第三十三話:Legacy Code
午前六時。骸骨兵の砦の入口には、まだ夜の残りのような冷気が沈んでいた。
修は石の門柱に指先を触れ、流れ込んでくる情報の粒度を確かめる。二日前に同じ場所で読み取った時よりも、境界の輪郭が曖昧になっていた。ここから内側がダンジョンである、という定義そのものが、少しずつ滲んでいる。
(境界定義の劣化。……進行が予測より早い)
背後で砂利を踏む音がした。振り返ると、黒川環が薄手のコートの襟を立てて立っている。協会の制服を着た男が二人、金属のケースを担いで後ろに続いていた。
「時間通りですね」
「そちらもだ」
「監査官の仕事の半分は、遅刻する当事者を眺めることなので。助かります」
黒川は表情を変えずにそう言って、作業班の二人に手で合図した。ケースが地面に下ろされ、蓋が開く。中には握り拳ほどの金属杭が十二本。表面に細かい溝が刻まれ、溝の底に魔石の粉が薄く焼き付けられていた。
「封印外殻補強用の標準アンカーです。規定では、劣化箇所に等間隔で打ち込み、術式接続を再確立する」
「規定はいつのものだ」
「……十二年前のものです」
修は杭を一本つまみ上げ、目を細めた。刻まれた溝を情報として読み取る。接続規格は確かに外殻と一致していた。ただしそれは、十二年前の外殻との一致だった。
「合わない」
「規格外ですか」
「規格通りだ。だから合わない」
黒川の眉がわずかに動く。修は杭を指先で回しながら続けた。
「外殻はこの十二年で摩耗して、接続部の断面が変わってる。規格通りの部品を規格通りに差せば、隙間ができる。隙間からは漏れる。……漏れた分だけ、また摩耗する」
「協会の作業班からは、その報告は上がっていません」
「見えないものは報告できない。悪意じゃない。ただの仕様だ」
黒川は数秒黙り、それから作業班の二人に振り返った。
「打ち込みは保留。柏木さんの指示に従ってください」
「……監査官、規定では」
「規定の想定した外殻はもう存在しません。私が判断します」
男たちが顔を見合わせ、渋々と杭を置いた。修はその一連のやり取りを、感情の交じらない目で見ていた。組織というのは、責任の所在を明確にした瞬間だけ、まともに動く。黒川はそれを知っている人間だった。
「タクミ」
「は、はいっ」
背中に背負った工具袋を揺らして、タクミが小走りで前に出てきた。修は杭を彼に手渡す。
「この杭と外殻の接続部、今の断面に合わせて継ぎ手を作れ。現場で」
「げ、現場で、ですか……!?」
「工房で作った寸法は、ここじゃ合わない。断面は俺が読んで数値で出す。お前はそれに合わせて錬成しろ」
タクミの目が一瞬泳ぎ、それから、すっと据わった。物作りの話になった時だけ、この少年は別人になる。
「……できます。コア・クリスタルの欠片、砕いて粉にして繋ぎに使えば、外殻の術式と喧嘩しないはずです。融点も近いので」
「十二本分もつか」
「もたせます」
修は短くうなずいた。それ以上の言葉は不要だった。
◇
作業は日が昇りきる前に始まった。
亀裂は前回より三割ほど広がっている。修が最初に確認したのは、封印の残存稼働率だった。
【封印構造体:残存稼働率 6.8%】
七%を切ったという協会の報告からさらに落ちている。数字は静かだった。静かに落ちていくものほど、止めるのが難しい。
「雪音」
「はい」
「亀裂の正面に立て。作業班と、タクミの錬成台を背中に置く形で。今日は攻撃に転じなくていい。線を保て」
「わかりました。……一歩も、動きません」
白銀の円盾が朝の光を受けて鈍く光る。改修された盾は、以前より重心が手前に寄っていた。長く受け続けるための重心だ。雪音は数度足の位置を調整して、地面に自分の形を刻むように構えた。
「カイは外周。亀裂以外から出てくる個体を先に見つけろ」
「了解ッス。……兄貴、今日は前に出るんスね」
「ああ」
「よっしゃ」
カイが妙に嬉しそうに笑って、瓦礫の上に跳んだ。修は無視した。
「セシル。骸骨兵の活性を落とし続けろ。倒さなくていい。動きを鈍らせるだけでいい」
「……鎮まれ、と繰り返すことは、殺すことより難しい。……けれど、悪くない役目です」
黒いヴェールの下で、セシルが小さく喉を鳴らした。銀のロザリオが鎖を鳴らし、低い旋律が空気に溶けていく。亀裂の奥で、かちかちと鳴っていた骨の音が、少しだけ遅くなった。
「ミカゲ」
「……ん」
「今日は撃つな。杖の出力を、補強の術式接続に回してもらう」
「……わかった」
ミカゲは黒石の大杖を両手で立て、フードの奥から亀裂を見上げた。換装された杖の出力上限は、以前の一・四倍を超えている。攻撃に使わないのは、初めてのことだった。
