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第二章 この世界②

 部室を出て巡川駅へと向かう道すがら、僕はリュックの中からケータイを取り出した。永井からもらったストラップは、やっぱりついていない。これも、「この世界」だから、ということなのだろうか。

 永井を真ん中に、右を僕、左を美紀という順番で川沿いの遊歩道を並んで歩く。夕陽が川面をきらきらと輝かせる。

 この世界、とはなんなのだろうか。今日、家に帰って布団に入って眠りに落ちたら、目が覚めたときにはまたバスの中にいる、ということはないのだろうか。でも、それだとまた永井のいない世界に戻ってしまう、のだろうか。

「ねえ、永井。一つ聞いてもいいかな」

「ダーメ」

「え?」

「罰ゲームは続いているの。だから、私は、遠野くんに何を聞かれても答えないもん」

 永井は腕を組んで背筋を伸ばし、なぜか威張って答えた。

「何、罰ゲームって。誠太、はるちゃんに何かしたの」

 永井の向こう側から、美紀が鋭い眉毛を覗かせた。

「私をね、みんなの前で泣かせたの。だから、その罰なのです」

 永井が得意げに人差し指を立てて答えると、「うわ。誠太、最低ー」と美紀は顔をしかめ、永井もそれに応えて「ねー」と笑みを浮かべる。

 常盤くんといい、永井といい、僕は何か話をはぐらかされているような気がした。だから、「あのさ」と強引に話を進めた。永井の顔から、すっと笑顔が消えた。

「永井って、今、付き合ってる人、いるの?」

 柵の外側に生い茂っているウシハコベの草が、ささっと小さく揺れた。風が湿り気を帯びている。巡り川の流れる音が、聞こえるはずもないのに、さらさらと聞こえているような気がした。

 永井の返答は、なかった。

 永井は、表情を変えずに黙り込んでいる。美紀は「はるちゃん、何で黙ってるの」とでも言いたげに、不機嫌そうな顔で永井を見つめていた。

 巡橋にさしかかった。多くの車が行き来して、急に辺りが騒がしくなる。

 ここで、永井は、殺されたのだ。僕は永井の横顔を見つめる。俯いた永井の口が、小さく動いたような気がしたが、車の走る音に紛れて、なのか、ただの僕の気のせいだったのか、言葉は何も聞こえてこなかった。

 橋の真ん中に差し掛かる。東の空を見つめた。太陽が沈んでいく。夕暮れから夕闇へと景色は変わり始めている。

「……いないよ」

 橋を渡りきろうかというところで、永井はぽつりと呟いた。冷たい声だった。全ての干渉を遮断するような、これ以上何も言わないでほしいと祈るような、そんな震えてか細い声だった。

「そう、か」

「うん」

 美紀は何かを言おうと口を開きかけたが、僕が「何も言わないでほしい」と目で訴えると、美紀は憮然として黙り込んだ。


 それから僕たち三人は一度も口を開かず、黙ったまま巡川駅へと向かった。改札に入って、二番乗り場に向かおうとしたら、永井が立ち止まった。

「私、行かなきゃいけないところがあって、今日はこっちの電車に乗るね」

「何か用事でもあるの?」

 僕の心配そうな声と美紀の怒ったような声が重なる。永井は、「ごめん、ちょっとね」としか言わなかった。


 僕と美紀は、電車が来るまで少し時間があったので、二番線のホームのベンチに腰掛けた。もう電車は出たのだろう、反対側のホームには永井の姿は見えなかった。

「はるちゃん、どういうつもりなのかな。本当、意味分からない」

 美紀はむすっとしたままベンチの背もたれによりかかって、足を組んだ。そのままの姿勢でホームの屋根を見上げる。

 アナウンスが、快速電車の到着を告げた。でも、僕たちが乗るのは、十二分後に来る普通電車だ。

「美紀も、バスの中で気を失って、気がついたら、教室にいた、みたいな感じなの?」

「誠太は、そうだったの?」

「僕は、そうだった。目が覚めたら、教室の中にいた。目の前には、現代文の教科書が広がってて、国語の授業を受けてたんだ」

「そっか。私は、数学の授業だった。先生に、『今野、居眠りしてるなよ』って教科書で頭をぽんっと叩かれて、顔を上げたんだ。そしたら、教室にいるじゃない。もう、頭の中パニックになっちゃってさ」

