Episode 34:後編
Episode 34:後編
「ハニー・リングの救命浮輪と、洋上のチェックメイト(C-R-U-I)」
エンジン停止の洋上パニック
「ガガガガ……スン……」
タワー・ブリッジの目前、テムズ川の中央で、バーバラたちの乗った観光船のエンジンが完全に停止した。
密輸組織『ブラック・カレント』の放った燃料凝固剤が効力を発揮したのだ。川の流れに押し流され、制御を失った船がゆっくりと傾き始める。
「あわわわ! 船の心臓が止まったべ! これじゃ川の藻屑になっちまうべ!」
バーバラがドーナツの試作箱を抱えたまま叫ぶ。店員のトビーも「ひぃぃ、僕の黄金のハニー・リングが川に沈むー!」とパニック状態だ。
その時、並走していた不審船が強引に接舷し、黒いスーツの男たちがデッキに飛び移ってきた。
「騒ぐな! お前たちの命が惜しければ、そのままじっとしていろ!」
彼らの目的は、ヤードの目をこの観光船のパニックに釘付けにし、その隙に川底の廃パイプラインから密輸ダイヤモンドを引き上げることだった。
(……フッ。やはりな。だが、お前たちが足を踏み入れたそのデッキには、すでにロンドンで最も危険な『正義の嵐』が向かっているぞ)
ホームズがインカムの通信を切ると同時に、テムズ川の対岸から凄まじいサイレンの音が響き渡った。
前足の重量配分と、逆さまの「アイアン・リング」
「待ちなさい! テムズ川の生態系とドーナツの平和を乱す密輸ギャング、このハナコが『水上暴行の罪(?)』でタイホします!」
なんと、ハート刑事はヤードの超高速警備艇の舳先に立ち、ポニーテールを川風になびかせながら、ものすごいスピードでこちらに突っ込んできたのだ。
(ハート君、慌てるな! 敵は船の右舷に重心を集めている。このまま接舷すれば、船が転覆する危険がある。私が船のバラスト(排水)システムを操作して、傾きを逆転させる!)
ホームズは船のコントロールパネルに飛び乗り、前足で緊急バラスト排水のタッチ画面を操作した。そして、ハート刑事に見えるよう、タブレットのミラーリング画面に4つのコードを打ち込んだ。
[ C - R - U - I ]
警備艇から飛び移る瞬間、ハート刑事の網膜がその文字を上下反転でスキャンする。
「『I』『U』『R』『C』……イウルク! 鋳鉄! ……あーーーーっ!」
(また逆から読んだ上に、強引な力技に変換した!! 普通に『CRUISE(航行)』のバランスを取れと言っているんだ!!)
「分かったわ、ホームズ! これは、トビー君の持っているドーナツ(リング)を、**『重力100倍のアイアン・クロー・リング(IURC)』**に見立てて、敵の脳天へスマッシュしろっていう、お菓子系・粉砕コマンドね!?」
『――バーバラ、ハナコがまた狂った翻訳をしている! トビー君のドーナツ箱の横にある、本物の「鋳鉄製の救命浮輪」をハナコの手元へ投げるんだ!』
「了解だべ! 鉄の鼻輪、いくべぇぇぇ!」
バーバラはホームズのインカム指示を完璧にトレースし、デッキに掛けられていた頑丈な救命浮輪を外すと、フリスビーのようにハート刑事へと力一杯放り投げた!
(……完璧な連携だ、バーバラ! ハート君、そのリングを掴んで、船の右舷のバランスを物理的に叩き直せ!)
ハニー・ドーナツ・フィナーレ
「ナイスパス、バーバラ! 都会のドーナツの真髄、見せてあげるわ!!」
空中でバーバラが投げた救命浮輪をガシッと片手でキャッチしたハート刑事は、そのまま不審船のキャビンを蹴り上げ、密輸団の頭上へと舞い上がった。
「な、なんだあの女は!? 浮輪を持って降ってきたぞ!?」
そのコンマ数秒の瞬間、ホームズがバラストバルブを全開に解放!
ザザザザザーーーッ!!!
船の左舷から大量の水が排出され、船体が右側へ向かって急激に跳ね上がった。密輸団の男たちが「うわっとっと!?」と一瞬、完全にバランスを崩して宙に浮く。
「てりゃぁぁぁーーーーっ!!!」
ハート刑事の容赦のない、テムズ川の潮流すらひっくり返すほどの強烈な空中回転アイアン・リング・アタックが、男たちの構える武器を次々と直撃!
ボカッ、バキッ、ドカシャーーーン!!!
さらに着地の勢いのまま、ハート刑事の完璧な軸足から繰り出された後ろ回し蹴りが、リーダーの顎を捉えた。男たちはバウンドした船体の反動も手伝って、自分たちが乗ってきた不審船のデッキへと一網打尽に叩きつけられ、全員が揃って目を回して伸びてしまった。
黄金のリングが輝く場所
「おぉぉ……! 僕のハニー・ナッツ・ドーナツが、悪党を退治する『正義のリング』のインスピレーションになるなんて……! 感激です!」
店員のトビーが、無傷で守られたドーナツの箱を抱きしめながら涙ぐむ。
「よかったべ、トビーさん! これでホネホネビルの1階は、ロンドン一安全で美味しいドーナツ屋さんになるべ!」
バーバラもホームズを優しく撫でながら、満面の笑みを浮かべた。
まもなくヤードの水上警察が到着し、気絶した密輸団を全員逮捕。川底に隠されていた密輸ダイヤモンドもすべて回収され、テムズ川に再び優雅な静寂が戻ってきた。
夕暮れ時、タワー・ブリッジの向こうに沈む美しい夕日を浴びながら、観光船はヤードの警備艇に牽引されてゆっくりとドックへと向かう。
遠くの波間に、相変わらず優雅に毛並みを整える一匹の白猫の姿が、一瞬だけ見えた気がした。
奴はこの密輸ルートの利権を狙っていたのかもしれないが、オッドアイを少しだけ細めると、面白そうに川霧の中へと消えていった。
(モリアーティ……。貴様が水面下でどんな泥をすすろうとも、ハナコの純粋な正義のキックと、バーバラの素朴な信頼、そして私の論理(CRUI)がある限り、このテムズの流れを濁らせることは絶対にできんさ)
「すごかったわね、ホームズ! 今回の『居直り巨大イラクサ(IURC)』退治作戦! 広報課の次のポスターは、このドーナツを背景に『違反者は一網打尽』ってキャッチコピーにしましょう!」
ハート刑事が、試作のドーナツを美味しそうに頬張りながら親指を立てる。
(……だからイラクサではないし、普通に『CRUISE』と読みたまえ、ハート君。だが……そのトビー君の新作ドーナツ、なかなか悪くない味だ。ホネホネビルの『水揚げ』がまた上がるのなら、名探偵の洋上ビジネスとしては大成功かね)
「ワン!」と、夕日のテムズ川に響き渡る、世界一知的な生の声で一鳴きする名探偵。
凸凹バディと、素朴な令嬢、そして甘いドーナツの香りは、ロンドンの母なる川を優雅に渡りながら、次の輝かしい平和へと舵を切るのだった。