修は自分の役割を最後に確認した。前衛。斬り込み役。
(前世の俺なら、絶対に選ばなかった配置だな)
鞘の中の小太刀が、朝の冷気の中でわずかに温度を持っていた。
◇
外殻の補修は、記述の書き換えに近い作業だった。
修が外殻の術式構造にアクセスし、劣化した接続部の断面を数値化する。タクミがその数値に合わせて継ぎ手を錬成し、作業班が打ち込む。打ち込んだ杭が正しく噛んだかどうかを、修が再度読み取って確認する。
単純な繰り返しだった。だが三本目を打ち込んだところで、修の指が止まった。
外殻の内側に、実行されない記述が混じっている。
術式としては何の効果も持たない。処理の流れから完全に切り離され、ただそこに置かれているだけの文字列。プログラムで言えば、コメントだった。書いた人間が、後で読む人間のために残す覚え書き。
「ミカゲ」
「……ん?」
「ここ。意味だけ訳せ。構造は俺が読む」
ミカゲが杖を立てたまま近づき、修が指し示した空間の一点を見た。フードの奥で、宝石のような瞳が細くなる。
「……古い言い回し。……三文だけ」
「読め」
「……『これは恒久措置に非ず』」
修の背筋を、冷たいものが撫でた。
「……『定期の再構築を要する』」
「……続けろ」
「……『継ぐ者へ』」
三文目で、ミカゲは口を閉じた。
沈黙が落ちた。作業班の男たちも手を止めている。黒川が一歩前に出た。
「……協会の記録には、そのような記述は残っていません」
「当然だ。実行されないコードは、システムのログに残らない。読もうとした奴にしか見えない」
修は自分の声が、思ったより低く出たことに気づいた。
十二年前、この封印を設置した誰かは、これが応急処置だと知っていた。恒久的な解決ではないと知りながら、それしかできなかった。だから記述の余白に、後から来る人間への申し送りを残した。定期的に作り直せ、と。
そして、その申し送りは誰にも読まれないまま十二年放置された。
(引き継ぎのないまま放り出された、保守されていないコード)
修は前世で、それを何度も踏んだ。書いた人間はとうに辞めていて、仕様書はなく、動いているという事実だけが残されたシステム。誰も触りたがらず、誰も直せず、壊れる日まで放置される。壊れた日に呼ばれるのは、いつも修だった。
(……いや。違うな)
あの頃の修は、押し付けられていた。今は、読んでしまったから引き受けている。同じ作業でも、そこだけが決定的に違った。
「柏木さん」
「作業を続ける。四本目の断面を出す」
黒川は何か言いかけて、やめた。
◇
七本目の杭を打ち込んだ直後、亀裂の奥で音が変わった。
カイの声が先に飛んだ。
「兄貴! 三体、いや四体ッス! 一体でかい!」
骨の軋む音が重なりながら近づいてくる。修は残りの杭の位置を頭の中に固定してから、亀裂の正面に踏み出した。
「雪音、線は保て。タクミ、手を止めるな」
「はいっ!」
「は、はいっ!」
崩れた石壁の隙間から、まず三体の骸骨兵が這い出してきた。動きは鈍い。セシルの鎮魂が効いている。四体目——腕が三本ある個体が、遅れて姿を現した。前回のイレギュラーほどではないが、無理な接合の痕がある。
修は鞘に手をかけた。
考えるな、と自分に言い聞かせるのは、もう違うと知っていた。考えるのをやめるのではない。すでに終わっている計算を、もう一度やらないだけだ。
骸骨兵の一体が踏み込む。その左肩が、ほんのわずかに落ちた。
——見た。二日前の訓練で、カイの肩が同じ角度に落ちた。その後に来るのは右からの薙ぎ払い。八十三回観測済み。
計算は走らなかった。答えだけが、先に手の中にあった。
抜いた。
小太刀の刃が朝の光を一本の線に変えて、骸骨兵の首の接合部を通り抜けた。骨が断たれる感触が、柄を通して手首に届く。硬いものを切ったというより、噛み合っていたものが外れた、という手応えだった。
頭蓋が地面に落ちる。修はその音を聞いてから、ようやく自分が斬ったのだと理解した。
「兄貴、今の——」
「三体目が来る」
二体目が横から突っ込んでくる。修は退がらなかった。踏み込みの終端を先に押さえ、抜きの軌道の上に相手を置く。
二度目。抜刀。
肋の隙間から入った刃が、内部で骨を繋いでいた術式の結び目を断った。骸骨兵は崩れ落ちる前に、一度だけ痙攣するように震えた。
三体目に踏み込もうとした瞬間、腕が三本ある個体が背後から回り込んだ。修の視界の端で、白銀が動いた。
