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第二章 この世界④

「ねえ、誠太」

 電車に乗って、シートに腰掛けたとき、美紀は言葉をこぼすような口調で呟いた。

「なに?」

「誠太も、はるちゃんと会えたとき、こんな気持ちだったのかな」

「こんな気持ち、って?」

「何か、複雑な気持ち。ずっと、もう一度会えたらどんなにいいだろうって思ってたから、やっぱり嬉しかった。だけど、何か、うまく言えないけど、胸もいっしょに苦しくなって……辛い気持ちも、あった」

 永井を見たとき、僕は美紀と同じように涙を流した。最初は、それが何の涙だったのか、自分では分からなかった。でも、美紀の泣き痕を見て、気づいた。僕の涙も、美紀の涙と同じ色をしていたのだ。

「僕も、たぶん同じような気持ちだったと思うよ」

「……うん」

 電車は一定のリズムで、かたん、かたんと揺れる。電車が揺れる音と、僕と美紀の言葉のリズムが一致した気がした。二人の言葉を電車の揺れが共有してくれる。

 朝日が電車の中に光を落とす。「この世界」は僕たちにとって、希望の光となるのか、それとも、光が作り出す影となるのだろうか……。

「ねえ、美紀」

 反対側の窓をぼんやりと――遠い目をして眺めていた美紀に、僕は声をかけた。

「何?」

 美紀が振り向く。ポニーテールがふわりと揺れた。

「美紀は、タイムスリップって、信じる?」

 美紀は最初、僕の言葉の意味が分からなかったのか、黙ったまま僕を見つめ、訝しげな目で僕を見つめ、口を開いた。

「は、はあ? 急に何言ってんの。本当に、亮ちゃんが言っていたように創作のしすぎで頭ぶっとんだの」

 こういう口調を使わなければ、綺麗でかっこいい優しい女の子なのだが、と僕は幼馴染の顔をため息混じりに見つめた。

「違うって。昨日、考えてみたんだよ。僕らが置かれている状況について。そしたら、一年前の世界へタイムスリップしたんじゃないかっていう気がしてきて……」

「ふーん。タイム、スリップねえ。で、何でそう思うわけ?」

 僕は自分が昨夜考えたことを伝えた。美紀は、黙ってそれを聞き、自分も考え込むようにして、窓の外を見つめた。


 電車が、ゆっくりとスピードを落として、静かに停まった。巡川駅というホームの看板が視界に流れていった。

 改札を抜けて、駅前ロータリーを見渡した。ロータリー中央には花壇がある。花壇の真ん中には時計が立っている。その中で一つだけ、「一年後」の景色とは違うものを見つけた。

 ロータリーの向こう側にあったはずの美容院が、なかった。今年の三月の半ばに新しくできて、四月からオープンを迎えた美容院。永井が「行ってみたいなあ」と呟いて、「遠野くんの好きな髪型にしてみようかな」と冗談めかして笑っていた、あの美容院のあった場所は、今、更地になっている。

 ロータリーを抜けて、横断歩道を待っているとき、美紀が口を開いた。

「誠太がそう言うのなら、もしかしたらそうなのかもね」

「まあ、正直分からないけどね。タイムスリップなんて、そんなの、普通に考えたら、ありえないわけだし。でも、ありえないことが起こっているのも、事実だし……」

「何でそんなに自信なさそうなのよ。タイムスリップかもって言ったの、誠太でしょ」

「そうだけど、やっぱ信じられないっていうか。今日、もう一度常盤くんと話してみるつもりだけど。常盤くん、何か知ってるだろうし」

「常盤の言うことは信じたくないけど、でも、タイムスリップじゃないって言ったら、どうしてはるちゃんやお母さんがいるのって話になるよね。生き返った、とでも言うしかなくなるじゃない」

