に迷惑そうな様子はない。しかし晴人もさすがに唐突過ぎたと思い、慌ててそれらしい理由を頭の中で組み立てる。
「あー、僕、今年から入ったので去年のこと知らなくて。今年は横山先輩だけど、その前もああいうタイプの委員長だったのか気になったんです」
「そうか。確かに黒菱は今年からだったな。去年の委員長は確かに横山と同じ運動部だったけど、横山とはまた違うタイプだったな」
秋田先輩は遠い目をしながら、一年前のことを語り出した。
「委員長は、運動部の部長でもあってね。文武両道を絵に描いたような人だった。大体の仕事の指揮をとってたよ。それでいてミスも少なかった。人望も厚くて、僕なんかはしょっちゅうお世話になったな。困った時は相談できるっていうより、困ってなくても相談ができる人だった。頼りにしてたよ」
そう言う横山先輩の目は、一年前のことがはるか昔のことだと思わせるような色だった。特別思い入れのある人だったのだろう。
「横山は細かい仕事が苦手な代わりに、体力オバケだからな。あいつが疲れてるところは見たことがないよ」
「体育祭実行委員の委員長って紹介された時、すごくしっくりきました」
横山先輩の体格は教師と見分けがつかない程で、加えて元気溌剌であるために、廊下ですれ違うだけでも印象に残るのだ。
そうこう話しているうちに、三人は下駄箱に差し掛かる。三年生の下駄箱は少し離れたところにあるため、いつも先輩達とはここで別れる。
「またな黒菱、舘石さんも、何か困ったら言ってくれ」
「あ、最後に一つ。変な話ですけど、体育祭委員を、例えば恨んでいるような人っていると思いますか?」
先輩にとってその質問は予想外だったようで、一瞬だけ止まってから口を開いた。
「さあ……でも、人の考えはそれぞれだから、どこかにはいるんじゃないか?」
そう言うと、秋田先輩は去って行った。晴人も眞玄も特に引き留めずに、自分たちの下駄箱で靴を履き替え帰路についた。
しばらく無言で歩き、最初の交差点に差し掛かったところで、ようやく晴人が先に口を開いた。
「手掛かりなし……か」
「もっと直接的に聞けばよかったじゃないか」
「そのつもりだったけど、あんなに前委員長をべた褒めされたら切り出しにくいよ」
「まあ、気持ちは分かるが」
聞いている限り、去年のことでわだかまりが残ってそうだという感触はなかった。もっとも現実的な可能性としては、委員長への私怨が体育祭委員への恨みへと転化したというものだが、この分だと委員長が原因で恨みを買っているというのは考えにくい。逆恨みの線も無くはないが、それを委員長の側から辿っていくのは困難を極めるだろう。
「少なくとも、前委員長から辿っていく線は難しそうだな。どうしよう、他の原因を探ろうか?」
「いや、原因の方から探っていっては時間がかかりすぎるだろう。ここは、結果の方から探る」
「結果?」
晴人が訊くと、眞玄は説明を始めた。
簡単に眞玄の説明をまとめるとこうだ。
今回の魔霊は、実行委員への襲撃を手段として見ている可能性がある。その場合本命は体育祭そのものであり、つまり体育祭を妨害するために、委員を傷つけているわけだ。
仮にそうであれば、体育祭を妨害できるなら、当然委員以外も攻撃されうる。そしてその標的は、必ずしも人間に限定されないというのだ。
つまり、体育祭を盛り上げるのに必要不可欠な備品である、優勝トロフィーを狙う可能性がある。そこで予めトロフィーの保管場所の近くに罠を張っておき、現れた魔霊を一網打尽にする。これが眞玄の提案した作戦だった。
「でも、トロフィーが壊れたからって、現実的に体育祭は中止されないんじゃないか?」
「それを言うなら、実行委員が全員倒れたとしても、体育祭が中止にまで追い込まれるわけではない。魔霊は本人の負の感情の発露・具現化だ。その行動は理性ではなく感情に基づく。だからこそ、象徴的な物品であるトロフィーに目が向く可能性が高い」
眞玄の計画では、魔霊の意識をトロフィーに向けるために、札を使って魔霊が委員に近づきにくいようにすることになっていた。ただ委員全員に札を貼るのは現実的に考えて難しいので、トロフィーのある倉庫以外の委員が集まる場所に札を貼るらしい。同時にトロフィーには魔霊を引き寄せる札を貼っておき、魔霊がトロフィーに注意を向けるように仕向ける。
もしも魔霊がトロフィーには目もくれず再度委員を襲ったのであれば、魔霊避けの札で魔霊の動きが鈍いうちに眞玄が対処する。予想通りトロフィーに食いついても、同じく眞玄が処理する。そしてその対処方法とは、眞玄のペンダントを使って魔霊化を解除し、同時に魔霊化している人物を突き止めてその悩みの根源を可能な限り排除する、というものだった。
