第六章 また、いつかの春に⑦
慌てて前に向き直ると、包丁を持った時田が、僕と永井の目の前に立っていた。
「永井さんのこと、好きじゃないって言ってたじゃないか。永井さんの好きな人なんか知らないって言ってたじゃないか……。それが、どうして永井さんと二人で手を繋いで歩いていたのかなあ?」
時田の目は、僕を真っ直ぐににらんでいた。殺気がこもった恐ろしい目つきだった。本気で僕のことを憎く思い、殺そうとしている、殺人鬼のような目つきだった。
あの優しく穏やかな表情を持った時田が、こんなにも狂気に満ちた顔になる。僕を真っ直ぐに見つめているのに、どこにも焦点が合っていないような、壊れたような狂った表情になる。
「遠野くん、僕の気持ち知ってたよねえ? 僕が、永井さんは、誰とも付き合ってほしくないって言ったのも、知ってるよねえ? なのに、どうしてこんなことしてるのかなあ。僕、不思議だなあ。遠野くんのことは信頼してたのになあ」
「誠太くん、逃げて!」
永井が、両手を広げて僕の前に立ちふさがった。
「永井さーん。永井さんも知ってると思うけど、僕は君のことが好きなんだよ……。今からでも遅くないから、僕といっしょに行こうよ、ね?」
「言ったでしょ。私には好きな人がいるって。早く、誠太くん!」
またこの展開になるのか……。いや、違う。悪足搔きだろうが何だろうが、神様の決めた予定なんかに負けてたまるか。
「遥花! どいて!」
僕は永井の手を引っ張って、永井を僕の後ろに回した。僕が、戦う。永井を守るために、僕は戦う。
一足飛びで時田の懐に飛び込んだ。右の拳で、時田のお腹にストレートを一発打ち込んだ。
「うぐっ」
時田は短いうめき声を上げてふらついた。時田は、本人も言っていた通り、いつもおろおろしていて、おどおどしていて、背が高い分、余計に動きも鈍い。
倒す――。
ボディに左ジャブを打ち、再び右ストレートをお見舞いする。ドスンッ、ドスンッと鈍い音がして、時田の体がふらつき始める。
いける――。
そう思ったそのとき、だった。
時田のふらついた体が前のめりになった、その反動を利用して、時田が地面を蹴って真っ直ぐ飛び込んでくる。包丁を握りしめて。
ドンッと、僕の体が真横に押し飛ばされた。ゆっくりと倒れながら目を見開くと、目の前で、永井と時田の体が交差していた。
「誠太くん、また、ね。また、いつかの春で、待ってるから……」
永井が苦しそうな顔で僕を振り向いて、にこりと笑った。
アスファルトの上に叩きつけられた衝撃が体を走りぬける。同時に、永井はうつ伏せに崩れ落ちた。路面の上を血の染みが広がっていった。
「うわああああああああああ!」
僕は急いで起き上がって、一足飛びに駆け出した。永井のそばに膝を立ててしゃがみこんだ。いや、膝から崩れるように永井のそばに顔を近づけた。
「遥花! 遥花!」
僕が叫んでも、永井は反応しない。赤い液体は、止まることなく溢れ続けている。
「遥花。遥花、遥花……。遥花!」
僕は叫んだ。何度も何度も叫んだ。目に涙が滲んでくる。視界が揺れながら霞む。何もできない無力な自分が、情けなかった。
からん、と包丁の落ちる音が聞こえた。震えた瞳で顔を上げると、時田が真っ青になった顔をがたがたと震わせていた、
「違う、僕は、永井さんを殺そうとしてたわけじゃない……。違う、違うんだ……。そうだよ、遠野くん、お前が悪いんだ。お前が、永井を奪ったから」
時田は走り去っていった。
僕は、ぼんやりと追った時田の背中から、うつぶせになった永井に視線を落として、地面に手をついた。