「そう、だよね。うん、そうなんだよね……」

 恥ずかしそうに僕が黙り込むと、美紀はむすっとして僕の顔を覗き込んだ。

「何よ、どうしたの」

「いや、ちょっと気がついたんだけどさ。もしも、一年前の世界にタイムスリップしたことが本当だとするとさ」

「うん」

「僕と美紀は、一年後の世界を知っているわけだよね。でも、当たり前のことだけどさ、『この世界』の人たちは一年後の世界なんて知らないわけじゃないか」

「まあ、当然ね」

「じゃあさ、昨日、僕が永井に抱きついたり、永井に付き合っている人いるのかって聞いたりしたことは、ものすごく恥ずかしいことなんじゃないかなあって……」

 僕は、永井を「遥花」と呼んで抱きついた。永井が死んでしまったことを知っている僕にとっては理解できる行為でも、永井や他の人たちは驚くに決まっている。

 美紀も「あっ」と声をあげて恥ずかしそうに頬を赤らめた。

「私も恥ずかしいこと言っちゃったな……。はるちゃん大切だよ、みたいなこと言ってたでしょ」

「ははは、言ってたね。こう考えると、何か急に恥ずかしくなってきちゃうね……」

「ま、まあ、いいじゃない。本当のことなんだし。あは、ははは」

 よっぽど恥ずかしいのか、美紀は笑いながら手で顔を扇いでいた。頬が熱くなっているのが自分でも分かって、僕は腕を組んで唸り声を上げた。

「うーん。どんな顔して永井に会えばいいんだろう」

「ふ、普通に。普通にしてれば、何も問題はないのよ。き、昨日だって普通に話してたんだから」

「……というか、美紀は、動揺しすぎじゃない?」

 僕は美紀の横顔を見て「あははっ」と笑った。それで幾分か、恥ずかしかった思いは薄くなってくれた。

「ど、動揺なんてしてないもん。本当のことしか言ってないんだから、どこに動揺しなければならない要素があるのか分からない」

「ははっ。美紀は、動揺すると、最初の言葉を噛んだり、語尾に『もん』がついたりするんだよ」

「な、何それ。勝手に決めつけないでくれる。私のことは、私しか知らないもん」

「ほら、今も」

 美紀は耳まで赤くして、俯いてしまった。「うー」という子犬のような唸り声が聞こえてきそうだった。

「昔からいっしょにいるんだから、そういうところはちゃんと分かるんだからね」

「……だ、だったら、もっとちゃんと見てよ……」

「え? 何を?」

「ううん、何でもない。ほら、行くよ。常盤に話聞くんでしょ」

 美紀は、ぱっと走り出して、くるんと僕を振り向いた。ふわりと制服のスカートが舞う。美紀に対して可愛らしいという表現をほとんど使ったことのない僕だったけど、その美紀の仕草は、あどけない少女のようで可愛らしかった。


 東階段の一階から二階の間にある踊り場で、美紀は同級生の女の子に声をかけられた。

「あれ、美紀だ。昨日はどうしたの? 連絡もしないで部活休んで。部長が心配してたよ。体調崩しちゃったのかなって」

「部活?」

 きょとんとした顔の美紀に、その女の子は続けた。

「陸上部の練習。副部長の美紀がいなかったから、部長一人で一年生の指導してたんだよ。一年生の子たち、美紀に教えてもらいたいって愚痴ってたんだから、部長の立場もないよね」

 その女の子は、「あはは」と笑って口を手で覆った。

「あ、そ、そうなんだ。でも、私、陸上部……」

 美紀は、「やめた」と続けようとしたのだろう。はっとした顔になって、慌てて取り繕った。

「ご、ごめんね。昨日はちょっと、文芸部で大事な話し合いがあって、陸上部の練習に出られなかったの。あとで、部長には謝っておくよ」

「そうなんだ。了解。部長も美紀を頼りにしてるんだから、あまり心配させちゃだめだぞ。それで、今日は練習出られるの?」

「ごめん。その、今日も練習出られそうにないかも」

「え? そうなの?」

「うん、ちょっと……」

「そういえば、少し顔色よくないみたい。気をつけて、ちゃんと休んで、また練習出られるようにしてね」

「ごめんね。ありがとう」

 美紀はぎこちなく微笑んで、うつむいてしまった。そして、足早に少女の前から立ち去って、踊り場から階段を二階へと上っていった。僕もそっと美紀の後を追いかける。歩いているのに、美紀のポニーテールが揺れない――だから、心は揺れているんだと、分かる。

