第五十二話 見触
1.依頼者の呼称
本作に登場する九条斎のビジネスは、
その性質上、外部には決して明かされない複数の“進行ステージ”を持つ。
クライアントは取引の進度に応じて、
九条とミナトの内部で、以下のように呼び分けられている。
サービスの具体的な内容は作中で徐々に明らかになる。
ここでは名称と、その段階が示す“抽象的な意味”のみ記す。
〈λ段階:ラムダ〉— 仲介直後の潜在顧客
仲介組織を通じて紹介された直後の段階。
動機は不明瞭で、価値も未定義。
ラムダ段階の者は、まず“ここに来た理由”そのものが精査の対象となる。
ミナトはこの段階のクライアントを特に厳しく見極める。
〈α段階:アルファ〉— 選別を通過した有資格者
九条のビジネスにおいて“一定の価値を持つ”と判断された段階。
依頼者の動機が純度を保ち、意図が明確であることが条件とされる。
アルファに至ったクライアントのみが、次の段階へ進むことを許される。
〈β段階:ベータ〉— 初期実行工程へ移行した者
具体的な作業に入り始める段階。
ベータへの移行は容易ではなく、アルファの中からさらに選別される。
この段階では、クライアント側にも一定の“覚悟”が求められる。
〈γ段階:ガンマ〉— 最終調整・仕上げに入った者
取引の核心に触れつつある段階。
ガンマに至るクライアントは極めて少なく、
慎重な監視と調整が行われる。
実行プロセスはほぼ最終局面にあるとされる。
〈Ω段階:オメガ〉— 特異案件(九条専権)
九条斎のみが扱う特別な分類。
一般のクライアントとは異なり、
ビジネス上の価値という枠を超えた“特別な意味”を持つ。
その詳細はミナトにも共有されず、
オメガに至った案件が何を意味するのかは作中で徐々に明かされる。
◆【補記】
この階層体系はあくまで九条斎の内的な分類であり、
外部には一切公開されない。
段階は技術的な進度だけでなく、
クライアントの動機・覚悟・倫理的負荷・
そして“取引を成立させるに値するか否か”を示している。
この分類は、
物語の根底に流れる「価値とは何か」「存在とは何か」
というテーマとも密接に結びついている。
2.仲介組織について
《ミトコンドリア》──
それは、九条のビジネスを外側で支える仲介組織である。
ただし、一般に想像される“組織”とは異なる。
上下関係も、拠点も、名簿も存在しない。
構成員同士は匿名化された端点どうしで結ばれ、
必要な時だけ一時的に接続される。
その姿は、階層を持たないアメーバ状のネットワーク。
部分を切り離されても全体は崩れず、
事故が起きれば“その部分だけ”を即座に切断し、痕跡を残さない。
情報はチェーン化された経路を通って流れ、
誰がどこにいるのかさえ、構成員同士ですら知ることがない。
あるのは“つながり”だけ。
誰もが断片であり、全体であり、そして代替可能である。
ミトコンドリアの役割はただ一つ。
九条のもとへ、条件を満たした候補者──ラムダを運ぶこと。
それがどれほど危険で、どれほどの代償を伴うかは、
候補者自身が最終的に知ることになる。
フリーランチャー地下三階の一室。
井出耕造は簡易ベッドの上に座り、大きな欠伸をしながら両腕を上に伸ばしている。
さっきまでの不可逆が、まるで昼寝の延長だったかのように。
メイコは白いボックスとヘッドホンを抱え、何も言わずに部屋を出ていく。
リサはフレックス・シートに視線を落とし、無音で指を滑らせている。
NT-Main: Completed
Transition: L&F Phase
井出耕造は、何か言いたげな顔で、リサの指の動きを見つめる。
言葉を探している。
自分に何が起きたのかを、誰かに確認したいのだ。
口がわずかに開いた、その瞬間。
ドアが開く。
「部屋を移動します。次は、Look&Feel工程です」
メイコの声は平坦だった。
井出耕造は一瞬、肩をすくめ、わざとらしく咳き込む。
「……ああ、はい」
立ち上がる。
リサはフレックス・シートを丸め、静かに脇に抱える。
地下三階の廊下は、温度も匂いも均一だった。
時計も窓もない。
時間という概念が削ぎ落とされている。
足音だけが規則正しく響く。
メイコが先頭を歩く。
井出耕造がその後ろ。
リサは一歩遅れてついていく。
別室。
ドアが開く。
壁一面が白。
床も、天井も、白。
部屋の中央に、村上が立っていた。
右手には、リモコンのような小型の長方形ユニット。
後ろで結った金髪。切れ長の目。
《I Love What No One Loves》と胸元にピンクでプリントされた黒いTシャツ。
レザージャケット。ヴィンテージのジーンズ。
場違いなほど、軽い。
「では、これから井出耕造様のデュプリカントのLook&Feelを生成していきます」
村上は右手のユニットを前に翳した。
「このガジェットが弊社のバイオAI本体です。
先程の神経同調キーに記録された井出様のニューロン構造は、この内部チップに同期済み。
が、井出様の記憶は転写しておりません。
容姿イメージデータもビルドインされています。
勿論、思考、学習、日本語と英語による会話は問題ございません。他言語は有料オプションです」
一拍。
「このバイオAIは汎用プラットフォーム。
デュプリカントは、その一アプリケーションに過ぎません。
井出様が先ほどお聴きになった曲を作った”Your Pieces”もアプリケーションの一つです。
バイオAIの名称は――Article9」
その名を聞いた瞬間、リサの背筋に、理由の分からない寒気が走った。
「じゃあ…Your Piecesは、作曲家の脳を転写したってことか…?」
井出耕造がボソリと呟いた。
村上は、フッと笑顔を見せると、Article9の小型スクリーンをタップした。
光が霧のように空間へ滲み出す。
粒子が集まり、輪郭を編み上げる。
オフィーリアが立っていた。
村上の方を向いて。
メイコ、リサ、井出耕造からは、後ろ姿しか見えない。
村上が体の向きを反転する。
その瞬間、像が一度消え、
次の瞬間、再構成される。
今度は村上に正対する姿で。
リサと井出耕造の、息を呑む音が重なる。
「す、凄い……あの絵のまんまだ。美しい……」
井出耕造の声が震える。
リサは、フレックス・シートを丸めたままだ。
フレックス・シートを握る指先に、力が入っていることに気づく。
「まず始めに、ホログラム・デュプリカントの物理構成をご説明します」
村上は三人に後姿を見せたまま、淡々と続ける。
「演算はローカル。
空間を三次元で常時スキャンし、粒子投影で立体を構成。
外部接続はありません。
破壊すれば、消えます」
リサは横目で井出耕造を見る。
肩が、小刻みに震えている。
呼吸が、浅い。
村上は歩き出す。
オフィーリアは、常にユニットを持つ村上を追い、
常に彼に向き合う位置へ再配置される。
「ホログラムはユニットを基準点とします。
つまり、常に所有者と向き合う。」
「井出様、よろしいでしょうか?」
井出耕造は応答しない。
メイコが正面に回り込む。
「井出様、よろしいでしょうか?」
「あ……はい。全く、まっ……たく問題ないです。外見も、仕草も、振る舞いも!」
我に返ったように、メイコを見る。
「承知致しました。では……声のデザインに移りましょう」
村上はホログラムを消し、デスクのモニター前に座る。
空間が一気に静まる。
「井出様からは声のモデルデータを頂いておりませんでしたので、
こちらで複数のサンプルをご用意致しました」
室内に、わずかな緊張が戻る。
オフィーリアはまだ、声を持っていない。