雪音だった。攻撃には転じない。ただ、修と個体の間に一歩だけ入り、盾の縁で軌道をずらす。修が斬るための角度を、盾で作った。
「修さん、右です!」
「わかってる」
修は雪音の盾の陰から出て、外れた腕の付け根に刃を通した。三本目の腕が地面に落ちる。バランスを崩した個体に、セシルの光が触れた。倒すためではなく、繋ぎ直すのを妨げるための光だった。
最後の一体は、修が斬るまでもなくカイのナイフが背後から接合部を割った。
「はい終わりーッス!」
「……早い」
「兄貴が前に出ると、オレの仕事が減るんスよねぇ。ちょっと寂しいッス」
修は答えず、小太刀を鞘に戻した。刃には脂も血もついていない。骨だけを断ったからだ。
高揚はなかった。ただ、記録が一つ更新された感覚があった。抜刀から接触まで、一拍の遅れがなかった。それだけの事実が、静かに胸の底に積まれた。
「……修さん」
雪音が盾を下ろし、少しだけ振り返った。頬が上気している。
「今の、すごく……速かったです」
「三日前は当たらなかった」
「はい。だから、すごいんです」
修は返す言葉を探して、見つけられなかった。代わりに、亀裂の奥に視線を戻した。
◇
十二本目の杭が打ち終わったのは、正午を回った頃だった。
修は外殻に手を当て、接続の状態を確認する。継ぎ手はすべて噛んでいた。漏れはない。
【封印構造体:残存稼働率 31.4%】
「三十一%まで回復しました」
修が数値を告げると、作業班の男たちの間に安堵の空気が流れた。黒川だけが、表情を変えなかった。
「その言い方ですと、喜べる数字ではないようですね」
「延命だ。修正じゃない」
修は外殻から手を離した。
「補強したのは殻だけだ。中身には触ってない。……そして中身は、まだ骸骨兵を吸って自分を維持し続けてる。吸える量は殻が丈夫になった分だけ増える。次に劣化が始まったら、前より速い」
「……つまり、三十一%は十二年分ではない」
「もって半年。悪ければ三ヶ月」
黒川は手帳を閉じ、長く息を吐いた。
「Bランク以上の部隊は、五日後には空きます。核への干渉権限の申請を上げます。……ただ、審査は通らないかもしれません」
「理由は」
「十二年前に封印を設置した部署が、現在は存在しないからです。所管が確定しない案件に、協会は権限を出したがらない」
修は小さく笑った。声には出さなかったが、口の端が動いた。
(書いた奴が辞めて、部署が消えて、誰も所有者がいないコード。……前世で何度見た光景だ)
「柏木さん」
「なんだ」
「今日の作業報告に、あの記述のことは書きません。書けば機密指定が入って、あなた方も二度と近づけなくなる」
黒川の目は真っ直ぐだった。修はしばらくその目を見返してから、うなずいた。
「監査官が規定を曲げるのか」
「規定に、実行されない記述の扱いは書かれていませんので」
少し離れた場所で、ミカゲが亀裂の縁をじっと見ていた。修が近づくと、彼女は指先で外殻の一点を示した。
「……ここの、記述の癖」
「読める字体か」
「……ううん。……見たことがある。……あの書庫の、奥の棚」
王立地下書庫跡。ミカゲと最初に出会った場所だった。
修は問い詰めなかった。今日の作業で得た情報を、これ以上増やす必要はない。伏せられた札は、開く順番が重要だ。
「覚えておけ。急がなくていい」
「……ん」
◇
撤収の準備をしている時、黒川が修だけを呼び止めた。
封筒を一通、差し出してくる。協会の公用封筒だった。
「本来、当事者にお見せするものではありませんが」
中身は、開示請求の写しだった。ダンジョン管理協会に対し、ギルド『ライジング』への応急処置権限付与の記録一式——付与日時、範囲、判断根拠、担当者名——の開示を求める書面。請求者の欄には、法律事務所ではなく調査会社の名前が入っていた。
「相馬リサーチ」
「三日前に受理されました。形式に不備はありません。……協会は、正当な手続きで来られた場合、開示を拒めない部分があります」
修は書面を二度読んだ。噂ではない。伝聞でもない。紙と印鑑と受理番号を伴った、制度の内側からの接近だった。
(力でも、言葉でもなく、手続きで来たか)
妨害ではない。攻撃ですらない。ただ、公開されている扉を正規の鍵で開けているだけだ。だからこそ、止める方法がない。
「開示範囲は」
「権限付与の事実と、範囲。判断根拠は非開示にできます。……担当者名は、私の名前です。隠すつもりはありません」
「あんたが矢面に立つ必要はない」
「立ちません。ただ、隠れもしません。それだけです」
黒川はコートの襟を直し、砦に背を向けた。
修は封筒を懐に入れ、仲間たちの方を見た。