「うん、分かるよ」

「私、思わず立ち上がって、『ここ、どこ?』って聞いちゃったの。まあ、当然クラスのみんなにも、先生にも笑われたけどね。『寝ぼけてるなよ』って」

快速電車が、スピードを緩めながらホームへ入ってきた。

「教室にいる前は、バスで東京へ向かっていたんだもんな。僕も、美紀も、あと亮祐も」

「うん」

「じゃあ、何で、今、ここにいるんだろう?」

 さっきから、この疑問がぐるぐると回り続けている。考えても、考えても、答えがでるはずもなかった。考えるための手立てが、何もないのだから。

 電車の鈍いブレーキ音が耳を刺す。空気を吐き出すような音を出して、電車のドアが開く。たくさんの人がドアから吐き出されて――その中に、亮祐が、いた。

 上はドアーズの半袖ユニフォーム、下はオリーブ色のショートチノパンという出で立ちだった。あの日とは、違う服装だ。

 亮祐は、僕たちがベンチに座っているのに気がついたのか、人ごみの中、少し離れたところから、満面の笑顔で手を振ってきた。手には応援グッズの、プラスチックでできた小さなバッドが握られていた。

 元気そうだ、屈託のない笑顔だ、何も考えていなさそうで、だから、それはいつも通りの亮祐だった。

「やあ、お二人さん! お久しぶりですなあ。って、昨日会ったばかりでした。てへっ」

 一人で喋って、一人で突っ込みを入れて、本当に、亮祐だった。

「亮祐、野球を見に行ってたんだってね」

 僕はベンチに座ったまま、亮祐の幼い顔を見上げた。

「そうだよー。デイゲームだったからさ、学校休むしかなかったんだもん。でも、いやあ、最高だったね。巨仁何かめちゃめちゃにしてやったぜ! いえい!」

 亮祐は嬉しそうにガッツポーズを作る。力こぶが、ぼこんと出た。

「なあ、亮祐」

「なーに?」

「何ともなかった?」

「ん?」

「……何か、変わったこと、なかった? 例えば、さっきまでバスの中にいたのに、目が覚めたら、急に野球場にいた、とか」

 僕の言葉に、亮祐は最初はきょとんとして、すぐに合点がいった顔になった。でも、それは見当はずれの合点だった。

「おおー、いいね。新しい小説の設定? 面白そうだのお。気がついたら、意識が跳んで、別の場所にワープしてしまっている主人公!」

 僕と美紀は顔を見合わせて、首を傾げた。

「亮ちゃん、覚えてないの?」

 美紀は組んでいた足をほどいて、亮祐と向き合う。

「あ、今野ー。今日もいつも通り、可愛いお姿でいっらしゃる」

「そんなことはどうでもいいから、答えて。あと、面倒くさいから、おちゃらけるのもいい加減にしなさいよ」

「……ごめんなさあい」

 亮祐はしょんぼりと俯いて、指をいじった。

「それで、本当に覚えてないの?」

「えっと、その、本当に何の話?」

 亮祐は、何を言われているのかさっぱり分からないみたいに、後頭部を掻き、苦笑いを浮かべた。美紀はその亮祐の態度にかちんときたのか、「はあ?」と言って続けた。

「寝ぼけんじゃないわよ。バスに乗ってたでしょ、私たち。東京に向かうために。それで、起きたらここにいたでしょ」

「え……。いや、本当、今野までどうしたの?」

 亮祐が心配そうに眉を下げる。幼稚園児が母親の顔を不安そうに見つめるときの目つきに似ていて、子どもっぽい、だから、純粋に何のことか分かっていないよう顔だった。

「だから……」

 美紀は続けて何かを答えようとしたが、言葉が続かなかった。僕にも、何がなんだか分からない。あのとき、亮祐もいっしょにいたのだ。でも、亮祐は、そのことを知らないみたいだ。

「亮祐、野球場に行く前はどこにいたんだ?」

「そんなの、家に決まってるじゃん」

「じゃあ、今日、目が覚めたときは、どこにいたんだ?」

「ええと、家のベッドじゃないかな」

「目が覚める前は?」

「目が覚めたら、ベッドの上なんだから、目が覚める前も、ベッドだっしょ。本当、何、全然分からないんだけど。俺がバカなだけなのかなあ」

 どういうことだ? 僕は頭の中で必死に考えた。美紀も、隣で顎に手をのせて考えて――というよりは、睨んでいるようにも見えるけど。

何だか、亮祐と世界が違ってしまったような感覚に陥っていた。常盤くんの言う「この世界」に亮祐はいて、僕たちは「この世界」ではない世界を生きているような、そんな気が。