ただ、そう簡単に悩みの種を消し去れるわけはなく、その時にどんな手段が用意されているかは晴人の知るところではなかった。
「魔霊は人を襲うものだが、理性を踏み越えて現出する性質上、大勢がいる場では出現しにくい。従って、最も魔霊が出やすい時間は、生徒がまばらになる17時過ぎから18時過ぎの1時間だ」
「その時間、僕らは学校の側で待機してるわけだ」
「別に私一人でも事は足りる。体育祭前で疲れているところにあまり無理をすると、体を壊すぞ」
「いや、僕も眞玄と魔霊を待つ。体は丈夫な方だからさ」
こうして、晴人と眞玄の張り込み作戦が始まった。
それから数日間、晴人と眞玄は毎日学校裏で張り込んだ。
土日であっても体育祭の準備はあるので、二人は学校に登校し、仕事が終わると学校裏の住宅地のベンチで魔霊を待ち構えた。しかし、魔霊は現れない。
すぐに魔霊が出現することを期待していたわけではないが、張り込み始めてから実に1週間の間、魔霊の音沙汰はまるで皆無だった。
そして、遂に体育祭まであと四日となった九日目。その日も二人は委員の仕事を終えて、もはや見慣れたベンチへと歩いていた。
恐らくは地域住民への広告のために設置されたであろうそのベンチは、住宅地の中心からはやや外れたところにある。バス停でもないのに置いてあるベンチは年代物で、すでに角のあたりが錆びてなくなっていた。もとは理髪店か何かの広告のためのベンチだったようだが、あまりにも塗装が剥げていて書いてある文字は一文字も読めない。見てくれは赤錆の斑に侵された汚い古びたベンチであり、はっきり言って晴人も用が無ければ座りたくはなかった。しかし、他に腰を休められるところもないため、毎度遠慮がちに浅く座っている。しかし幸い太い道からは見えない位置にあるため、二人が通行人に怪しまれることはなかった。
貼り込みを行う1時間、晴人がめくっているのは英単語帳である。眞玄の方は魔霊を見逃さないために定期的に標に目をやり、それ以外は教科書をパラパラとめくっていた。教科書は日によって変わり、今日は世界史を手にしている。
いわゆる魔霊用のレーダーである標は、手のひらサイズの木製の円盤で、蝶番が付いていてカスタネットのようにパカッと開く。しかしカスタネットよりは大きくて薄いので、どちらかというと化粧コンパクトに近く見えた。
中身はいたってシンプルで、少し毛羽立った和紙が張り付けられているだけだった。眞玄曰く、その色味と模様で魔霊の位置が分かるらしい。しかし晴人がそれを見ても、ただの白くて毛羽立った和紙にしか見えなかった。
「眞玄。その標、魔霊が誰なのかまで分かったりしないのか? 邪気の特性が分かるんだろ?」
単語帳に飽きて晴人が話しかけると、眞玄は開いていた標から顔を上げた。
「難しいな。邪気の特性とっても、それは魔霊が凶悪かどうか、強い敵意を持っているか、と言った魔霊の特徴を示すに過ぎない。その特性から元凶人物の目星をつけることはできるが、それらしい人物が見つからない今は、魔霊を直接抑える以外の近道はないな」
「今回は魔霊の敵意が強めだもんな……そう言えば、魔霊の元になっている本人の悩みが解決できなかった場合、どうするんだ? そう毎回都合よく本人を説得できるとは限らないだろ?」
委員を狙っている魔霊の悩みの種はまだ分からないが、敵意が強いということは、多分ある程度深刻なものだろう。その悩みが解決できなかった時のことを、眞玄が考えていないとは思えなかった。
「そう言えば、話していなかったな……」
そう言うと、眞玄は片手に持っていた教科書を閉じ、ふう、と息をついた。
「魔霊というのは通常、本人の説得をもって対処するものではない。君の指摘通り、説得によって苦悩を解消するのは簡単ではないからな。ほとんどの場合、魔霊は物理的手段によって駆除される」
「物理的……?」
晴人が不思議がると、眞玄は手で自分の首を切るジェスチャーをした。
「直接攻撃するんだ。具体的には斬首、首を切ることになる。魔霊化が進行するにつれて、魔霊は具現化していくからな。具現化した魔霊は本人との同化を始める。そうやって実体化した魔霊であれば、魔霊であろうと物理攻撃が通用するというわけだ。ただ、単純に刃物で首を切ってしまえば本人も死んでしまうから、専用の特別な武器を使う。その特殊な刃で切ることで、人体の首は傷付けずに魔霊の首を切れる」
