Episode 35:前編
Episode 35:前編
文字盤に滴る誓いと、閉ざされた電脳(L-O-V-E)
静寂の深夜、名探偵の決意
深夜2時、スコットランド・ヤードの広報課オフィス。
ロンドンの街が深い霧に包まれる中、ガジェットの明かりだけが、ポツンと一つの机の上を照らしていた。
(……今夜こそ、すべてを打ち明けねばならん。私が本当は人間であり、世界一の名探偵シャーロック・ホームズであること。そして……あの白い宿敵の呪いによって、このポケット・ビーグルの肉体に閉じ込められているという冷酷な真実を)
ホームズは、前足に固定するいつものスタイルではなく、自らの顎の力で「タブレット用タッチペンシル」をしっかりとくわえ込んだ。
人間の言葉を失った犬の肉体で、これまでの膨大な事件の経緯、モリアーティの陰謀、そして……いつも自分の拙い文字を斜め上に超翻訳しながらも、命がけで隣を走ってくれた相棒・ハナコへの本当の想いを綴るためだ。
トントン、ツーツー、ツツツツ……。
画面に、気が遠くなるほど長い「告白の列」が刻まれ始めていく。
滴るよだれと、赤いバッテリーサイン
ビーグル犬の習性とは恐ろしいものだ。
極限の集中力で文字を紡げば紡ぐほど、口元からはどうしても、だらりと「よだれ」が垂れてしまう。タッチペンの根元を濡らし、画面にポタリと落ちる透明な雫。
ホームズはそれを前足で拭う暇さえ惜しみ、ひたすら画面を叩き続けた。
何時間、そうしていただろうか。
気がつけば、タブレットの右上の輝くアイコン――**【バッテリー残量サイン】**が、危険を告げる真っ赤な色に変わっていた。
残りはわずか数パーセント。
(くそっ、電気の寿命が先か、私の脳細胞の記述が先か! まだ書き足りん! ハート君、君の驚異的な写真記憶なら、どんなに長い文章でも一瞬で網膜に焼き付けられるはずだ。だから私は、一文字も妥協せんぞ……!)
ハァハァと荒い息を吐きながら、よだれを滴らせ、ホームズは執念でペンを動かし続けた。
そして――。
ピタッ。
画面が完全にブラックアウトし、タブレットが冷たい机の上へ力なく倒れ込んだ。電池切れだ。
(……ここまで、か。だが、私の魂の叫び(ログ)は、フラッシュメモリの奥底に保存されたはず……)
ホームズは疲れ果て、口から外れたタッチペンを前足で「トントン」と虚しく叩き、画面の復活を祈った。
最悪のタイミングと、文明の利器禁止令
「ふわぁぁ……。ホームズ、こんな夜中に何してるの? 眠れないのかしら……」
奥の仮眠室から、パジャマ姿で眠い目をこすりながらハート刑事が起きてきた。
彼女の視線が、机の上の状況を捉える。
そこには、バッテリー切れで真っ暗になった最新型タブレット。
そして、その画面の上には、ホームズの口から垂れ流された大量のよだれの海。
さらに、その上でタッチペンをペシペシと叩きつけている子犬の姿。
ハート刑事の脳内回路(写真記憶)が、この状況を瞬時に最悪の形でロックオンした。
「あーーーっ!! ホームズ!! 何してるのよ、精密機械が壊れちゃうじゃない!!」
ハート刑事は慌ててタブレットを引っ掴むと、ハンカチでよだれをゴシゴシと拭き取った。
「そんなにヨダレまみれにして画面を叩くなんて、ただの悪い悪戯(ストレス発散)ね! 噛み癖がついたら大変なんだから!」
(違う! 悪戯ではない! 私は君に、私のすべてを……大英帝国の命運を懸けた告白を綴っていたんだ! 画面を立ち上げてログを見てくれ!)
「ワン! ワンワンッ!」
「ダメよ、吠えても許しません! そんなにデジタル機器で遊びたいなら……当分、タブレットは全面禁止です! 没収よ、没収!」
ガチャン。
無慈悲にも、最新型タブレットはハート刑事の手によってヤードの頑丈な金庫の奥へと封印されてしまった。
(あぁぁぁ……! なんという皮肉だ! 命がけの告白が、ただの『子犬のよだれ悪戯』として処理されてしまうとは……!)
かくして、名探偵ホームズは、一瞬にしてすべての現代科学を奪われ、文字を伝える手段が再び「知育おもちゃのアルファベットブロック」と「床に広げた新聞紙」という、最もアナログな暗黒時代へと逆戻りすることになってしまったのだ。
しかし、この「文明の利器禁止」のタイミングを狙い澄ましたかのように、ロンドンの街に、あの不穏な影が再び動き出そうとしていた。