「じゃあ、今度は俺に質問をさせてください! 今日の部活は何をやったんですか? 教えてください、今野先生、誠太ちゃん先生!」

 幼稚園児のような舌足らずなたどたどしい口調で、亮祐は言った。いつも通りの亮祐だ。何も変わらない。

 僕は大きくため息をついた。何も分からない。考えても分からないのだから、今はとりあえず状況を見ようと思って、亮祐の質問に答えた。それで、何か分かることもあるかもしれない。

「今日は、あまり活動できなかったな。永井が先生に呼び出しされちゃってさ。一時間くらい職員室に行ってて」

「あらら、はるちゃんが珍しいね。はるちゃん、何したんだろう。何か、おら、わくわくすっぞ」

 二番線に、電車が参ります。ご注意ください、という場内アナウンスが流れた。

「はいはい。でも、今日は一年生も三人とも来なかったからなあ。何してたんだろう。だから、今日は、僕と美紀と二人でずっと部室にいたことになるな」

「ええ? 一年生なんていつ入部したの?」

 またもきょとんとする亮祐。人差し指を下唇に当てて、小首を傾げた。

「いや、三人いただろ。逢坂ちゃんと夏川さんと平沢ちゃん。亮祐だって、可愛がってたじゃないか……」

 と言ったところで、僕は、目が覚めたら二年一組の教室にいたことを思い出した。まさかね、と思いながらも、その考えが頭から離れなかった。

「本当、誠太ちゃんといい、美紀といい、何言ってるの。創作の世界に入り込みすぎたんじゃない。文芸部だからって、それはダメだぞ」

「あはは」と笑いながら、亮祐は手に持っていた応援用のバッドを構えた。

「……亮祐」

「なーに?」

「変なこと聞いてもいい?」

「さっきから変なこと聞いてるじゃないですか!」

「……そうだね。それじゃあ、聞くけど。僕たちって、今、何年生?」

「本当に変な質問だなあ。二年生に、決まってるじゃないかよ!」

 ブンッと素振りをしながら、亮祐は答えた。同時に、電車がホームにゆっくりと滑り込んで、ドアが開いた。


 電車がゆっくりと駅に停まる。ドアが開いて、僕と美紀はホームに降りた。改札を抜けた先に立っている時計を見ると、もう十九時を大きく回っていた。

 美紀は黙って歩き出した。僕は考え込む。

バスが事故にあった。目が覚めると二年一組の教室だった。永井がいた。部室に行った。一年生はいなかった。そして、常盤くんの「この世界」という言葉と、僕たちは「二年生」であるという事実。

 夜空を見上げた。夏前だと言っても、この時間になればさすがに星は見えていた。月がぼんやりと世界を照らす。輝く星は、はっきりと世界を光らせる。

「亮祐、本当に何も覚えてないっていう感じだったね」

 ふうっとため息をつきながら、僕は口を開いた。

「そうね。なんなのよ、亮ちゃんったら」

 美紀も怒りを露にして答える。今日の美紀は、何だかずっと怒りっぱなしだったな。こんな状況で、きっと気持ちも混乱しているのだろう。

 僕の方はというと、永井と会えたからだろうか、少し元気になっているようだ。気持ちも、混乱はしているけれど、前のような落ち込みはない。

 ふと気がついたら、家の前の通りまで来ていた。一階建ての僕の家に明かりが灯っている。僕の向かい、二階建ての美紀の家にも明かりが灯っていた。

おかしい。夜遅くに父親が帰ってくるまで、美紀の家には誰もいないはずだった。

「あれ? 私の家、電気点いてるね。お父さん、もう帰ってきてるのかな」

 夏服の制服を、生暖かい夜風が撫でていって、美紀の制服のスカートがふわりと舞う。

 僕の頭の中は、まさか、という言葉で溢れていた。

 美紀の家の門灯が灯って、玄関のドアが開く。

「美紀、おかえりなさい。誠ちゃんも、いつも美紀を送ってきてくれてありがとうね」

 美幸さんが、笑顔で出迎えてくれた。

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