第八話:Proof of Concept
「……俺の『実験』に付き合え」
悪魔の囁き。
だが、白石雪音の耳には、それが神の福音のようにも聞こえた。
目の前に立つ、柏木修と名乗る少年。その凍てついた瞳は、同情も、憐憫も、一切の色を映してはいない。ただ、獲物を鑑定するような、冷たい光だけを宿している。
普通なら、関わるべきではない人間だ。本能がそう警告していた。
しかし、今の彼女には、差し伸べられたその手が、蜘蛛の糸に見えた。
「……でたらめ、言わないでください」
雪音は、絞り出すような声で言った。敬語を使う余裕もなかった先ほどとは違い、そこには微かな抵抗の意志が宿っていた。
「私のスキルは……Sランクだけど、欠陥品なんです。協会の、どんなすごい人にも、治せなかった……。あなたなんかに、何ができるっていうんですか……!」
「他の奴らには無理だろうな」
修は、あっさりと頷いた。
「連中は、世界の『利用者』でしかない。だが、俺は違う」
修は、雪音の返事を待たず、近くの公園を指差した。
「口で言っても信じないだろう。ついてこい。概念実証(Proof of Concept)を見せてやる」
雪音は、何かに憑かれたように、少年の後をふらふらとついていった。
公園の奥、人の寄り付かない寂れた一角。そこには、座面が割れ、脚が錆びついた、見るも無惨なベンチがうち捨てられていた。
修は、そのベンチの前に立つと、雪音に言った。
「よく見ていろ」
修が、割れたベンチにそっと手を触れる。
次の瞬間、雪音には見えないが、修の視界にはそのベンチのソースコードが展開されていた。
[オブジェクト名: 壊れたベンチ]
[状態: 破損, 劣化(大)]
[構成素材: 木材(腐食率70%), 鉄(腐食率90%)]
[※バグ情報: Code-808 "Broken"]
「――デバッグ、開始」
呟きと共に、修はベンチのコードを書き換え始めた。
腐食率をゼロに。破損状態を正常に。失われたパーツのデータを、周囲の物質情報から再構成し、補完する。
それは、もはや修復というよりも、「再創造」に近い作業だった。
Update successful.
システムの音声が、処理の完了を告げる。
すると、雪音の目の前で、信じられない光景が繰り広げられた。
ギギギ、と軋むような音と共に、錆びついていた脚が、まるで時間を逆行するように、新品同様の黒い輝きを取り戻していく。割れてささくれていた座面は、木材の繊維が再結合していくかのように、滑らかな一枚板へと姿を変えた。
ほんの数十秒。
目の前にあったはずのボロボロのベンチは、完全に消え失せ、まるで今日設置されたばかりのような、完璧な状態のベンチがそこにあった。
「な……に、を……したんですか……?」
「言ったはずだ。俺は『利用者』じゃない、と」
修は、こともなげに言う。
「これが、俺のスキルだ。お前の言う『常識』の外側にいる」
雪音は、震える指で、そのベンチにそっと触れた。
ひんやりとした鉄の感触。滑らかな木の温もり。それは、幻覚などでは断じてなかった。
世界の法則が、目の前で捻じ曲げられた。
この少年は、本物だ。
「……それでも、信じられません。これは、物だから……。スキルは、人の魂みたいなものだから……」
「まだ疑うか。なら、最終テストだ」
修は雪音に向き直ると、その憔悴しきった顔をじっと見つめた。
「お前、ここ数日、まともに寝ていないし、食事も摂っていないだろう。身体の内部が、エラーだらけだ」
「え……」
「動くな。お前の身体の、ごく一部のパラメータを書き換える。害はない。すぐに終わる」
修は、雪音の身体のソースコードにアクセスする。
Sランクスキルそのものに触れるのは、まだリスクが高い。だが、消耗しきった彼女の身体の状態を、正常値に戻すことくらいは可能だった。
[コマンド実行: Execute_Script("Condition_Optimize", Cost_MP=15)]
MPを代償に、雪音の体内に巣食っていた疲労物質を分解し、乱れていた自律神経のバランスを強制的に正常化するスクリプトを実行する。
瞬間、雪音の身体を、ふわりとした、言いようのない温かい感覚が包み込んだ。
数週間、鉛のように重かった身体が、羽のように軽くなる。
こびりついていた頭の靄が、晴れ渡っていく。
世界が、鮮やかな色彩を取り戻していくような感覚。
「あ……」
自然と、涙が頬を伝った。
それは、悲しみや悔しさの涙ではなかった。
ただ、身体が「楽になった」という、それだけの理由で流れた、純粋な安堵の涙だった。
「……これが、俺の力の一端だ」
修は、感情の読めない目で、涙を流す雪音を見下ろしている。
「お前のSランクスキル『聖域守護』。その根幹にあるバグ――『攻撃力パラメータの欠如』。それも、今の現象と同じだ。俺にとっては、修正可能な、ただのエラーコードに過ぎない」
雪音は、もう、彼の言葉を疑うことができなかった。
目の前で起きた二つの奇跡が、彼の言葉の何よりの証明だった。
「……どうして、私なんですか?」
「言ったはずだ。これは実験だと。お前は最高の素材だ。それ以上でも、それ以下でもない」
修の言葉に、温かみは一切ない。
「勘違いするな。俺は、お前を助けたいわけじゃない。お前の仲間になりたいわけでもない。これは、あくまで取引だ。俺は、お前のスキルを修正し、最強の『兵器』に作り変える。その代わり、お前は、俺の指示に従い、俺の実験に協力しろ」
あまりにも一方的な契約。
だが、雪音は、静かに涙を拭うと、真っ直ぐに修の目を見つめ返した。
その瞳には、先ほどまでの虚無の色ではなく、確かな意志の光が宿っていた。
「……わかりました。あなたの『実験』、付き合います」
「賢明な判断だ」
「でも、一つだけ、聞かせてください。あなたは、私を……私を強くして、どうするんですか?」
その問いに、修は一瞬だけ、遠い目をした。
その瞳の奥に、凍てついた憎悪と、決して消えることのない復讐の炎が揺らめいたのを、雪音は見逃さなかった。
「……俺を裏切った奴らと、この理不尽な世界そのものに、後悔させてやるのさ」
修はそう言うと、雪音に背を向けた。
「契約成立だ。だが、今のままのお前では、話にならん。今日のところは、まず自分の内部バグを修正しろ。しっかり食べて、しっかり寝ろ。ハードウェアのスペックが最低値のままでは、どんなOSも正常に動かん」
「……はい」
「明日の午後一時、F級ダンジョン『ゴブリンの洞穴』の前に来い。そこが、お前の最初のデバッグルームだ。遅れるなよ」
それだけを言い残し、修は去っていく。
振り返ることはしない。ここで情を見せるのは、非効率的なノイズでしかない。
だが、彼の脳裏には、先ほど涙を流した少女の顔ではなく、初めてこの世界に来た日に見かけた、俯きながらもまだ光を失っていなかった制服姿の少女の顔が、なぜか浮かんでいた。
一人残された公園で、雪音は、軽くなった自分の身体と、まだ温かい涙の跡を確かめるように、そっと頬に触れた。
彼は、悪魔か、それとも――。
わからない。
だが、もう一度だけ、信じてみようと思った。
自分の可能性を。
そして、あの凍てついた瞳の奥で、自分と同じ「理不尽」にたった一人で戦おうとしている、孤独な炎を。
絶望の淵から、少女が再び立ち上がる。
その隣には、まだ、誰もいない。
だが、確かな「契約」が、二つの孤独な魂を、見えない糸で繋ぎ始めていた。