 美紀は、マラソン大会で美幸さんが亡くなったあと、すぐに陸上部をやめた。私が陸上なんかやってるから、お母さんは死んじゃったんだと、繰り返し、繰り返し――誰も美紀を責めないから、自分で、自分を責めるように、呟いていた。

去年の――今年の十二月の出来事だったから、半年前――半年後のことだ。

「美紀」

 僕は美紀の背中に声をかけた。階段を上りきったあと、美紀はすっと振り向いた。瞳は、奥の見えない暗い困惑の色に満ちていた。

「ねえ、誠太。タイムスリップが本当だとして……」

 僕も階段を上って美紀に並ぶ。

「私が前みたいにこのまま陸上部にいたら、またお母さんを死なせちゃうのかな……?」

 唇が震えていた。目蓋も細かく揺れる。恐怖と悲しみに怯えた瞳だった。

 僕は、美紀の両肩に手をのせた。そして、美紀と同じ目線になるように膝を少し曲げて、美紀の目を見つめた。

「美紀が悪いんじゃない。あれは、美紀のせいじゃない。絶対にだ」

「でも、私が、お母さんを誘わなければ。私が陸上なんてやってなければ」

「美幸さんは、今、いるじゃないか。美紀の前に、ちゃんといるじゃないか。だから、あまり自分を責めないでくれ」

 僕の目の前にも、永井がいる。ちゃんと、いる。美紀が自分を責めるように、僕もまた自分を責め続ける。美紀の苦しむ姿は、同時に僕の苦しむ姿だった。

 肩にのせた手に力が入る。「頼むよ」とうなだれると、美紀は、僕の苦しみの声を聞き取ったように、うなだれたまま「……ごめんね」と呟いた。

 僕は、この気持ちをどうすればいいのだろう。今でも永井のことが好きだ。でも、永井を死なせてしまったのは、まぎれもなく、この僕なのだ。だから、僕は永井とどう接すべきなのだろう……。

 もちろん、今の永井は自分が死んでしまうことなど、知るよしもないのかもしれない。でも、だから、逆にどうすればいいのか分からなくなってしまう。僕は自分の罪をどう償えばいいんだ。いや、償いじゃない。罪を背負ってどう生きていけばいいんだ。

「永井……」

 僕はうめくように呟く。歯を食いしばった。

 階段はたくさんの生徒が上り下りする。階段を上った先で、お互いに肩に手をかけたまま佇んでいる僕と美紀を、不審な目で見ながら過ぎ去っていく人も、何人かいた。その中に、ひと際背が高く、ひょろりとした男を視界の隅にとらえた。

間違えるはずもない――時田だった。

 時田はあの事件を起こしたあと、一度も学校には姿を見せなかった。転校したという噂もあれば、警察に捕まって刑務所にいるという噂もあったが、僕にとってはそんなことどうでもよかった。

 ただ、ひとすらに、時田のことを恨んだ。そして、自分を憎んだ。

 僕は美紀から手を離し、走って時田を追いかけた。

「どうしたの? 誠太!」

 美紀の声が背中から聞こえたけど、僕の足は止まらなかった。

「時田!」

 時田は、廊下へと進む角を右折しようとしたところだった。その後ろ姿に叫ぶと、時田は、僕をゆっくりと振り返った。不思議そうな目できょとんと僕を見つめていた。

「遠野くん、だよね? いつも、永井さんといっしょにいる。どうしたの?」

 永井の名前を呼ぶ汚らしい声に、怒りとも悲しみともつかない憎しみが、僕の心の中をいっぱいにした。身体全体がわなわなと震える。

「てめえ! 時田!」

 飛び掛って時田の胸ぐらをつかんだ。そのまま、廊下の壁へと押し付けた。ドンッという、鈍いコンクリートにぶつかった音が響く。一九〇センチ近い時田の胸ぐらをつかむ僕の手は、まっすぐに伸びきっていて、改めてその身長差に僕は一瞬ひるんだ。