タクミが錬成台を片付けながら、余った継ぎ手を大事そうに布で包んでいる。カイが雪音の盾についた骨片を指で弾いて笑い、雪音が慌ててそれを拾っている。セシルは瓦礫の隅にしゃがみ込んで、崩れた骸骨兵の残骸に短く何かを呟いていた。ミカゲは杖を抱えたまま、まだ亀裂の縁を見上げていた。
十二年前、この封印を書いた人間は、一人だったのだろうと修は思った。
恒久措置ではないと知りながら、それしか手がなかった。定期的な再構築を要すると書き残しながら、自分が再構築する立場にはいられなかった。だから、来るかどうかもわからない後任に向けて、実行されない三行を残した。
誰も読まなかった三行を、修は読んでしまった。
(引き継ぐ理由なんてない。義理も契約もない)
それでも、修はもう次の手順を組み立て始めていた。殻ではなく中身に触るための手順。権限を持たないまま、権限を必要としないやり方で。
「兄貴ー! 飯どうするッスかー!」
カイの声が瓦礫に反響した。
「戻ってからだ」
「えー、腹減ったッス!」
「非効率だな。歩きながら食え」
「兄貴、それ許可ッスか!?」
修は答えずに歩き出した。背後で雪音が「お行儀が悪いですよ」と言い、カイが「兄貴が言ったんスよ!」と抗議する声が続く。
あの十二年前の誰かには、この声がなかった。
それだけの違いだ。それだけの違いが、決定的だった。
【現在のステータス】
■柏木 修
Lv: 21
HP: 930
MP: 270
STR: 84 / VIT: 75 / INT: 268 / DEX: 208 / AGI: 102 / LUK: 7
ATK: 112 / DEF: 83 / RES: 252
装備: 改修・並列同期型小太刀(タクミ製・新調)、源田の補強胸当て(革鎧と併用)、使い古したスマートフォン
スキル: エクストラスキル『プログラマー』、パッシブ『不遇の記憶』、パッシブ『並列演算』
■白石 雪音
Lv: 25
HP: 2400
MP: 650
STR: 5 / VIT: 370 / INT: 85 / DEX: 62 / AGI: 54 / LUK: 108
ATK: 0 / DEF: 440 / RES: 300
装備: 訓練用ショートワンド、見習い聖女の軽量銀鎧、新生・白銀の円盾(持続耐久強化・コア・クリスタル内装)、源田より贈られた軽量脚甲
スキル: 【聖域守護】、【反射装甲】、パッシブ『不屈の精神』
■カイ
Lv: 22
HP: 820
MP: 205
STR: 160 / VIT: 128 / INT: 102 / DEX: 395 / AGI: 465 / LUK: 190
ATK: 260 / DEF: 120 / RES: 100
装備: 新調タクティカル・ナイフ(源田製)、浄化の片手剣、強化軽量レザーベスト(改)、特注防塵ゴーグル、高機動型ダンジョンシューズ
スキル: 『罠感知(ランクA)』、『パルクール・アクション』、『お調子者の空元気』
■ミカゲ
Lv: 23
HP: 610
MP: 1650
STR: 26 / VIT: 46 / INT: 390 / DEX: 114 / AGI: 140 / LUK: 70
ATK: 220 / DEF: 66 / RES: 435
装備: 深淵の魔導杖・改式・二型(コア・クリスタル換装・出力上限向上)、魔導銀の装飾ローブ、深淵を覗く者のフード、身代わりの守り
スキル: 固有スキル『極大消滅』、古代語魔法、古文書解読、沈黙の集中
■タクミ
Lv: 14
HP: 240
MP: 310
STR: 20 / VIT: 28 / INT: 92 / DEX: 131 / AGI: 42 / LUK: 58
ATK: 32 / DEF: 39 / RES: 71
装備: 煤けた作業用エプロン、源田より贈られた新しい指ぬきグローブ、指定学生服、初心者の小型錬金釜、携行式錬成台(現場作業用)
スキル: 固有スキル『錬金術(論理構築/オーバーライド)』、特殊技能『アイテムの目利き』
■セシル
Lv: 20
HP: 260
MP: 1550
STR: 16 / VIT: 24 / INT: 120 / DEX: 47 / AGI: 34 / LUK: 10
ATK: 22 / DEF: 34 / RES: 150
装備: 古銀のロザリオ(改・発動遅延短縮)、夜色の修道服(ダンジョン産繊維製)、隠者のヴェール
スキル: 『浄化の光』、『鎮魂の調べ』、『甘露の直感』、パッシブ『生者への慈愛』




