Episode 5:前編
Episode 5:前編
容赦なき驟雨
公園の指輪事件から数日後。
ロンドンの空は厚い鉛色の雲に覆われ、
バケツをひっくり返したような大雨が街を濡らしていた。
「あーあ、ものすごい雨。
これじゃ今日はお散歩も無理ね、ホームズ」
ハート刑事は窓の外を眺めながら、マグカップのココアをすする。
リビングのソファでは、ビーグルの子犬
──シャーロック・ホームズが、退屈そうに前足で耳を掻いていた。
(やれやれ、この肉体になってからというもの、雨の日は最悪だ。
湿気で毛並みは重くなり、外から漂う情報の洪水が雨水に流されてしまう)
ホームズは退屈を紛らわせるように、床に転がっている、
今日の朝刊に鼻を近づけた。
いつもなら、インクの匂いに混じるかすかな街の気配を分析するところだが……。
(……む?)
ホームズの鼻腔が、異質な匂いを捉えてピクリと動いた。
雨の湿気にも負けない、強烈な自己主張を放つ匂い。
(これは……松脂?
いや、それだけではない。古い木材、そして高価なニス。
……間違いない、弦楽器の匂いだ。
しかもかなり大型の──チェロか?)
さらに匂いの層を深く剥ぎ取っていく。
松脂の香りの奥底から、鉄っぽい、生々しい匂いが立ち上ってきた。
(……血だ。それも、まだ固まりきっていない新鮮な血液の匂いが、
新聞の文字に混じっている!)
「ワンッ! ワンワンッ!」
ホームズはソファから飛び降り、
新聞の『文化・芸術欄』を激しく前足で引っ掻いた。
「きゃっ、ちょっとホームズ! 新聞をボロボロにしないでよ。
……あれ? そこって、今日の夕方から開催される
『ロンドン交響楽団』のチェロ・リサイタルの記事?」
ハートが新聞を取り上げる。
ホームズが爪を立てた場所には、若き天才チェリスト、
クリス・エヴァンスの写真が掲載されていた。
(ハート君、写真ではなくその文字を見るんだ!
印刷のインクに微量の血液が混入している。
おそらく、印刷所に奴の息がかかった者がいるか、あるいは──)
「うーん、クリス・エヴァンスかぁ。
格好いいけど、この人、最近スキャンダル続きなのよね。
……って、あれ?」
ハートはスマホを取り出し、お馴染みの超高速スクロールを始めた。
「写真記憶」のレーダーが何かを捉えたのだ。
「このチェロのケース……。
私、昨日、街の防犯カメラの映像チェックで見かけたわ。
ほら、これ!」
彼女が提示した画面には、大雨のロンドンの路地裏を、
大きなチェロケースを背負って足早に歩く
「黒マントの人物」が映っていた。
そのマントの隙間から、チラリと白い尻尾が見えている。
(モリアーティ……! 奴は今度は音楽界に手を伸ばしたか!)
「よし、決まり!
このイケメンチェリストが、
ファンにフラれた腹いせに会場で大暴れする予感がするわ!
臨検にいくわよ、ホームズ!」
(……だから、なぜすべての動機が恋愛の縺れになるんだ、君は! だが、現場へ向かうという判断だけは支持しよう!)
ホームズは小さく吠え、ハートの後に続いて雨の中へと飛び出した。
二人が到着したのは、重厚な石造りのコンサートホール。
開演までまだ数時間あるため、館内は薄暗く、
不気味なほど静まり返っていた。
「失礼しまーす、ロンドン市警ですけど……」
ハートが受付の扉を開けるが、返事はない。
ホールへと続く重い扉を押し開けた瞬間、ホームズの耳が捉えた。
──キィィィィン……。
調律の狂ったチェロの、耳を劈ざくような不協和音。
ステージの中央には、一挺の
美しいチェロが椅子に立てかけられていた。
しかし、演奏者の姿はどこにもない。
ホームズはステージへ駆け上がり、チェロの足元を調べた。
床には、激しい争いの跡。そして、楽譜が散らばっている。
(演奏者は連れ去られたか。だが、この部屋には
まだ──奴の匂いが充満している!)
ホームズが鋭い視線を客席の暗がりに向けた、
その時。
最前列のVIP席の背もたれから、
ひょっこりと二つの尖った耳が飛び出した。
オッドアイの輝き。
白猫モリアーティが、まるで特等席で観劇でもするかのように、
静かにそこに座っていた。
白猫はホームズを見ると、フッと喉を鳴らし、
前足で椅子の肘掛けをトントンと叩いた。
それはまるで、「早く私の謎を解いてみせろ」と促す指揮者のようだった。