「じゃあ、仮に説得できなくても本人は助かるのか」
晴人は口ではそう言ったが、内心そうではないと直感していた。そんな単純な方法があるのなら、眞玄はそちらの対処を前提として動くと思ったからだ。何か、その武器には副作用があるはずだと晴人は予感していた。
「助かる……ある意味についてはそうだ。だが無傷ではない。結論から言えば、悩みに関わる全ての記憶を失う」
晴人は息を呑んだ。
「魔霊は本人の苦悩の具現、悩みと葛藤がそのまま実体化したものだ。いわば思考に等しい魔霊を切ってしまえば、それ相応の反動があるのだよ。魔霊の殺害は苦悩の抹消と同義さ」
それは人によっては良いことなのだろう。悩みからの解放は、本人の救済であるはずだ。
だが、例え苦悩であっても、それは人の心の一部で、それを他者が切り捨てる道理を晴人は見つけられなかった。
「現実からの逃避であれ、現実への向き合い過ぎであれ、悩むというのは自身の行動と在り方と行動を決める重要な行為だ。魔霊が無ければ本人によって消化されるべき、な。魔霊を斬るというのは喜んでとれる対処法じゃない」
「僕らはそれをしなくていいよう、本人が苦悩を乗り越えられるようにするわけだな」
「そういうことだ。だが忘れるな。前提として魔霊というのは物理的な加害者、ひいては殺人者だ。緊急の場合、容赦や配慮をしている余裕はない。優先順位は見誤るなよ」
「あ、ああ。わかってる」
少なくとも、わかっているつもりだった。しかし、晴人は体質的に魔霊の被害を受けにくいし、晴人以外にも被害に遭った人で人命を脅かされた人はいない。だから魔霊が人の命を奪うことは、事実、頭での理解の範疇だった。
「それで、今日も反応ないか?」
晴人は話題を変えるように、さっきの話の途中から標に目を落としている眞玄に尋ねた。
「……」
「眞玄?」
返答がなかったため再び問いかける。そして眞玄の目がいつになく真剣なのに気づくのと、眞玄が勢いよく立ち上がるのは同時だった。
「魔霊だ、ついて来い!」
「言われなくとも!」
眞玄が体を沈め、直後、弾かれたように走り出した。その速度は常人を凌駕する。
半分跳ぶように駆ける眞玄に、晴人も同じく常人とは思えない速度で追従する。その俊足をもたらしているのは、二人の足に貼られた札である。
眞玄が単に「札」と呼ぶそれは、例えば足の速さなどの身体能力を飛躍的に向上させる。眞玄が魔霊に対処する時に使う使い捨ての道具で、この一週間は晴人も脚に貼ってベンチで待機していた。
一足で数メートルの距離を移動し、多少の柵や塀はそのまま飛び越える。校門を入ったところで感じた邪気は、倉庫に近づく間に急激に強くなった。
二人して校舎に突入した時点で、眞玄は一旦停止し倉庫とは逆方向へと転進する。魔霊はすでに倉庫を離れたのだ。
しかし、邪気が流れてくる以上、魔霊がいるのはその上流だ。
そして眞玄に追従した晴人がその源を目にするのに、そう時間はかからなかった。
校舎を出て中庭を突っ切った先、人気のない昇降口に侵入しようとする黒い影もとい魔霊を、二人はしっかりと眼前に捉えた。
眞玄が加速し一気に間を詰める。対照的に晴人は減速して、眞玄との距離を開かせる。それは晴人が、魔霊に大して具体的な対処をできないからだ。
キラリと光を反射して、眞玄の手から飛び出す細い鎖。その先に取り付けられた菱形のペンダントが、紫の閃光を発した。
晴人はその光を見たことがある。晴人が初めて魔霊を見たときに、眞玄が魔霊に浴びせた光。魔霊化を解除させる光。
目の前を逃げるように走る魔霊が、その黒い衣を閃光で引き剥がされる。黒い焔で隠れていた学生服が顔を出し、その人物は力を失って倒れ込む。
光が完全に収まった時、昇降口には晴人と、気を失った生徒を抱きかかえる眞玄がいた。
残滓のように残っていた邪気が消え、晴人の五感が正常に戻っていく。耳の穴から水が抜けるように、五感にかかっていた不快なフィルターが崩れて消え去る。
しかし、身体が平常時と同じほどに回復しても、なお晴人の身体は硬直したままだった。
目の前で気絶している生徒が、晴人の視覚を奪っていた。
「……眞玄。魔霊っていうのは前提として殺人者だって言ったな」
「ああ。言った」
「それは、魔霊化してる本人が、人を殺せるほどに追い詰められているってことなのか?」
「……」
眞玄は答えない。ただ返答に窮するように、顔を俯かせるだけだ。
眞玄の腕の中で、気絶して眠る生徒。それは紛れもなく、晴人のよく知る先輩、体育祭実行委員の秋田先輩だった。