 あの事件のことが頭の中に蘇る。この男は、僕を殺そうとしたのだ。包丁を地面に落として、僕を見下ろしていたときの時田の目は、狂気に満ちていた。

 お前が、悪いんだからな。お前が、永井を奪ったから。

オマエガワルインダカラナ。オマエガナガイヲウバッタカラ。

「うわあああああ!」

 僕は時田の胸ぐらを締め上げた。時田の喉から「うぐっ」というくぐもった音が聞こえてくる。

 僕は目の前にいる時田に恐怖を感じていた。僕の目の前にいるこの時田の目は、あの時とは違って弱々しい光しか放っていない。あの事件のとき、この情けない弱々しい目は、黒目がどこに焦点を当てているのかも分からない、壊れたような、狂った目に変わったのだ。

「ちょっと、誠太。何してる……」

 美紀が駆けつけてきて、時田の姿を見て、ビクッと固まった。時田は、弱々しい目つきで僕を見つめて、「何するの? 何でこんなことするの?」と怯えた声を出した。

 そうだ。こんな弱いやつだったのだ。こんな弱いやつが――弱いやつだからこそ、狂気に走った。永井を、殺した。

「お前が、お前のせいで……」

 さらにきつく胸をしめつける。永井を殺してしまったのは、まぎれもなく、僕だ。でも、永井を殺した犯人は、まぎれもなく、こいつだ。こいつがいなければ、永井は、永井は……。

「殺してやる……。お前なんか、殺してやる」

 腹の底から振り絞るような、うめきにも似た声だった。鼻息が荒くなる。目が血走る。頭の中は真っ白だった。ただ、時田への憎しみと永井への想いだけが溢れている。

 周りには、ざわざわと人が集まってきていた。美紀が必死に何かを言うように口を動かしているのが見えたが、声は聞こえてこなかった。

 僕は狂気に満ちた目で時田を見上げる。左の手をぐっと握りしめた。怒りで、憎しみで、悲しみで、後悔で、罪の意識で、拳がわなわなと震える。そして、その拳を思い切り振り上げた。

「ひいい。ごめんなさい。ごめんなさい」

 時田が悲鳴をあげて両手で顔を覆った。こんなにでかい図体をしているのに、呆れるほど臆病者だ。呆れるほど、憎々しいほどに。

「お前が、永井を……」

 殺したんだ、と言いかけた。その途端、時田をつかんでいたはずの右手がはずれ、制服の襟をつかまれた。何が起こったのか把握する間もなく、僕の体はふわりと宙に浮いて、反転しながらくるりと中空を舞い、背中から廊下に叩きつけられた。その衝撃で、僕は、はっと我に返った。

「それ以上、喋らないでください」

 薄目の中に飛び込んできたのは、右腕をつかんだまま僕を見下ろす常盤くんだった。どうやら僕は、常盤くんに華麗な背負い投げをお見舞いされたようだった。

「常盤くん……」

「さあ、立ってください。お話があります。ここでは周りの目がありますから、文芸部の部室に連れて行ってください。もちろん、今野くんもいっしょに、です」

 常盤くんは僕から手を離すと、「ふうっ」とため息をつき、眼鏡を直した。美紀は僕のもとへ駆け寄ってきて、側に体育座りをするようにしゃがみこんだ。心配そうに僕の顔を覗き込む。太ももの間から、スカートの中のパンツが、見えそうになって、僕は慌てて目を逸らした。

 逃げるように廊下を走っていった時田の後ろ姿が、ぼんやりと霞むように見えた。

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