第六話:Code Refactoring
アーク・セイバーの失態は、修の予想以上の波紋を広げていた。
最強ギルドの権威は失墜し、Nullの情報によって利益を得た他のギルドが勢いを増す。日本の冒険者業界のパワーバランスは、修というたった一人の存在によって、大きく揺らぎ始めていた。
「……少し、やりすぎたか」
自室のモニターで、日に日に過激になっていく「Null」関連のニュースを眺めながら、修は冷静に現状を分析する。
アーク・セイバーは今、半狂乱になってNullの捜索を行っている。これ以上あからさまな攻撃を続ければ、万が一にも足が付くリスクが高まる。それに、今の自分の力では、本気になった彼らを相手に、まだ逃げ切れる保証はない。
(焦りは禁物だ。復讐のプログラムは、もっと静かに、そして確実に実行しなければ意味がない)
修はアーク・セイバーへの直接的な干渉を一時的に休止すると決めた。
彼らが幻影に怯え、リソースを浪費している間に、自分は自分自身の「コード」をリファクタリング――つまり、根本から見直し、最適化する必要があったからだ。
その準備として、修はまずNullとしての活動の裏で淡々と複数のD級ダンジョンをクリアし、着実にレベルと資金を稼いでいた。
そして、さらなる飛躍のため、彼はギルドのトレーニング施設へと向かう。
今の彼は、レベルこそ上がったものの、その肉体はまだ十八歳の一般人の延長線上に過ぎない。前世で四十年の歳月をかけて鍛え上げた、あの歴戦の肉体には遠く及ばなかった。
『プログラマー』という絶対的なアドバンテージも、それを使いこなす本体のスペックが低ければ、宝の持ち腐れだ。
修は、稼いだ資金を使い、冒険者ギルドが運営する個人用のトレーニング施設を数日間貸し切った。
そこは、最新鋭の訓練用マシンと、実際のモンスターとの戦闘をシミュレートできるVR装置まで備えた、完璧な環境だった。
「さて、始めるとするか」
薄暗いトレーニングルームの中央に立ち、修は自分自身の身体のソースコードを展開する。
[オブジェクト名: 柏木 修]
[状態: 正常]
[パラメータ]
> 筋繊維強度: 45/100
> 神経伝達速度: 52/100
> 乳酸値: 5%
> 成長限界閾値: 20%
「……まだまだだな」
彼は、自分自身をハックするための、専用のスクリプトを構築し始めた。
それは、身体の安全装置を意図的に外し、筋肉の成長効率を極限まで高めるという、危険な自己改造プログラムだった。
[コマンド実行: Execute_Script("Hyper_Training_Mode")]
Warning: 当該スクリプトは、術者の肉体に深刻な負荷を与えます。実行中の怪我や後遺症について、システムは一切の責任を負いません。実行しますか? Y/N
「望むところだ」
修が「Y」を選択した瞬間、心臓が大きく跳ね、全身の血が沸騰するような熱さが駆け巡った。
視界の端に、自身のパラメータがリアルタイムで表示される。
[筋繊維損傷率: 5%] [乳酸値: 12%]
修は、目の前のトレーニング用のサンドバッグに、渾身の拳を叩き込んだ。
通常なら、一発で腕の骨が折れてもおかしくないほどの無茶な一撃。だが、スクリプトによって最適化された身体は、衝撃を完璧に吸収し、その負荷を全て、筋肉の成長エネルギーへと変換していく。
[筋繊維損傷率: 15% > 筋力パラメータに+0.1の経験値ボーナス]
彼は殴り、蹴り、走り、跳んだ。
疲労が限界に達し、意識が朦朧とすると、今度は別のスクリプトを実行する。
[コマンド実行: Execute_Script("Emergency_Recovery", Cost_MP=10)]
MPを代償に、体内の疲労物質を強制的に分解・排出し、細胞の修復を加速させる。
常人なら数日かかる回復を、わずか数分で終え、彼は再びトレーニングに戻る。
破壊と再生。
それは、もはやトレーニングというよりも、人体実験に近い、狂気の自己鍛錬だった。
四十年の人生で蓄積した知識と、神のスキル。その二つを組み合わせることで、彼は、ありえない速度で成長を遂げていった。
◆
修が、俗世との関わりを断って自己のアップデートに没頭している間も、世界は動き続けていた。
「おい、聞いたか? 最近ギルドで噂の『幸運なルーキー』の話」
「ああ、知ってるぜ。D級ダンジョンをソロで、しかも無傷でクリアしまくってるっていう、あの新人だろ?」
「そうそう。しかも、とんでもないレアアイテムを時々持ち帰るらしくてな。『彷徨える宝物庫』から『鑑定』のオーブを出したのも、あいつらしいぜ」
「マジかよ……どんなチートスキル持ってんだ?」
冒険者ギルドのラウンジでは、修のもう一つの姿が、新たな都市伝説となりつつあった。
そして、もう一つの伝説――「Null」。
「それにしても、Nullは最近静かだよな」
「ああ。アーク・セイバーへのあの一件以来、パッタリと書き込みがなくなった。不気味なくらいにな」
「嵐の前の静けさ、ってやつか……? 次に何を投下するのか、想像もつかねえよ」
修の沈黙は、逆に冒険者たちの恐怖と期待を煽っていた。
誰も、この二つの伝説が、同一人物であるなどとは夢にも思っていない。修の計画は、完璧に進んでいた。
◆
数日後。
トレーニングルームから出てきた修の姿は、以前とは見違えるほど変わっていた。
レベルこそ変わらないものの、各種ステータスは、そこらの中堅冒険者を遥かに凌駕している。
何より、その身体つきは、以前の華奢な少年のものではなく、無駄な肉をそぎ落とし、鋼のような筋肉に覆われた、歴戦の戦士のそれへと変貌を遂げていた。
「……こんなものか」
シャワーを浴びながら、修は静かに呟く。
ハードウェアのアップデートは、第一段階を完了した。
彼は自室に戻ると、PCを起動し、あるデータベースにアクセスした。
冒険者ギルドが公開している、登録者の公的データベースだ。
(さて……そろそろ、あの『変数』がどうなっているか、確認しておくか)
検索窓に、彼は一つの名前を打ち込んだ。
白石 雪音 (Shiraishi Yukine)
検索結果は、すぐに表示された。
そこには、彼女の顔写真と、基本的な情報が記載されている。
そして、そのステータスの欄には、修の予想通りの、しかし、胸をざわつかせる一言が記されていた。
[登録状況: 休止中 (Inactive)]
「……やはりか」
修は、前世の記憶を思い出す。
白石雪音は、そのSランクスキル『聖域守護』と、攻撃力ゼロという致命的な欠陥故に、どのパーティにも受け入れられず、心を病み、自ら冒険者を引退したはずだ。
その時期は、確か、今のこの頃だった。
最高の才能を持ちながら、システムの「バグ」のせいで、その輝きを失っていく。
修は、モニターに映る少女の、どこか寂しげな顔を、無言で見つめていた。
「……最高の素材が、誰にも解析されずに腐っていくのは、惜しいな」
その呟きには、以前にはなかった、僅かな感情の色が滲んでいた。
それは、憐憫ではない。同情でもない。
ただ、完璧なプログラムが、たった一つのバグのせいで正しく動作しないことに対する、技術者としての、純粋な苛立ちと、好奇心。
復讐のプログラム。自己強化のプログラム。
その次に実行すべき、新たなタスク。
修の頭脳が、次のシークエンスへと移行を始めていた。




