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第二章 この世界③

「美紀は、タイムスリップという言葉を、信じる?」

 美紀にメールを送信しようとして、やめた。今は、美幸さんに会えた喜びをかみ締めてほしかった。僕が永井と再び会えたように、美幸さんと再び会えたことは、美紀にとって、ものすごく大切なことだと思うから。

 ケータイをベッドの上に放り投げて、窓から美紀の部屋を眺めた。一階の居間の電気も二階の美紀の部屋の電気もついている。カーテンがひかれていて部屋の中までは見えなかったが、美紀の部屋の明かりが、嬉しそうに――悲しみを思い出しているように、ぼんやりと滲みながら灯っているように見える。

 僕も最初は信じられなかった。目の前に美幸さんがいることに、驚いて、頭の中が真っ白になって、でも、だから、永井がいたように、美幸さんもいるんだということが、すうっと胸に流れ落ちるように理解できた。

 美幸さんに会えたときの美紀の表情を思い出す。美紀は、鋭かったはずの目を、永井みたいに可愛らしくまん丸に見開いて、美幸さんを見つめていた。

「お母さん?」

「あら、どうしたの、そんな顔して」

 不思議そうに頬に手を当てた美幸さんは、黄緑色のカエルのイラストのついたエプロンをしていた。美幸さんが亡くなったあと、美紀が料理をするときは、いつもつけていたエプロンだった。形見のようなものだった。たくさんの涙が染み込んで、少しよれてきていたエプロンは、鮮やかな黄緑色とともに、美紀の前で笑っていた。

「お母さん!」

 美紀は勢いよく抱きついた。美紀の方が、背が高い。少し覆いかぶさるような形になった。美幸さんの肩に顎を乗せ、ガラスの窓に雨が伝い落ちるように、涙を落とした。

「あらあら、どうしたの、美紀ちゃん。何かあったの?」

「違うもん。何もないもん」

「そっか。よしよし、辛いことがあったんだね」

「違うもん! 辛くなんてなかったもん!」

「何もない子が、こんな泣き方するわけないでしょ。美紀は、昔から強がりなんだから」

「お母さんのバカ!」

 美紀は子どもみたいに泣きじゃくった。美幸さんは、そんな美紀の少し大きな背中を、ぽんぽんとリズムをとるように叩いた。

「美紀ちゃん、覚えてる? あなた、小さい頃は、誠ちゃんをよく泣かしてたのよ。それでね、誠ちゃんは私に抱きついたの。美紀に意地悪されたーってね。うふふ、何だか、今の美紀ちゃんみたいね。ね、誠ちゃん」

 美幸さんが抱きついた美紀の肩越しに顔を覗かせて、僕に笑いかけた。

「……はい。そうでした。僕は、昔は毎日のように泣いてましたから」

 穏やかに微笑んで答えると、美紀は美幸さんに抱きついたままの格好で声をあげた。

「私だって! 私だって、覚えてるよ。全部、覚えてるよ。何も忘れてないよ。何も、何も……」

「そうね、美紀ちゃんは、お利口さんだから、全部背負い込んじゃうものね」

「そんなこと、ないもん。お利口さんなんかじゃないもん! だって、私バカだもん。テストの点数だって、いつも悪くて」

「もう、本当にしょうがない子ね。そんなことを言ってるんじゃないのよ」

 美幸さんは、美紀の頭にぽんっと手をのせて、微笑んだ。

 美幸さん。美紀のやつ、ずっと頑張ってたんですよ。美幸さんがいなくなったあと、一人でご飯作って、買い物行って、お父さんを元気づけて。永井が死んじゃったあと、自分も辛いのに、ずっと僕のそばにいてくれたんですよ……。

「ごめんなさい、お母さん」

「なあに? 美紀ちゃんは、何も謝るようなことはしてないのよ」

「私が、マラソン何かに誘ったから。ごめんなさい、お母さん、ごめんなさい……」

 大声をあげて泣いた。わんわん泣いた。美幸さんは、何も言わず、ただ美紀の頭を撫で続けた。

 美紀はずっと自分を責め続けていた。もしも、美幸さんを置いて一人で先に行かなかったら。もしも、マラソン大会に誘わなかったら。もしも、陸上をやっていなかったら……。もしも、もしも……。

 しかし、それは僕も同じであった。もしも、永井と付き合っていなければ、もしも、永井に告白していなければ、もしも、永井のことを好きになっていなければ、もしも、文芸部に入らなければ……。

 そんな『もしも』とか『だったら』とかを積み重ねて、僕たちはあの瞬間からずっと生き続けている。


 ベッドの上に寝転がって、天井の蛍光灯を見上げた。テレビも点いていない部屋は、シーンという音が聞こえてきそうなほど静かだ。その中で、僕は、亮祐のことを考えて、永井の姿を思い浮かべた。

 タイムスリップ。

 ありえない。と首を振った。しかし、考えれば考えるほど、その不可思議な可能性は説得力を持って僕の前に現れた。

 すでに三年生になっていたはずの僕たちは、二年生の教室で授業を受けていた。三年生の四月にいなくなってしまった永井が、二年一組の教室にいた。春休みの誕生日に永井からもらったはずのストラップが、なかった。十二月に亡くなった美幸さんが、笑顔で出迎えてくれた。

 僕たちは、一年前の世界へタイムスリップしたんじゃないだろうか……。


 朝は、何も変わらずに訪れた。カーテンのすき間からこぼれる日の光に、目覚まし時計が鳴るより十分ほど早く起きてしまった。「この世界」での新しい一日が始まる。カーテンを開け放して、僕は日の光を受け止めた。

 朝食をとって、学校へ行くべく、美紀といっしょに駅へと向かった。美紀は、あの後も部屋で泣いたのだろうか、目元にはうっすらと涙の痕が残っている。嬉し涙だけではなかったはずだ。嬉し涙だけだったら、こんなにも痕は残らない。涙は、綺麗に落ちきってしまうはずだ。

 もう二度と会えないと思っていた美幸さんに会えたという嬉し涙。美幸さんを死なせてしまったのは、自分ではないかという後悔の涙。美幸さんの死が蘇ってしまったことによる悲しみの涙。一つの涙の中に、色々な色があったはずだ。涙の痕とは、心の傷痕のことなのだから。

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