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Episode 31:前編

Episode 31:前編


「森の迷宮と、鳴らない鐘の秘密(ボックス・ヒルの落とし物)」


喧騒を離れた森の静寂

ロンドンの喧騒を遥か離れた、緑豊かなボックス・ヒル。

広報活動での「美しき暴走車ストップ劇」から数日後、ハート刑事とホームズは、休養を兼ねたささやかなピクニックのためにこの地を訪れていた。


「あぁ、新鮮な空気……。ヤードの新型ガジェットが一つも鳴らない森の中って、なんて平和なんでしょう!」


文明の利器を一切持たず、ただ心身を休めることだけが目的。スマートウォッチもワイヤレスマイクも、すべてヤードのロッカーに置いてきた。唯一の持ち物は、おにぎりが入ったバスケットと、ホームズの小さな赤い首輪だけだ。

しかし、彼らがシートを広げたその木陰のすぐそばで、異変は起きていた。

一人の年配の女性が、必死の形相で茂みをかき分けている。


「ああ、困った……。あの大事な、あの大事な鍵を……。どこで落としてしまったのかしら……」


言葉の通じない、純粋な捜索

ハート刑事は、彼女の異変にすぐさま気づいた。しかし、彼女の「写真記憶」は、現代社会の雑多な情報の波を断ち切られた今、自然の鼓動を読み取ることに特化し始めていた。


「どうしたのかしら? あの方、何か大切なものを落としたみたい」


ホームズはピクリと耳を立てた。この状況において、彼には「探偵の推理力」という最強の武器しかない。そして、言葉を話す機械がない今、彼が使うのは「犬としての本能」のみだ。


ホームズが静かに立ち上がり、老女の足元へ近づく。

彼女はホームズの接近に気づかず、茫然と立ち尽くしている。


(ハナコ、言葉で説明する余裕はない。まずは彼女の意識を、我々が『捜索』という意図を持っていることに向けさせるんだ)


ホームズは、老女の靴の先を、鼻先でコツンと優しく、しかし確かなリズムでつついた。


「あら、可愛いワンちゃん。ごめんなさいね、今は構ってあげられないの……」


(違う! 私の背中を、君のその人間らしい観察眼で追うんだ!)


ホームズはさらに老女のスカートの裾を、今度はガッチリと、しかし決して破らない程度の力加減で、きゅっと噛んで横に引っ張った。


森の暗号(石の軌跡)

「あら? ……この子、あっちへ行けって言っているのかしら?」


ようやく老女が足を止める。ホームズは満足そうに頷くと、木立の中へと走り出し、また戻ってきては老女の袖を引くことを繰り返した。


ハート刑事もまた、無言でホームズの足跡を追い始めた。彼女の卓越した動体視力は、森の土に残されたわずかな「違和感」を、まるで写真のネガフィルムを反転させるように捉えていく。


(ここだ。この落ち葉の配列……誰かが通り過ぎた痕跡ではない。何かが、ポロリと落ちた瞬間に地面を弾いた跡だ)


ハート刑事は、周囲に転がっていた真っ白な小石をいくつか拾い上げると、地面に矢印の形に並べた。


「ホームズ、あっちの方角ね。落ち葉の沈み込みが、この石の並びと合致するわ」


「石を……並べてるの?」


老女は不思議そうに見守る。

ホームズは、ハートが並べた石の先に、鼻をスンスンと鳴らしながら、茂みの奥深くを指し示す。そこには、老女が探していた古い真鍮の鍵が、木漏れ日に反射して鈍く光っていた。


「ああ……! 見つかったのね!」


文明の機器をすべて手放し、言葉すら交わさぬまま、刑事と名探偵はただ「足をつつく」「袖を噛む」「石を並べる」という最も原始的な方法で、森の落とし物を見つけ出した。


しかし、その鍵を拾い上げた瞬間、ホームズの表情が険しくなる。

鍵のヘッド部分には、奇妙な『S』のマークが刻印されていた。


(これは……ただの家鍵ではない。もっと深い場所……、ボックス・ヒルの地層に埋もれた『何か』に繋がっている鍵だ)


森の静寂が、ふっと消えた。遠くで、何かが土を掘り返すような微かな音が聞こえる。

それは、嵐の前の静けさのように、不気味に響いていた。

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